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【感想】刀ミュ東京心覚 -水面に月が宿るまで-

演劇は時空間芸術。
確かにそこにはあったのに、形には残らない。
役目を終えたセットは解体され、映像作品として世に残るのは、カメラに収めることができたもの。
編集を経て選ばれたもの。

「それ」は、5年後、10年後、100年後、どうなっているだろう。
無くなっているだろうか。続いているだろうか。いつまでも名を残すのだろうか。
その先をきっと私は知ることはできない。
しかし、たとえ形になっても、ならなくても、残らなくても、確かに「それ」はそこに存在していたし、誰かにとって「何か」になり、大いなる流れの中で流転していく。
世界を巡る水の流れみたいに。

※おことわり※

・この記事は、私がいつも書いているような考察のようなものではありません。最初から最後まで感想です。それらしいことが書いてあっても、それは書き手の主観や推論でしかありません。
・いつもの考察記事と比べると、あまりにも不親切な散文です。何でもありな方のみどうぞ。

「静かの海のパライソ(2020年版)」に関する情報を踏まえた文章があります

ミュージカル「刀剣乱舞」の新作公演「東京心覚」の幕が下りたのは、2021年5月の下旬のことだった。
私は今まで人生の大半を何かを鑑賞したり、観測する行為に充ててきたが、
そんな中で幾度となくあったような、
あるいは幾度あったかどうかわからないような、
よくわからない感情の揺れ動きに戸惑いを覚えたまま、終演を迎えた。

あたりを見回してみると、
思いっきり共鳴できたり、あるいは楽しむことができた人もいたようだし、
いまいちノリきれなかった人もいたようで、実に様々だった。

私個人としてはどうだっただろう。

大事なことは言葉にせず、一番大事なことを言葉にしたこの演劇は、
自分にとっては、わりとしんどい作品だった。

舞台の幕が上がったのは3月のはじめ。
あの日、刀ミュから八重山吹の花枝を手渡された私は動揺した。とても。
深く深く埋めて見ないように生きてきた記憶とか感情が呼び起こされて、傷口から熱が滴るきつい夜だった。
涙がつまった膿をぐじゅぐじゅ搔き乱されて、何をするのも忘れた。

でも、不思議なことにチケットを手放す気にはなれなくて、
劇場に足を運びながら、配信を見ながら、公演を観れない日でさえも、
呼び起こされた記憶ともつれた感情を粘土のようにこねくりまわし、考えていた。

心覚って何なんだ?
自分は心覚を通じて何かを見ようとしている。何を?

*   *   *

ふだん意識するようなことはあまりないけれど、
世界はどうしようもなく途方がなくて、分からないことばかりで溢れている。
そしてエンタメは矮小な私の頭にいつも何かの啓示をくれた。
傲慢極まりない知識欲をいくばくか満たしてくれるだけでなく、
情動とか、認知能力みたいなものを授けてくれたり、
存在すら知らなかったものの糸の先っぽを握らせてくれた。

だから私は心覚に対しても知りたいと思っている。
金と時間と気力と体力とを引き換えに対峙した物語の、何に心打たれて、あるいは何に心惹かれなかったのか。
私が得た「これ」は何か。
どうして「あれ」を思い出してしまったのか。
理解できなくても、知りたいと思っている。

文章を編むという行為は、それを確認するための私なりのひとつの手段だ。

変わらないものは、事実と、形になったものだけだ。
名付けられたものや言葉だってそう。
物語や歌や音の旋律なんかもそう。

茫洋としたまどろみは、名を与えて線を引くことで定義される。
残した事実は足跡になる。綴った言葉も。

だから、何かの決着をどうにか付けるために、
思考を手探って、一個一個輪郭を付けて、並べていく。
水心子がしたように、この目で観測した物語を私なりに定義して定位していく。

心覚について、そのように、いつものように書いてまとめていこうと思う。
私が受け取ったこと、勝手に読みとったこと、そして考えたことを書く。

今回も、全部が独り言。

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◆1.小面の少女と山吹/刀ミュと能

冒頭シーン、水心子は既に記憶が混濁しているので、
瞼の裏に浮かんだ「誰か」の面影と「紅皿」とを混同してしまっていた。

紅皿とは「常山紀談」「太田持資歌道に志す事」に登場する、貧しい農家の娘だ。
俄雨に降られた道すがら、蓑を所望した太田道灌へ、
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌を添え、庭に咲いていた山吹の花枝を手渡したその人である。

八重山吹は、花は咲くけれども結実することはない。それゆえ「実のひとつだに なきぞ悲しき」なのだが、紅皿は「実の」に「蓑」を掛けて蓑一つすら貸すこともできないことを訴えた。
道灌は和歌の意味が分からず、また蓑ではなく花を寄越されたことに怒ってしまうが、後日、この事を知った家臣に、歌に託して伝えたかった彼女の想いを教えられ、自分の無学さを恥じたそうだ。

このエピソードはおそらくフィクションであるとされているが、
歌人として名高い道灌が、最初から歌の道を志したわけではなく、
ある一種の「エンタメ」と、そしてそれを識る人との出会いによって価値観を変えられたのだとみるとなかなかに興味深い。
なお、紅皿は、その後道灌に歌の朋として召し抱えられたとも、寵愛を受け、妻妾の一人となったとも伝えられる。

*   *   *

「小面」
と呼ばれる能面がある。
若く清らかな女性の役に使われる面だ。

通常、能面は何者かに成る為にかけるものだが、
本作においてはその逆で「特定の誰かの顔を隠し、抽象化する」ことを目的にかけられているようだ。

小面の少女は、実在したかもしれない「誰か」であり、今となっては特定しようもない「誰か」だ。
あるいはこれから出会うからこそ知ることができない「誰か」なのかも。

彼女は、頭上から落ちてくる一筋の砂の流れを見つけ顔を上に向ける。
これは「オモテラス」……つまり笑みを浮かべていることを示すのではないかと思う。

砂と戯れるように舞う少女は、
彼女の存在に戸惑う水心子に向かって勢いよく振り返るのだが、
あれは、能における「面を切る」動作に相当するんじゃないだろうか。

もし、あれが「面を切る」ならば、
彼女は憤り、怒っている。

誰に?何に?現実に?水心子に?
「歴史」を守ろうとする刀剣男士に?
それとも?

*   *   *

能と花で思い出したことがある。
トライアル公演の二部MCで、三日月宗近と小狐丸が、能楽に明るくない加州清光に世阿弥の「風姿花伝」についてレクチャーするシーンがあった。
この奥義書で、世阿弥は芸の道を志す人間の成長を花に喩えて記している。

誰もが持つ、若さという魅力で華やかに咲き誇る「時分の花」は、老いるにつれて必ず散ってしまうが、たゆまぬ鍛錬と創意工夫を経て花開く「まことの花」は、決して枯れることはないという。


◆2.「通りゃんせ」雑考

童歌「通りゃんせ」は、埼玉県川越にある三芳野神社と縁深い歌といわれている。
室町時代に川越城を築城し、三芳野神社を城の鎮守としたのは太田道灌だ。
江戸城を築城した際に、彼は川越にあった山王社を江戸の鎮護のために勧請した。

そして安土桃山時代に江戸城に入城した徳川家康は、
かつて道灌が祀ったその社(現在の赤坂日枝神社)を江戸城の鎮守と定め、
徳川将軍家の守り神として篤く崇敬したという。

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

(引用元:Wikipedia「通りゃんせ」2021/3/15参照)

「天神さま」というのは、京都の北野天満宮に祀られた天満天神―――菅原道真のことを指すとされる。
菅原道真は、崇徳天皇、そして平将門と合わせて「日本三大怨霊」に数え上げられることもある。
(大典太光世を有していた加賀前田家は、菅原道真の子孫と言われている)

「通りゃんせ」は、第二次世界大戦後に歩行者用信号機のメロディSEに採用され、だんだん減少しつつはあるものの2021年現在でも運用されている。


冒頭シーン、水心子が降り立った「東京」という場所でも「通りゃんせ」のメロディSEは鳴っていた。
そこには青色に変わった歩行者用信号機があり、歩く人の「流れ」があるのだろう。「点」は動き「線」を成していく。

◆3.水心子正秀は線を引く

刀ミュの水心子正秀は、山形の南陽生まれの刀鍛冶・川部儀八郎正秀ではない。
川部儀八郎正秀———号して「水心子正秀」が江戸で創り出された刀剣の付喪神だ。その生涯の中で作り上げた300を超える刀剣のどれかであり、あるいはそのすべてかもしれない。
彼が探求し遺そうとした古刀復興への情熱をコアに宿して顕現した「刀剣男士」だ。

水心子正秀「私は刀、あなたは人。違う存在なのだ」
(引用元:「刀剣乱舞-ONLINE-」)

刀剣男士の水心子正秀は、彼自身と人間である審神者の間に線を引く。

でも、
おぼろげに渦巻く思考を手探って、思いついたことや考えたこと、
新たに得た知見をまとめ、推論するという作業。
そして引きずり出された記憶やアイディア一つ一つに輪郭を付けて、並べていく作業。
そして、その先に「何か」を見出すという行為。

心覚の中で彼が試みようとしたことは、人の営みと然程も変わらないように感じる。

◆4.三日月宗近という機能

結局のところ、刀ミュは三日月宗近の物語なのだろうか?って考えたことはある?
「また三日月か」って思ったことはある?それとも、無い?

最初期は一作で限りなく完結するようになっていた刀ミュの本公演は、
「三日月宗近という機能」という謎を埋め込むことで「シリーズ作品」としての繋がりをより強固にした。

私は三日月宗近が好きだ。
でも好きなキャラが不遇な目に遭うのはあまり好きではなくて、
三日月の悲しい笑顔はできることなら見たくない。
好きなキャラはたくさんメディア露出してほしいけど「現れ出でたる義経公、さしたる用も無かりせば」みたいな扱いをされたら怒る。これからもそうならないことを切に祈っている。

メタ的なことを言ってしまえば、三日月宗近は刀剣乱舞というIPの顔のような存在だ。わかっているよ。
でも、彼をミステリーの軸として観客を引っ張っていくような構成には、彼がずっと苦しみのスポットライトを浴びているような作劇には、わりと複雑な感情を抱いている。こちらだってずっと苦しいんだよ。

◆5.なぜ水心子と三日月が?

刀ミュでは、三日月宗近と何らかの形で対比・対立構造を成す(or 成した)刀剣男士がいる。
加州清光、小狐丸、蜂須賀虎徹、髭切、鶴丸国永、明石国行。
そして、それに水心子正秀も加わった。

なぜ水心子なんだろう?

「三日月宗近」の「三日月」は号で、「宗近」は作者とされる刀鍛冶の名前だ。「宗近という刀鍛冶が作った、三日月という固有名詞を持つ刀剣」ということだ。
刀ミュの三日月は、その名が示すように月になぞらえられることがある。
モチーフとして月が使われることもある。

対して、刀工の水心子正秀は自らを「水心子」と号していたが、
刀の銘には「正日出」「正日天」と刻むこともあった。

月と太陽。三日月と正日出。
だから水心子?
安直だろうか?
(確かに「日」の名を持つ男士なら既に日向正宗がいる)

しかし、三日月宗近は、歴史の荒波の中で幾人もの人間によって守られ遺されたモノで、
水心子正秀は、太平の世で失われつつあった武器としての刀剣の秘伝を収集し、自らの研究を世に広めたモノである。

そんな「物語」を持つ彼らは、
「伝える」「繋ぐ」「遺す」という部分で強く共鳴してしまうのかもしれない。そんな妄想をしている。

◆6.名前という定義/名が残るという事

人の「想い」は、
「呪い」にも「祟り」にも「祈り」にも「護り」にもなる。

ひっくり返してみると、
「呪い」「祟り」「祈り」「護り」とされているいずれも、
誰かに名付けられただけであって
すべて等しく名付けられた「想い」には変わりないのかもしれない。

「三日月宗近という機能」において、
名付けられたのは「三日月宗近」の方だろうか?
それとも「機能」の方だろうか?

*   *   *

定義付けという意味では、自己紹介も重要なイベントになり得るが、豊前江は自己紹介をしていない。
パライソの初演ではやっていたのだろうか?

*   *   *

そういえば「刀ミュの豊前江」は、原作ゲームとは異なるあだ名で江のものたちを呼ぶよね。
どうして?
豊前の存在は刀剣男士になった今もゆらいでいるんだろうか?
豊前があだ名をつける男士とそうでない男士に規則性ってあるんだろうか?

*   *   *

「名もなき草」という名でも名付けた誰かの存在がある。
雑草と呼ばれる草花にも本当はひとつひとつ名前がある。
たとえ名前を忘れられても草花はそこにいる。

歴史に名を残すことがなかったモブは、誰かの手で魅力的に描かれることはないかもしれないが、不本意な形で脚色され、祀り上げられ、利用されたり生かされることもないのだな。何だかそんな意地悪なことを思ってしまった。

語られることと語られないこと、どちらが幸せ?

◆7.「わっかんねー」物語構造についての考察

21世紀の今、時は不可逆だ。
はじまりはいつだって過去にあるけど、人間は生き、行き進むばかりで、戻ることはできない。

しかし、刀ミュの刀剣男士のはじまりは、過去であって過去にはない。
彼らの進む線は(そしてメタ的に言えば「伏線」と呼ばれるものも)時代の流れに対して縦横無尽に錯綜する。
東京心覚は、複雑に張り巡らされたそれらをひも解いて、明らかにするという話なのかもしれない。

それにしては、観客に対してとても不親切な作りをしていたように思う。

わからないのだ。わかりづらいのだ。
そしてなぜ「わからない」ようにしたかもわからないのだ。

*   *   *

「わからない」「理解しがたい」ということは、それだけでストレスになることもある。
わからないことに対して人は容易に恐れを抱く。
わからないものと自分の間に線を引く。
そして、それは時に排斥に繋がることもある。

「わっかんねー」加減が心地良かったり、
「わっかんねー」部分に興味を感じられたら『楽しい』に繋がる可能性もあるけど、そうじゃない場合は悲劇だ。

本作は初日公演がインターネット上でライブ配信されたのだけれど、
豊前江の台詞を借りる形で「わっかんねー」とTwitter上で声を上げる観衆が少なからずいたようだ。
全容は分からないけれど、私も自分のTL上でその流れの一筋を見ていた。

*   *   *

本作では「インメディアスレス」と呼ばれる技法(「時系列シャッフル」という呼称の方が知名度高いかも)が使われている。
物語は、時系列順に、つまり過去から未来に向かって進んでいくことが多いが(これを「アプオーヴォ」という)、
インメディアスレス形式の作品では一つの物語の中で時間と空間が入り乱れる。

おそらく「わっかんねー」に寄与していたのは(そして原因となったのは)
このインメディアスレスじゃないかと私は思っている。

私は何かの物語に触れる時、登場人物のいずれかに感情移入しながら没入していくことが多い。
だからその集中がスパスパぶった切られやすいインメディアスレスは、不親切な構成のように思うことが多い。
好きか嫌いかと問われると、圧倒的に好きではない。

この技法を使うことが最適解だったのだな、と心底納得させられることもある。
しかし納得しながらも「やっぱり好きじゃない」と思うこともある。
つまり、わりと複雑な感情を抱いている。
結局、使い方と使いどころの問題なのかもしれない。

それに更なる拍車をかけたのが刀ミュの最初期から用いられてきた
「アンサンブル・プレイ」と呼ばれる演劇の一様式。
これは複数の登場人物が作中で同等の重要性を持つというものだが、
第1作目「阿津賀志山異聞」から、シリーズにおける絶対的な主人公を持たない刀ミュも、これに当てはまると言っていいだろう。

本作の主人公はたぶん水心子正秀だと思うんだけど、
他の7振りの刀剣男士も主人公と変わらないくらいの重要なキャラクターとして描かれている。
そこにもっと明らかな差や線引きがあったなら、この物語はもっとわかりやすいものであったに違いない。

でも、そんな心覚って見たい?それとも見たくない?


◆8.なぜ「わっかんねー」ようになったのか?

この作品は、水心子の記憶と認識を中心に、様々な場面が連想ゲームのように継ぎ合わせられた前半部と、
その中で「何か」に気付いた水心子が「失われたものと友のため」に、歴史の流れを遡りながら答え合わせをしていく後半部から成る。

明確に語られない言葉や、観客に明かされない情報はあまりにも多いし、前半部においては時系列と主観が入り乱れている。
しかし、いわゆる「不条理演劇」には該当しないように思った。作中で非論理的といえるようなことは起きていないからだ。

*   *   *

水心子正秀のかつての持ち主の一人であり、
江戸城の無血開城に大きな役割を果たし、日本という国そのものを列強から守ろうとした勝海舟

徳川家康の側近として開府の場所を江戸に定め、そしてその地に平将門の怨霊を封じることで結界を張った南光坊天海

室町時代の終わりに、関東管領を支える一族のひとりとして江戸に城を築いた太田道灌

そして平安時代中期、
関東地方を制圧して新皇を名乗り、朝廷の支配から自立しようとした平将門は、湾曲した形のあの刀剣———日本刀をはじめて実戦にて用いた武将とされることもある。

現在から過去へ、川の流れを逆行するように物語は進む。

しかし、結局、
水心子が探し求めた「誰か」の正体は明らかになることはなかったし、
彼が記憶のフラッシュバックの中で見つけ出し、問い直そうとした「何か」も作中で明言されることは無かった。
刀ミュシリーズの最重要人物のひとりである三日月宗近が、何か大きな問題と共にこの物語に影を落としていることも示唆されたが、そのいずれも存在を匂わせられるだけにとどまった。
意味深に登場する花々が何を意味するのか、示されることも無い。

「天下五剣」と括られた刀剣男士は相変わらず全て登場しないし、「この国(日本)で三本の指にはいる霊力の持ち主」のうち2人は現れない。

本作ではBGMにクラシックからの引用が見られたが
「三大レクイエム」は「死の子守唄」(子守唄…!)の異称を持つ
フォーレの「Pie Jesu(ピエ・イエス)」しか使われなかったし、
ベートヴェンの3大ピアノソナタだって残り一つが欠けている。

この作品は、この作品だけでは完結しない。作中で生じたいくつかの重要な疑問には、丁寧な解答が与えられないようになっている。
登場人物たちは何かを理解したようなそぶりは見せるものの、観客に対してそれが開示されることは無い。

「〇〇は◇◇なんじゃないか」
「〇〇って××らしい」
「〇〇は▽▽かもしれない」

観客同士の考察や妄想を駆使した交流は、いつにも増して加速していく。

◆9.理屈をつけようと思えば、ぐにゃっとしてても五芒星に見えてくるよね

ヒトの脳というのは基本的には怠けられるなら怠けようとするので、
分かりやすく、心地良い答えが差し出されると、それに飛びついてしまおうとする。飛びついてしまいたくなる。

世界はそんなに単純にできていないというのに。
線で繋いでも意味はないかもしれないのに。

五芒星とか北斗七星とか、それっぽい意味を見出して、完成させて納得してしまわないでほしい。
曖昧なものにすぐ白黒つけようとしないでほしい。
「ぐにゃっとしてる」部分に疑問を持ってほしい。
「わかる」「わからない」と安易に決めつけないでほしい。
光が当たっていない面に心を寄せてほしい。
陰謀論や伝聞に惑わされることのないように。

水心子が地図を広げたあのシーンは、そういうことも言いたいんじゃないかと、私は勝手に思っている。

◆10.「わからなさ」と「やさしさ」

だがしかし、分からない状態というのはなんとも居心地が悪いもので、
私は山吹の花びらをむしってむしってバラバラにして、
あるか無いのか分からない表や裏に目を凝らしたり、花脈を日に透かしたり、花のうてなに乗っている何かを見定めようとする。

何度観たってこの作品で答えは提示されないのに。
刀ミュの三日月宗近は真意を語らない男であるのに。

*   *   *

今月上旬、刀ミュのメイン脚本を務める伊藤氏は、本作がコロナ禍の状況を踏まえて書いた物語であるところを明かした。
(刀ミュを冠する場ではなく、いちゲストとして出演したトークイベントで明かしてしまうというのは、良くも悪くもこの方らしいと思う)
そして最初から「散文」的な物語だったとも。

その話を聞いて、
この作品の「わかりづらさ」にNoを突き付けるとしても、褒めるにしても、
やはり評価の線は安易に引くべきではないのだな、と思っている。

芸術作品に対してどのような評価を下すかは、もちろん鑑賞した人それぞれに委ねられているけど、
いくつもの矛盾を内包し、無数の線が張り巡らされた心覚は、決して単純な言葉でぶったぎれるような作品ではない。

手放しに褒める姿勢は、おそらくよろしくない。
作品の語りの不親切さや、そこから生じる問題を見落とすことにつながりかねない。

かといって「わからない」ことをただそしるだけでもいけない。

考えてもみてよ、
東京心覚がコロナ禍で苦しむ観客にエールを送るという意図があるなら、
もっと「わかりやすい話」にした方がよかっただろうか?
本当に?


◆11.人生を「物語」として消費するということ

エンタメによって現実を突きつけられる体験は好きか嫌いかと問われると、
少なくとも、私は好きではない。
つらい現実を忘れたくて娯楽と戯れたい時はなおのこと。

分断も理不尽も不条理も、日常の中には当たり前のように転がっているのに、それをわざわざ板の上で演じてみせる必要はある?
そこに果たしてリアリティはある?
リアリティを持たせられたとしても、エンタメとしては?
更に言うなら、刀ミュでそれをやる意義って何だろうか?

……なんだか私はおかしな話をしている。
自分だって、誰かの過去や人生や死を娯楽の中で消費しているのに。

*   *   *

「静かの海のパライソ(2020年版)」
は、島原の乱をテーマにしていたそうだ。
圧政を強いられ、信仰も取り上げられそうになった島原藩の農民たちが藩政に反旗を翻す。
一揆を起こし廃城だった原城を占拠し籠城する。
しかし幕府軍による総攻撃によって一揆軍は敗北し、一揆軍に参加していた約3万7千もの人間が、幕府軍と内通していた1人を除いて皆殺しにされる。老若男女問わず。
殉教の道を選んだ農民が斬首を受け入れたとする記録もあるようだ。

そんな大規模な内乱を主題とした物語。
観劇できた人から聞くところによると、それまでの刀ミュで最も壮絶で救いがない物語だったらしい。


私は娯楽を通じて、ほとんど無意識のうちに、誰かの大切なものだったかもしれない「何か」を「エモい元ネタ」として消費している。

そう思うとさ、心覚ってさ、
血の通った誰かの人生を「元ネタ」として扱うことに、ことさら自覚的だったように思えてならないんだよ。

現在進行形の災厄を無邪気に消費してしまうことがないように、
でもエンタメとして昇華するために、
丁寧に丁寧に考えつくされて、そしてあの「わからなさ」を伴うことになった。私はそのように思っている。


けど、
あの「わからなさ」を手放しに褒める姿勢はやっぱりよろしくないと思う。
作品の語りの不親切さや、そこから生じる問題を見逃すことになりかねないから。

そして、繰り返すけど「わからない」ことをただそしるだけでもいけない。
作り手たちが張り巡らした様々な配慮を見落とすことに繋がるから。

◆12.この物語は現実を浸蝕する

演劇は生き物のようだ。
上演され、積層していく物語の中で、その日にしか見られない再現不可能な景色がある。それがおもしろい。

心覚には、それに加えて現実世界の時間経過を意識させるような変化があった。

たとえば、道灌が小面の少女から山吹の花枝を受け取るシーン。
東京公演ではどこか不満気に顔をしかめていた道灌は、
東京凱旋公演では穏やかな微笑みを浮かべていた。

たとえば、清麿がにっかり青江の旅について話すシーン。
「にっかり青江単騎出陣」は心覚の開幕から約2か月後、2021年4月27日に始まったけど、
その日を境に「彼は旅に出るんだもんね」という清麿のセリフは「彼は旅に出たんだもんね」に変わっている。

そういえば、冒頭の小面の少女と水心子のシーンも、
東京公演と凱旋公演とで二人の立ち位置が逆になっていたね。
あれは意味があったんだろうか。どういう意味があったんだろう。

開演前、客席BGMとして流れていたのは
ベートヴェン「ピアノソナタ第8番『悲愴』」の第2楽章だった。
あれがノイズ混じりにフェードアウトして幕が上がったのもまた現実世界と物語世界の境界を融かそうとする試みの一つだったのかも。

◆13.そして水心子は、夢と現実の境界をぶち壊す

主に水心子のセリフの中に頻出する「線」という言葉。
作中のあちこちで浮かび上がってくる「線を引く」という行為。

線を引くことで何かと何かを繋ぐことができる。
「放棄された世界」で「誰もいなくなってしまったから道は要らないのかも」と言った桑名江は、
かつて誰かと誰かを繋いでいたかもしれない道をツルハシで壊すけど、
これはある意味境界線を無くしたと捉えることもできるかもしれない。
そういえば、土を耕して、耕地の表層と深層を入れ替える「天地返し」も境界線を無くしているような動作だ。

線を引くことで「こちら」と「あちら」ができる。何かと何かが分断される。
南光坊天海は、平将門の怨霊と戦い、封じることで江戸の地に結界を張ろうとする。
「東京」の地では、規制線と共に時間遡行軍が現れたり(あるいは退いたり)していたけど、「歌合 乱舞狂乱」の「黒き影、寇す」みたいだったね。
「東京」に天海の結界の残滓は残っているんだろうか?三百年の子守唄の残響はまだ聞こえているんだろうか?

線を引くことで境界が生まれる。
三日月の思惑を知るために、彼と同調しようとした水心子はあわや自我の崩壊を起こしかけたけど、名で自他を区別化することで自分を取り戻した。

村雲は、天海が結界を張るのを不満げに見つめていた。彼は線が引かれることによって「あちら」と「こちら」に分かれることを嫌う。

「あちら」と「こちら」ってなんだろう?
善悪とか正邪?真実と虚偽?
マスクを挟んだあちらとこちら?
劇場に来た人と来なかった人?
劇場に来られた人とくることができなかった人?
直接会える現地と画面越しの配信?
フィジカルとデジタル?
リアルとファンタジー?
現実と虚構?


改めて思い返してみると、
エンタメによって描かれる世界はすべて虚構だ。
いくらリアルに基づいていて、リアリティが備わっていたとしても、リアルそのものにはなり得ないし、
社会情勢の如何によって簡単に吹き飛んでしまう砂上の楼閣。

でもその虚構は時にとてつもない力を持っていて、非情な現実を生き抜くための命綱になったり、
社会や経済や思想とかに変化を与えて動かす超ド級の燃料になったりもする。

「Reality can destroy the dream. why shouldn't the dream destroy reality?」
(現実が夢を壊すことがあるなら、夢が現実を壊したっていいではないか?)という一節をジョージ・ムーアは書いたけど、

終盤の水心子のセリフはこれを地で行っているように思う。

「どんな理由であろうと君の決断を尊重するよ」
「君の想いは届いているからさ」
「傷つかないでほしいんだ。この時代に、現実に、君自身が選んだことに」
「結界は人の心の中にしか存在しない」

「わっかんねー」がそこかしこに蠢くこの物語の中で、
明確な意思を持って、観客へ向けて投げかけられる水心子の言葉。

メタいセリフは役者本人の言葉のようにも聞こえるし、
そのセリフを書いた人や、演出した人、演劇人たちの言葉のようにも聞こえる。
でも、やっぱり水心子の言葉にも聞こえる。

私はね、作者の主張をキャラにそのままセリフで言わせる試みはあまり好きじゃないんだけど、違うんだよね。
あのシーンはあれじゃないとだめだったんだよね。
メタな言葉じゃないと、境界線は超えられないんだよね。

舞台と観客席の間には「第四の壁」———人の想像が創り出した境界線が横たわっている。
水心子のメタなセリフは、それをぶっ壊すために絶対に必要なものだった。
「壽 乱舞音曲祭」の「獣」のラスサビ突入直前に加州清光が「届け!!!」と叫んだけど、あれと同じわけだよ。

刀剣男士はファンタジーのいきものかもしれないけど、
今確かにここにいるのだと。

信じるも信じないもその心次第だと、彼らは手を伸ばしてくれている。

◆14.三日月にもできないこと

刀ミュの物語世界で縦横無尽に暗躍しているように見える三日月だけど
そんな彼にも「俺にもできないこと」があるらしい。

(三日)月にできないことって何だろう?
照らせない影の部分があること?
己の裏側は照らせないこと?
小さな星々の光が見えにくくなること?
太陽が無ければ月は照ることができないこと?

◆15.「うつくしさ」/水面に月が宿る時

道灌は五月雨江に「美しいと思う心」を説いた。
人の手が加わっていない景色、草花、星や月を美しいと感じるのは、
「美しいと思ったものの心が美しい」から、と。

想いはそのものの心を如実に反映する。
まるで水鏡のように。

「水清ければ月宿る」という故事がある。
清らかで澄んだ水には月の姿が綺麗に映るという意味だ。

歴史を遡り、将門が新皇を名乗った真実を知った水心子(と清麿)は、三日月の真意を悟ったように見える。

「いとしいと想う心も歴史を繋いでいたんだ」

このセリフは例によって大事な部分が伏せられているんだけど、
私は
「(人の子を)いとしいと想う(三日月宗近の)心も歴史を繋いでいたんだ」
……じゃないかなと思っている。

三日月は既に歴史を繋ぐための機能として大いなる流れの中に組み込まれてしまっているのか?
つまりもう三日月ひとりだけの意思ではどうにもならないことがあるのか?
「失われたものと友の為」と水心子は言ったけど「失われたもの」って、もしかして三日月のことだったりしない?
じゃあ、彼を救えるように世界はできていないっていうのは、そんな!そんな……

◆16.明らかにしないということ

力あるものとして歴史に名を刻まれてしまった将門は、後世の人々に好き勝手に脚色されたり祀り上げられたり、怨念になったり神になったりしてその役割を果たし続けるのかもしれない。
オカルトめいた都市伝説が付きまとう天海もまたそうだ。しかしこの物語の彼は、結界を張った真実の理由を口にすることを拒んだ。
道灌は真意の代わりに歌を詠んだ。

そもそも勝海舟のようにストレートに言葉を伝えたって、意図したように伝わらないことはある。彼と水心子の会話は微妙に噛み合っていなかった。
もしかしたら海舟の言葉は誤解されたかもしれない。けど、水心子は三日月がいる場所までたどり着いた。

水心子はすべてをつまびらかにしようとした。
しかしそんな彼に三日月は「みなまで言うな」と諭す。秘すれば花……いや違うな。たぶん彼の矜持ゆえだろう。

「大事なのは想い」なのだと水心子は悟った。

想いは言葉にしないと伝わらないことがある。
しかし言葉にはしないことで、誰にも知られないことで守られるものがある。

ならば、やはり、差し出された山吹の花枝は、
そのどちらも取り込もうとしたやさしさそのものなのかもしれない。

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▽おわりに

心覚をはじめて観た日から半年間、折にふれて書き続けたいくつかの散文をまとめてみた。
今回は殊の外うまく書けなかった。
いつにも増して、何を書いても薄っぺらく感じてしまう。

何を書いても、あの作品をまったく適切に言い表せていないように感じる。
自分が好きだなと思った部分ですらまともに書けていないように思えて仕方ない。
なんとか引っぱりだした言葉も、文章として繋げた途端に霞んで見える。それを痛感している。

はじまりを告げる新たな「刀剣乱舞」、歌と芝居の積層、そして「はなのうた」。
「歌わずにはいられない」というあのセンテンス。
こんなにも心を打たれたのに、届かない。
いくら言葉を重ねても、観劇するたびに木っ端みじんにされていく。

芸術作品を観て、感じたことを文章にするという行動に何か意味はあるだろうか?
仕事でも課題でも何でもないのに。
私は私が見たいようにしか世界を見ることができないのに。
本質に触れたと思って、嬉々として書くことができたとしても、私のそれはきっと錯覚だろうに。

考え続けても答えは出ない。
しかし、考えずにはいられない。そして書き留めずにはいられない。
いつもそうだし今回もそう。

だけど、
『これはあくまでも私なりの解釈なのですが、』
…と、前置きをして語ることにいつにも増して暴力性のようなものを感じている。どうしてだろう。
それについても答えは出ない。



なんだか長い夢を見ていたような気がする。
東京心覚は終わって、過去の公演のひとつになった。

この目と耳と肌で感じたことを思い返し、反芻しながら何かを考える日々はじんわり続いている。
相変わらず答えは出ないけど、焦るのはやめた。

引きずり出された傷はいつかふさがると思う。
今は考えたくないことや忌避していることだって、きっといつか、只の記録や情報として振り返ることができるようになるはずだ。


東京心覚は、紅皿が道灌に差し出した古歌と山吹の花枝のような物語だと思った。八重山吹に実はならないけど、それになぞらえて伝えたかった刀剣男士や人々の想いは、ただ散るだけの徒花ではない。
儚くも力強い花と、猛々しく優しい鋼のメタフィクション・ファンタジー。
とてもしんどかった。わからなかった。でも出会えてよかった。

進むのはゆっくりでいい。
今は分からないことでも、いつか答えが出たなら、それでいい。

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とんでもない衝撃を受けた作品だったので、感想記事の一つくらい書けないでどうする?と思って半年のたうち回ってきました。
半年のたうちまわっても全く太刀打ちできず、思い直して、読みやすくまとめるのをやめました。
その方が自分の気持ちに近かったから。

こんな記事の書き方は今回限りです。

読みづらさしかない文章だったと思います。
ここまでお読みくださりありがとうございました。


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次回の更新は
「高野洸さんの歌声の変遷 -共感覚的見地から-(※マシュマロ回答記事)」になると思います。

▼刀ミュ関係の分析考察
・「歌合 乱舞狂乱'19」考:「彼」と「彼」が顕現しなければならなかった理由+三日月宗近の宿願について
・「歌合 乱舞狂乱'19」考:にっかり青江の軌跡と再話される物語(後編)
・ミュージカル「刀剣乱舞」の歌詞をテキストマイニングで分析する
▼それ以外の分析考察
・高野洸さんの歌声の変遷 -共感覚的見地から-(マシュマロ回答記事)
・「活撃 刀剣乱舞」×テキストマイニング(後編)
・刀工 備前長船長義および兼光の評価について
・花丸、活撃、刀ミュ、刀ステの「鶴丸国永」の全セリフを分析する
▼梅津瑞樹さん関係
・舞台 紅葉鬼(能「紅葉狩」刀剣「髭切」「山姥切国広」を絡めた)感想
・SOLO Performance ENGEKI 「HAPPY END」感想
・ミュージカル『薄桜鬼 真改』相馬主計 篇 感想

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