見出し画像

ビールとバーボンとタバコの中には何もなかった〜白馬の王子様はワクチンを持って現れる〜

晩酌と素人監督のTV野球中継のボヤキ

昭和生まれの僕が過ごした、幼少期から学生を経て社会に出る頃は、仕事の疲れを癒す晩酌と、テレビの中ではプロ野球やプロレス向かって素人監督がボヤいていた高度成長期からバブルを迎えた時代だった。

そんな僕も学生になってお酒を嗜むようになった頃には、バーでバーボンを片手に夢を語り合ってみたり、ディスコで日常のストレスを発散していた。

先日とあるテレビ番組の中で小説家の方とビールメーカーの社長さんとの対談で最近の若者はビールを飲んでくれない、ビールの世界に入ってきてくれないと話してました。「昔はビールの中に夢も希望もあった」と。

高度成長期で「頑張れば報われる」「頑張ればそれが手に入る」そんな時代に、誰もが右肩上がりの未来しかない時代に、ビールであれ、路地裏であれ、会議室であれ、軒先の井戸端会議であれ、夢も希望もそこらじゅう、日本じゅうに溢れかえっていた。当然、そんな時代を生きてきた、バブルを通り過ぎた世代はきっとまたいつか、頑張ってさえ入ればいいこともあるはずだ。いいことがないはずがない。そんな事を胸に秘めながらこれまでと同じ様に「ビールを片手に野球中継に野次を飛ばし」ながら、またいつもと変わらない会社へ出かけていく。もういつもと違うあの時代は消えて幻になってしまったというのに。そんな時代をずっと引きずりながら、きっといつか、きっと誰かが、きっと時代が、きっと日本が、また悪い様にはしないだろう。

けれど、あの頃の夢といえば与えられた夢、誰かにもらう夢。車が手に入るとか、美人の奥さんをもらうとか、給料が上がるとか。もっといえば病気や事故がなければ死なない夢かもしれない。

生まれた環境で将来が決まる時代が始まった。

僕の幼少期は、明日のことなど考えられなく来る日も来る日も深夜ラジオの中で「小さなコミュティ」に参加し孤独を温めながらギターや、漫画、車など何かにしがみつきながら暮らしていた気がする。ラジオパーソナリティの言葉に勇気をもらい、歌の歌詞の中で夢をもらい、ただただ、生きることの意味を探していた時代だった。高度成長期は公害を生み出し、バブル終焉は富の格差を生み出し、生まれた環境で将来が決まる時代が始まった。

不良少年が挫折を期に、東大を目指し、弁護士になって、弱者となった若者を東大受験で引き上げるという漫画を原作としたドラマの続編が再び始まった。時を同じくして東大受験をテーマに予備校講師をされてる方や、現代の魔術師と言われる時代のトレンドリーダが所詮たかが紙一枚の「大学受験」。これは貧富や生まれといった格差を関係なしに「全てを平等に公平に」審査する現代の唯一の手法だと話していた。

「必死にもがいてる姿を」見せてこそ

今の若者と来たら。今の若者は。そんな台詞は流石に最近は聞かなくなったけれど、その代わりと言うのか「今のZ世代は」「次の世代に夢を託そう」「デジタルネイティブはきっと日本を変えてくれるはず」。そんな事を語りながらこれまたビールを片手に語り合っている。俺たちは闘った。俺たちも努力した。俺たちだって上に意見した。俺たちだって労働組合を立ち上げた。俺たちだって投票に行った。俺たちだってデモに参加した。そんな僕も60年代に闘った世代の丸まった背中を見て育ってきた。屈辱と妥協の時代だった。

オトナは時代を諦めて、他人を批判し、物を批判し、時代を批判し、自分を慰めながら、肩を落とし丸めて寂しい背中を子供達に見せながら生きている。オトナがグダグダで何をやろうとしているんだ。なにを意見してるんだ?

もっと楽しい事を「努力して遊んで」「頑張って遊んで」「一生懸命にサボって」見せてやろうじゃないか。そんな底辺のクズであろうとも「必死にもがいてる姿を」見せてこそ、残した心残りも引き継いでもらえるんじゃなかろうか?そうやって夢を背中で語るんじゃなかろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?