《さらざんまい考察②》吾妻サラの救いとループ、カワウソの真実とレオとマブ《ネタバレあり》
・始まりと終りが帰結する吾妻橋
本作において吾妻橋はとても重要な場所だ。物語が始まり、終わる場所でつながりそのものである。その名を冠する吾妻サラは弟橘姫であり、そして織姫だ。さらに言えばサラは本作品における”心”であり、この物語の中心でもある。
弟橘姫(オトタチバナヒメ)はヤマトタケルノミコトの妻であり、東征の際に荒れ狂う隅田川に身を沈め、その嵐を鎮めたという。残されたヤマトタケルノミコトが「我が妻よ」と呼びかけたことが土地の由来だという。
橋の名称は、東のあずまが由来とも、吾妻神社の参道へ通ずるためともいう。
吾妻神社は現在浅草の外、橋を渡ったスカイツリー側の墨田区に存在している。
そしてケッピは浅草のカッパ橋の真ん中に眠っていた。川の外と内で隔たれたカップル…二人は彦星と織姫(星の王子様とお姫様)なのだ。愛ゆえに引き裂かれた二人が川を超え出会うこと、願いをかなえる力…モチーフはいくらでもあるが、吾妻サラはアイドルであり神である。水神であり巫女(=毎朝の占いを行う)であり、人々はその本当の姿を本当の意味で見ることが出来ていない(一稀に成り代わられたとしてもファンは気づかない)。
しかしまた同時にアイドルという個人に対する無関心にも気づかされる。アイドルはアイドル然としていることが求められているだけで、実際人として求められていることとは異なる、人間(特に女の子であることが多いが)に信仰対象としての役回りを求めている状態の揶揄だろう。
そんな神的存在の思惑は計り知れないが、一稀・悠・燕太の3人を救ったことで、ケッピ…ひいては世界が救われた。3人の輪が保たれ、3人の心が救われ、絶望と向き合う姿を見たケッピが己の絶望と向き合い、悟りを開いたものとして顕現する。
浅草寺の本尊は聖観音菩薩である。ケッピは3人を引いて仲見世通りを本道から雷門(外)に向かって走る。吾妻橋は雷門からまっすぐとはいえないが、すぐ近くにかかった橋だ。向きから考えて、ケッピは本尊だろう。
よってケッピが絶望と接続した後の世界は仏教的価値観の復興であり、菩薩の再来によて衆生が救われた世界である。
仏教的価値観とは、中庸だ。白黒つけることを迫ることが嘘を生むのだ。この世に完全なる白も完全なる黒も存在しない。あるのはただとてつもないグラデーション状の数えきれない種類のグレーだけだ。
河にはあらゆる意味がある。弟橘姫のような災害に対する人身御供の場所や、近代化以前の自殺の地(高層ビルや機械がなかった時代の主流であった)、ケガレを浄化する・身を清めるための場所、そしてあの世とこの世といった二つの世界の狭間だ。
なにより、水は生命の源であり、さらに死のイメージもつきまとうものではないか。
その二つの世界にかかった橋はどちらに属することもない、グラデーションそのものだ。グラデーションが故にどんな色と繋がることができる。悠が河に飛び込んだ瞬間、橋姫であり水神である吾妻サラが目覚め、吾妻サラがケッピを求めることで3人の縁が強化されハッピーエンドにたどり着く奇跡が生まれたのではないだろうか。おそらく吾妻サラ(愛)の加護のない世界では悠は入水のために飛び込んだのだろう。吾妻サラは愛の象徴、愛が橋となるのだ。
・警察の隠蔽・釈放=私刑のススメ
レオマブは犯人を逮捕する現行犯の写真を常に手に持っている。なぜレオマブが警察に勤務しているか?それは人を疑う職業であり、権力がありウソの力も増幅するからだ。公権力に隠蔽が行われてしまえば個人にできることなど限られてしまうだろう。<⇒参考:死刑と人の罪 《感想》「HER MOTHER 娘を殺した死刑囚との対話」>
また、死体は河から上がっているようだ。第1話のハコゾンビ以外は場所がはっきりと言及されないが、レオによる銃殺のはずだがすべて”変死体”とされている。これは自宅で発見され形を保てなくなった孤独死に多くつけられるものだという。(『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』より)
これはさらざんまい考察①でまとめたカパゾンビの生まれる過程から予想したものだがあながち外れではないだろう。ハコゾンビの死因は孤独のもたらした死なのだ。
また、レオマブが警察に属していることは物語上のレトリックとして久慈兄弟の逮捕を遅らせる理由にもつながるが、しかし私刑を行う存在としても描かれているのが不可解である。これは暴走する正義ではないか。
かの悪名高き特高は我が国における暴走した正義そのものだ。6話に現れるカワウソ-カッパ戦争の浮世絵において、シン・ゴジラを模したような巨大なカワウソが倒しているのは関東大震災の折倒壊したとされる凌雲閣(なお凌雲閣は8話で誓と燕太が歩くときに碑が映される)、その最上階にはケッピがおり、レオとマブがいた。関東大震災は社会の混乱により嘘の蔓延、差別の加速、虐殺が蔓延り、国家と世論は大戦へと生き急ぎ、多くの罪を犯し、自らもボロボロになった。その罪は未だ禍根を残しているもすでに反省をしきらずに加害者側としての痛みを忘れようとしている。
レオマブの登場するシーンは全て手品のようだ。言葉に映像に、あえてレオマブの見目麗しさに覆い隠された部分に本当の大事なものが隠されている。それは戦争(あえて言うなら人の命を金に変える禁断の錬金術だ)へ向かおうとする国家のが常に使う手だ。それを監督は確信犯的に盛り込み、騙される国民を視聴者と同一にしている。漫然と娯楽を得たつもりでいることが罪という構図はどれだけ恐ろしいだろうか、いや現実はさらに恐ろしい。何もしないことが罪なのだ。
多忙や薄給、今苦しんでいる作られた不幸や誰かに見せられた霞にとらわれることなく、現実に迫る闇に目を向け平和に生きたいという欲望を晒す時なのかもしれない、それが未来を作るのだから。
余談にはなるがレオマブが臣民の制服や、制服を身に纏うのは女子人気ということもあるだろうが同時に制服のもつ意味を考えさせられる。ヒトラーは制服の意匠が見るもの着るものに与える意味をよく知っていたのだから。⇒関連:スティーブン・キング作 ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)
・カワウソは嘘、帝国、概念、そして集合的無意識
カワウソが帝国でありカッパが王国である理由は前述の大日本帝国のそれで間違い無いだろう。大日本帝国は自国にない資源を他国への侵略にて補おうということを行なったのだ。これはまさにエネルギー資源を求めてカッパ王国や人間を殺し尻子玉を奪うカワウソの目的と寸分たがわず一致する。さらに帝国の罪はそれを大義としたことだ。大義の御旗のもとに侵略戦争が聖戦と化したことだ。
最終的に資源は底をつき、神風特攻隊が生まれた。大義という嘘の名の下に若い人の命が石油の代替品として消耗された。そしてもちろん、敵の命も奪った。これは第二次大戦の敗戦国すべてが陥った現象だったが一種の熱狂状態だ。何かに取り憑かれたように、負けを認めないために、被害を最小限に抑えるということを拒否しだす。勝てる見込みもないのに、虚構の新聞を刷り民は騙され、《欲しがりません勝つまでは》を唱え疑問を呈すことを許されない。そこにあったのはなんなのか、カワウソで嘘で現実を見たくないという逃避への願いがここに降り注ぐ再生産されたドゥールズ/ガタリの集合的無意識だったのかもしれない。
その前に踊る目を惹くレオマブがいたとして、レオマブの悲劇に涙を浮かべるならばその背後に存在する嘘も受け入れなければならないだろう。
東日本大震災ののち差別心は膨れあがり、恐慌/低迷した景気に嫌気のさした若者たち、未来への鬱屈感は大戦前の関東大震災の後とかわらない。
さらざんまいは最終話でレオとマブが照らした道そのものだ。その光に気づく責任がある。
また、カワウソに取り憑かれるもはねのけた燕太と、つながりがなければ取り込まれていた悠の違いについて少し考察したい。
燕太は、一稀のことが好きだ。報われないことは怖れているが、同性だから『愛してはならない』のような決まりごとに囚われてはいない。臆病ゆえ妄想に閉じこもっているが己の欲望に嘘をついていない。
反面、悠は兄についていくことが全てだと信じ込むために己に嘘をついている。悠は実際のところ誓がいなくても金に困らない儲けの才能がある。悠が強迫的に囚われているのは、誓の《弱いもの、消えたものは忘れ去られ、上書きされる》《この世は悪い奴が生き残る》という言葉だ。
この言葉を真実にするために、悪の道で誰よりの悪にならなければ生き延びられない枷を己に課す羽目になる。そういった実力主義・資本主義の欺瞞に取り込まれていたのだ。そこがカワウソの入り込む素地となった。己に嘘をつくことが当然になると他者から与えられる嘘の味がわからない。そうして悠は円の外に最も近づいてしまったのだ。
こういった欺瞞が多く蔓延っている。そこから抜け出すには、多くのつながりみ触れ、自分に自問自答を繰り返し嘘と真実を見極めることでしか己を守れないのだ。
人は自分の望む嘘は歓待して身の内に呼び込んでしまうのだ。カパゾンビになった者たちも愛する者の形を得た存在に嘘でもいいと身を委ねてしまったのだろう。
参照記事:
いじめられっ子たちが上村君を殺すまで【川崎中1殺人事件の真相】
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53702
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