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『哀愁しんでれら』考察     「母親になることと母親であることは違う」(倫理と道徳)      この映画で、土屋太鳳は鬼子母神=聖母マリアになった?!

 『哀愁しんでれら』を観た。

 衝撃を受けた、というより嫌悪感と怒りとが綯い交ぜになった感情に包まれた。映画を観て、こんな全否定の感情に包まれ、二度と見たくないと思ったことは初めてだった。

 原因はラストシーンだ。狂って同級生を死に至らしめた娘を守るためとはいえ、多くの無垢な存在たちに犠牲を強いるラストシーンは決して許容できるものではなかった。主演の土屋太鳳が出演オファーを三回断わったというのも当然だと思った。

 しかし、怒りに包まれ、まんまと渡部亮平監督の術中にものの見事にはまってしまっていたその時の私は、まだ小春や小春の父親たちが支配されている「人としてあってはならない」という世間一般の道徳的価値観にどっぷり浸かっていて、実は、物語の最後に小春、大悟、ヒカリが体現する倫理的な価値観とは遙かに遠くかけ離れていたのだ。

 そのことに、ようやく気づき始めたのは、翌朝だった。眠っている間も、『哀愁しんでれら』は私の脳内を駆け巡り、かき乱し続けていたのだろう。翌朝目覚めた後も、布団の中で、考えるでもなく、昨夜観た映像がぐるぐる頭の中を巡っていた。そのとき、突然、銀粉蝶演じる大悟の母親が小春に呟いた、「母親になることと母親であることは違う」という台詞が降りてきた。

 大悟の母親は、小学生の大悟の頬を殴り、ほとんど左の耳が聞こえない状態にしてしまう。それ以来、大悟は心理的に母親を遠ざける。小春の母親は、小春が十歳のとき、突然「あなたのお母さんは辞めました」と言って、家を出て行ってしまう。この時、妹の千夏は一歳足らず、祖父はいるが祖母はいない福浦家には、決定的に母性が失われている。ヒカリが二歳の時の母親の交通事故死以来、父一人娘一人の泉澤家も決定的に母性が失われている。つまり、『哀愁しんでれら』の主人公たち、小春、大悟、ヒカリに共通するのは、三人がみな無意識に「失われた母性を求めて」いるということだ。

 ところで、小春、大悟、ヒカリの中で当座のところ母親になれるのは、小春一人だけだ(いや、三人の中で、始めから、徹頭徹尾後に語るイノセントな倫理的母性に拓かれていたのは、実は大悟だったのだ。2でれらで気づいた。後に触れる)。その小春は、母親代わりとして15、6年高校生になるまで千夏の面倒を見ている。つまり、福浦家の母性を一身に担っているわけだか、そうはいっても、小春は母親が何たるかなど何もわかっていないだろうし、千夏にしても小春に母親を感じたことは恐らくないだろう。つまり、「母親になる」ことがどういうことなのかまるでわからない一人の女性が、「母親になる」ことを強いられ、自らもそれを無意識に望んでしまい、それこそが女性にとってしあわせなんだと思い込んでしまう物語が『哀愁しんでれら』なのだ。そのことを証明するように、結婚式の場面で、ヒカリが撮影するタブレットに向かって、小春は「私が大悟さんとヒカリをしあわせにします」と満面の笑みで語っているし、ベッドで大悟に抱きついた小春は「私はちゃんとヒカリの母親になる」と呟く。

 しかし、どうやったら人は「母親になれる」のか?子どもを産んでも、それだけでは「母親にはなれ」ない。なぜなら、小春の母親のように、突然「あなたのお母さんは辞めました」と言って辞めることもできるし、大悟の母親のように、子どもに拒絶され、遠ざけられ「母親になれ」ないこともあるからだ。小春はどうやって「母親になっ」て、泉澤家に母性を回復するのか?毎日ヒカリのお弁当を作り、家事に励む小春。おそらく、指切りゲンマンまでして、大悟には「言わない」と約束した秘密を小春がばらしたことがきっかけではあるのだろうが、ヒカリは小春に反抗的な態度を取るようになり、赤ちゃん返りとも取れるような行動をするようになる。

 この赤ちゃん返りこそが、渡部亮平監督が観る者に仕掛けた一つ目の罠だ。ヒカリの赤ちゃん返りは、「良い母親にならなければ」という世間一般の価値観にどっぷり浸かっている小春の視点から見れば、彼女の精神をただただ追い詰めるだけのマイナスの行動である。小春に代表される世間一般の道徳的価値観をこれでもか、これでもかと逆撫でするようにという監督の意図を、ものの見事に体現するCOCOの完璧な演技によって、観る者はヒカリをものすごく性格が悪く、殺人も犯しかねない精神に異常を来した女の子だと思い込んでしまう。

 しかし、表面的には性格の悪いクソガキに見えるヒカリの内面の心理の奥底にまで踏み込んで、ヒカリ自身の視点から見れば、赤ちゃん返りは純粋に小春を母親として甘えている、小春との母娘関係を赤ちゃんから生き直したいと無邪気に思っているヒカリの願望の表われでもあるのだ。ヒカリは赤ちゃんなのだ。ピュアで、イノセントで、それ故に必然的に子ども特有の残酷さという毒も持ち合わせてしまう赤ちゃんなのだ。この点だけは、渡部亮平監督の変わらない軸なのではないか?

 だから、私もまんまと引っ掛かってしまったのだが、ヒカリが同級生の女の子を殺すなどということはありえない。翌日もう一度映画館に行き(2でれら)、パンフレットを買って読んで、初めてわかった。渡部亮平監督の演出の巧妙な点は、主人公小春の世間一般の価値観にどっぷり浸かった視点で物語を見させてしまう力だ。

 それを実現しているのは、土屋太鳳という女優の類い稀な演技力の賜物と言ってもよいだろう。小春はヒカリのピュアでイノセントな赤ちゃん性を、世間一般の価値観に則り、ものの見事に誤読し、「ウチの子がやるわけないでしょ!」と絶叫する。しかし、いくら絶叫しても、いや、絶叫すればするほど、ほんとうはヒカリが同級生の女の子を窓から突き落として殺したのではないかという疑いに包まれ、心底怖れ、怯えていることを露呈してしまう。

 この土屋太鳳の絶叫を、観る側の主観などという薄っぺらな一面で聞いてはならない。この絶叫こそ、ヒカリを信じたいけど信じられない(世間一般の道徳的価値観)、信じられないけど信じたい(倫理)という、小春の希望と怯えの両極を揺れ動く、微妙で繊細な感情をものの見事に表現し尽くした、土屋太鳳圧巻の演技なのだ。そして、この時点での
小春の心の大半を占めている、世間一般の道徳的価値観に囚われていることから生まれる怯えの感情と同化すればするほど、この物語を観る者もまたヒカリが殺人を犯すくらいに狂った子どもだと誤解する。この物語にもう一人登場するピュアでイノセントなヒカリの同級生、眼鏡をかけた読書少女が、「ヒカリちゃんは、人殺しなんかやっていません」とわざわざメモで小春に教えているにもかかわらず、その情報に「あれ?」と違和感を覚えながらも、観る者はヒカリが狂気的な罪を犯したということについては疑おうとしない。しかし、ヒカリは断じて同級生を殺してなどいないのだ。ただ純粋に小春に母性を求めているだけだ。

 では、小春はどうしたら「母親になれる」のか?それは、子どもを殴るという母親としては絶対にやってはいけないことをすることによって、つまり、「母親である」こととはまったく逆説的な仕方でしか実現しないというのが、『哀愁しんでれら』という物語の論理なのだ。

 小春は、世間一般の価値観に則り、怖れ、怯え、精神的に追い詰められて、衝動的にヒカリの頬を叩いてしまう。これは、大悟の母親が大悟にしてしまった行為の反復だ。ヒカリの頬を叩くという行為によって、小春は大悟の母親と同化し、つまり、小春は大悟の「母親となり」、母親に殴られたヒカリは「大悟となる」。①

 「言わない」と約束した秘密を小春が大悟にばらしたことの意趣返しのように、ヒカリは「殴ったことを大悟には言わないで」という小春の懇願を、当然のごとくピュアに裏切る。自分のトラウマとでも言うべき母親に殴られるという行為を、「ヒカリのためなら死ねる」とまで言い切る娘にされたことで、大悟は小春に「母親失格です」と宣言する。小春は家を出る。その小春に追いすがり、「お母さん、行かないで」とヒカリが泣き叫ぶ。これは、十歳の時母に捨てられた小春の反復だ。泣きながら小春に追いすがるという行為によって、ヒカリは小春に同化し、泣きすがるヒカリを見捨てるという行為によって、小春は小春の母親と同化する。つまり、この行為によって、ヒカリは「小春になり」、小春は「小春の母親になる」。②

 小春は、「あんな母親にはなりたくない」と常に思っていた、自分を捨てた「母親になる」。小春は絶望する。実家に帰るが、もはやそこは小春の帰る場所ではない。小春は大悟と初めて出会い、大悟の命を救った鉄道の線路に横たわり自殺を図る。が、間一髪のところで、大悟に救われる。物語ではいっさい説明されないのだが、「母親失格」を宣言された小春が自殺を図る場所が初めて大悟と出会った踏切というのも現実的に考えたら変だ(ということは、物語的に読まなければダメだと渡部監督は示唆しているのだ)。また「母親失格」を宣言した大悟が小春を救うという行為に出るという、この二つの行為の間にある天と地ほどの落差、そして、その落差を一気に超えるコペルニクス的回心ともいえるジャンプについては、じっくり考えてみることがほんとうは必要なのだと思う。
 「お母さん、行かないで」と泣き叫んですがったヒカリは、小春に拒絶されたその足で大悟の元に直行し(映画では大悟の傍らで泣きじゃくるヒカリの姿が描かれるだけだが)、この後ヒカリは小春を連れ戻すように泣いて大悟を説得するだろう。このとき大悟とヒカリは、ピュアでイノセントな真の父娘として初めて向き合うことができたのだと思う。しかし、渡部亮平監督はそのような心理的な説明をいっさい放棄する。ただ、ヒロインの小春が線路に横たわり、それを夫の大悟が救えば、すべてがわかるだろうと。『哀愁しんでれら』の物語の論理では、線路に横たわるという行為によって、母親に捨てられたヒカリでもある小春は「大悟になり」、線路に横たわった小春を電車が通過する間一髪のところで救うという行為によって、小春に頬を殴られたヒカリでもある大悟は「小春になる」のだ。つまり、この場面において、小春と大悟とヒカリとは完全に同化している。一つになっているのだ。③

 ①、②、③の一連の行為によって、娘のヒカリは父親の大悟とも義母の小春とも同化し、夫の大悟は妻小春と、妻の小春は夫大悟と同化し、小春は大悟の母性も、小春自身の母性も、ヒカリの母性も回復する。ここにおいて、小春、大悟、ヒカリは完全な家族となり、小春が「母親になる」ことによって、小春、大悟、ヒカリそれぞれにとって「失われていた母性」も回復される。

 そのことを象徴的に示しているのが、大悟が描き貯めているスケッチブック『Family』だ。一つの家族として完全に同化したことの記念としてであるかのように、大悟は妻小春と娘ヒカリの母子像画(渡部亮平監督は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』をイメージしたかもしれないが、その場面での土屋太鳳はダ・ヴィンチの描く聖母子像画のように神々しく美しい)を描く。ここで強調されるのが、小春の胸というより、明らかにおっぱいだ。スクリーンに露わになることは当然ないのだが、8歳の娘に26歳の若い義母が胸を晒すというのは、明らかに異常だ。しかし、このシーンが小春、大悟、ヒカリの精神の異常性、狂気を象徴しているわけではないことも明らかだろう。小春のおっぱいが象徴しているのは、もちろん母性である(結婚直後、一緒にお風呂に入ったヒカリが小春のおっぱいに触ってもいいと尋ねる場面があるが、これはヒカリの赤ちゃん返りの伏線なのではなく、ヒカリの失われた母性への憧れを示すものだったのだ)。一つの完全な家族になることによって、小春、大悟、ヒカリそれぞれにとって失われた母性が回復されたことを象徴しているのだ。

 それでは、小春、大悟が母性を回復したにもかかわらず、いくら娘ヒカリが人殺しの疑いをかけられたにしても、ラストの凶行に突き進んでしまうのはなぜか?その問いに答えるには、やはり、「母親になることと母親であることは違う」という大悟の母親の言葉を思い出さなければならない。

 「母親である」ことは、小春の母親のように、辞めようと思えば、いつだって辞めることができるし、大悟の母親のように、子どもに母親だと思ってもらえなくなれば、いつだって何の効力も発揮しなくなる。「母親である」ことを保証するものは、実はこの世には何も存在しないのだ(もちろん、母親のところに何を入れても同じだ。「○○である」ということを保証するものは、この世には何も存在しない、「私が私であること」を保証するものも……)。

 「母親である」ことを保証する根拠は何もない。だから、一瞬ごとの今、自分自身が命懸けのジャンプをして「母親になる」しかないのだ。誰に認められる保証もなく、いつ駄目になるかもわからない暗闇の中を、その時その時一瞬ごとに、「今、母親になる」と覚悟を決めながら、命懸けのジャンプを繰り返す、無償、無根拠の愛に拓かれること、それこそが「母親になる」ことなのだ。

 その意味で、「母親である」というのはやさしさだけでも良いが、「母親になる」というのには、ただ単にやさしさだけではなく、自分の子どもを守るためなら、世界全体を敵に回しても戦うという覚悟、鬼子母神としての母性が必要なのではないか?最初観たときにはぜんぜん気づかなかったのだが、ベッドの中で小春が「私はちゃんとヒカリの母親になる」と言ったとき、大悟はすでに「ヒカリのためなら死ねる、世界とも戦える、この命も捧げられる」とこの覚悟を語っていたのだった。実は、大悟こそ、最もイノセントな母性に始めから拓かれた人物だったのだ。

 小春の胸に象徴される、豊かな母性というものは、あまりにも子を思う気持ちが深いために、必然的に過激で、攻撃的な負の一面も持ってしまうのだ。それは、村中の子供たちを食べ尽くして恐れられていた鬼子母神が、お釈迦様の話を聴くことをきっかけに、誰からも愛される慈愛に充ちた母性を取り戻すのと、まったく同じことなのだ。鬼子母神とは、母性の究極の二面性、最も攻撃的な凶暴性と最も慈愛に充ちた愛情を象徴的に示す神なのだ。でも、母親の愛ゆえの凶暴性は、子どもの愛情表現が時に過激に、攻撃的に現われてしまうことがあるのとまったく同じで、ピュアでイノセントという点では、どんなに対称的な存在に見えたとしても、子どもと母親はまったく同一の存在なのだ。

 子どもはひたすらに母親の愛情を求めて無邪気に泣き叫び、母親はひたすら子どもを守ろうと自らの身を危険に晒す。仲違いしていて、まったく真逆の存在に見える小春とヒカリも、イノセントという視点から眺めると、まったくの瓜二つだ。だから、小春がイノセンスに拓かれた鬼子母神=聖母マリアとしての「母親になる」という覚悟を決めて以降、『Family』のスケッチからラストの教室の場面まで、小春とヒカリはまったく同じように穏やかなのだ。大悟はもとより聖家族として二人のイノセンスに完全に同化している。

 このイノセントな母性をものの見事に体現しているのが、眼鏡の少女に、「ヒカリちゃんは、人殺しなんかやっていません」というメモを渡されたときに、小春の顔に一瞬よぎる謎めいた笑みだ。それは、「ウチの子がやるわけないでしょ!」という絶叫に匹敵するほど、複雑で微妙で繊細な感情を、謎として観る者に提示している。ヒカリの無実を証明しようとしてくれる良い子だから助ける、実際には見てもいないくせに、ヒカリが殺したに違いないという思い込みだけでヒカリを追い詰めるヒカリの好きな男の子は悪い子だから懲らしめるというのでは、世間一般の道徳的価値観(鬼子母神の凶暴性)そのものだ。ここでの小春の微笑は、もはやそんな道徳的価値観に支配されてはいない。
 自分の子どもを守るためなら、世界全体を敵に回しても戦うという覚悟というのは、良い子だから助ける、悪い子だから懲らしめるという道徳的価値観からは無限に遠い、自分の子どもを守るためなら、どんな善人だろうが、どんな悪人だろうがすべて滅ぼす、悪魔が相手でも闘う、例え相手が神であろうと畏れない、自分は一人でも闘うという倫理的な覚悟(慈愛に充ちた鬼子母神=聖母マリア)なのだ。土屋太鳳は、そんなイノセントな母性を、一瞬の笑みでものの見事に表現し尽くしている。ここでの土屋太鳳は、鬼子母神のように、聖母マリアのように、慈愛に満ちた表情をしている。土屋太鳳のこの表情を確認するためにだけ、私はまたしても映画館に駆けつけてしまった(3でれら)。


 童話は本来残酷だ。しかし、それは童話を聞く子ども本来が持つイノセントな残酷さの反映であり、童話を読んで聞かせる母親が子どもを守るために本質的に持つイノセントな残酷さの反映なのだ。ペローのサンドリヨン、グリムの灰かぶり姫からイノセントな残酷さを奪ったのは、世間一般の穏当な道徳的価値観だ。

 道徳と倫理は、一見似ているが、実は真逆だ。道徳は世間一般で正しいとされる、みんなに合わせる価値観だ。掃除はしなければならないという道徳は、先生がいなければみんなでサボることもできる。世間では、みんなが正義だから。それに対して、倫理は、たとえ誰も協力してくれなくても、誰も褒めてくれなくても、汚い教室で次の日を迎えるのは嫌だから、私は自分一人でも掃除するというものだ。

 『哀愁しんでれら』は、倫理的な作品だ。渡部亮平監督は、倫理的な監督だ。渡部亮平監督は世間一般の道徳的価値観にマッチした『シンデレラ』では失われてしまった、本来のイノセントな『しんでれら』、ペローのサンドリヨンやグリムの灰かぶり姫が持っていた、ピュアで倫理的な残酷さ、「この子、家族を守るためなら世界全体を滅ぼしてもかまわない」という無償、無根拠であるがゆえに、豊かで最強の母の「愛」を描いたのだ。

 だから、ラストシーンが「狂気」に支配された凶行に見えてしまうとしたら、それは『哀愁しんでれら』という作品にイノセントで倫理的で豊穣な母親の「愛」で接するのではなく、子育てを放棄している母親を非難していた、かつての児童相談員の小春のように(そして『哀愁しんでれら』を観終えた直後の私のように)、世間一般の道徳的価値観で接してしまっているからなのだ。

 『哀愁しんでれら』は小春、大悟、ヒカリが道徳的に決して許されない凶行に走る「狂気」の物語なのではなく、小春、大悟、ヒカリが世界全体を滅ぼしてもイノセントな家族を守るという倫理的な「愛」に拓かれる物語なのである。母親の子どもへの豊穣で強固な愛は、世界全体を焼き尽くす(そのような、世界全体を滅ぼしてでも大切な人を守るという究極の倫理的な「愛」を描いた作品としては、永井豪の『デビルマン』⑤のラストを参照して欲しい)。

 渡部亮平監督はその世界全体を焼き尽くす母親のイノセントな愛の豊穣さを描きたかったのだと思う。その表現の仕方が、ラストシーンに描かれた悲惨な出来事で伝わるかは疑問ではあるし(大悟が医師であるということにこだわれば、ああいう結末にならざるを得ないが……)、もっと違った世界の滅ぼし方があったのではないかとも、無い物ねだりで思ってしまうが……。
 
 『哀愁しんでれら』は道徳的な児童相談員の凶暴な鬼子母神小春が、倫理的な慈愛に充ちた鬼子母神=聖母マリアの「母親になる」物語であった。そして、この作品を観る者たちに、作品の最初から最後まで世間一般の道徳的価値観で観ることを押し通させてしまうくらい、土屋太鳳の、田中圭の、COCOの演技は、知的で、繊細で、洗練された、素晴らしい演技なのだ。

 田中圭は天才的にピュアでイノセントな俳優だ。「ヒカリのためなら死ねる」という娘へのイノセントな思いをピュアに演じ切っている。

 それに対して、世間一般ではピュアでイノセントな女優と思われている土屋太鳳ほど、実は、演技の一つ一つに考え、悩み、真摯に向き合う真面目な女優はいないと思う。ある意味、道徳的な女優なのだ。でも、そんな彼女の奥底に、世間一般の考えるピュアさとは異なる、真のイノセンス、「この役を演じるためなら世界全体を滅ぼしてもかまわない」という豊穣で強固な「愛」が存在することを、渡部亮平監督は見抜いていたのだと思う。そんな監督の期待に、土屋太鳳は完璧に応えた。おそらく、どこかの瞬間で「小春になる」と覚悟を決めたのだと思う。四度目に台本を読んだとき、「小春が誰か私を生きてと探しているような気がした」とインタビューで土屋太鳳は語っていた。

 「母親である」という道徳的価値観を食い破って、「母親になる」というイノセントな世界へと拓かれてゆく『哀愁しんでれら』という作品において、女優土屋太鳳は「小春になる」という一回性の奇跡を体現してしまっている。そのドキュメントである『哀愁しんでれら』は、奇跡的な傑作である。一度と言わず、二度、三度繰り返し観て、奇跡的にイノセントな「しんでれら」の世界に浸って欲しい。その時には、くれぐれも、渡部亮平監督の素晴らしい演出、土屋太鳳、田中圭、COCOの見事な演技の術中にはまって、道徳的な解釈に陥ることがないように……。

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