子どもによって私にしてもらっている

と、本当に思わさる←北海道弁


今関わっている小学生たち。
関われば関わるほど面白い。
関係性が浅い私に対して試し行動がエンドレスな子や、初見で膝に乗ってくる子、ツンケンしてるけど実は気になってるとか…
自分の分析グセが発動して、感覚を刺激されている。
本当にありがとう、と思って楽しい。
脳が動いている感じ、楽しい。
まぁ、試し行動については正直疲れるしイラっとくるけど。


福祉から離れて改めて、対人コミュニケーションの難しさや日本の空気をよまなきゃならん風土とか、人と接する面白さとか、気づかされたこともあったけど、
福祉に戻ってまた子どもたちに気づかされる面があった。
「子どもといる時の自分は自然体なんだな」と思う。
単に自分が幼くて直球で分かりやすい、あぁ子どもと同じだからか、と思っていたけど、
子どもの存在によって、自分らしさが出せているんだと改めて思った。


入口は先生と子どもという立場で、指導する側される側という、ある意味支配する側される側の関係性だったが、徐々に子どもと関係性を作る自分に自信を持って接することができたので、余計に自分開示出来るんだと思う。
本当に子どものおかげ。
子どもと接するのが得意、というのはこの最初の「支配する側される側」という大人にとっての関係性の入りやすさはあるんだと感じる。
手っ取り早く最初から優越的な立場だからだ。


これは自分の母親もそうだったと思う。
絶対的に支配出来る自分の娘には自分のすべてをさらけ出していたんだろうなぁ、と思う。
小さなカウンセラーをやりながら、あたられる場面もあったので。
衣食住を与えられ、お金もかけてもらったけど、カウンセラーとサンドバッグもやってたなぁと思ったりする。あと妙な緊張感のある家。
そこに娘の私はNOという選択肢は無く、全部受け止めなければならないと思っていたし、それに答えることで母親からの愛情みたいな依存を受けていたんだと思う。そりゃおかしくなるわ。
本当に「嫌だ」とは言えなかったし、嫌だと言っていいという選択肢が本当に浮かばなかった。それは母への裏切りになるから。
夜の夫婦生活の愚痴まで聞かされた。本当に嫌だったわ。
そら変になるわな。

まあ結局毎回この話に結び付くのだが、母もそれを依存と思ってやってなかったと思うし、これが一番怖いのだ。本人たちが共依存だということに気づいていないという恐怖。わぁホラー、マジで。


この「関わる相手が子どもだから自分を出せている自分」に気づいた時も母親と同じだ!ということで非常に嫌悪感を抱いていたのだが、(この嫌悪感も結局同族嫌悪で私は自分の嫌な所と似ていると嫌なんだなぁとつくづく思うけど、わぁ、他人は自分の鏡だね)
最近は「子どもに『私という個を作ってもらっている』なぁ」と思うようになった。
そして子どもというのは明らかに嫌なことを分かりやすくしてくるので、いきなり蹴られる、頭を叩かれる、背中をどつきにくる、「クソババア」などその場で怒りがすぐ出せるのかもしれないな。
ババアは認めるけど、クソは余計だ!と反射的に言い返す。

これが対大人だと後から考えて「あれ?ジワジワやだな」と思わさるので自分の怒りに気づかないし、どうしても場の空気を読もうとする染みついた感覚がある。いい子をやろうとするのだ。あー嫌だ。これは訓練だなぁ~と思う。

そこで最近読んだ本『推しの文化論』に繋がるんだが。
推し活について。
まずは自分が何かに依存しているということを自覚するということ、そして人は必ず何かを使用することで主体化(自覚や意思に基づいて言動出来るようになる)していっている。それを自覚することで、使用したものや人に対して敬意や慈愛の念が産まれてくる。
自己の主体化に困っている人が他者や物に対して敵対心を持つことで生じるのがレイシズムなどの支配関係になる、と。


あーもーこーゆー話大好きなんだよなぁ。
人の心理、本当に面白い。

と、今日から早起きチャレンジしている早朝の思考を書いてみた。(3時から起きてる、極端、早すぎ)


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