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抽象の力について

抽象画ばかりを描いていると、頭が少々いかれるというか、日常生活に支障がでる。これは描かなければわからない感覚だと思う。特に言語がおかしくなる。言葉があまり出てこなくなる。これは決定的にこれだという理由はわからないが、例えば永遠にランダムな形、不規則な色を配置し続けると、言葉で規制している自分の脳がたぶん壊れるからだろう。つまり繋がりを切って、自分の世界に埋没していく感じにはなる。

最近はたまに絵を描いても、二三枚で終わってしまう。だいたいはb4ぐらいの紙に適当に描いたりしている。

2018年にでた「抽象の力」という本がある。これは豊田市美で開催された美術展に岡崎乾二郎氏が付けたテキストだが、当時は相当面白く感じられた。

序文に岡本太郎、具体を批判し、きちんと流れていたはずの抽象の力を取り戻す、みたいなことが書いてある。この書き出しはすごい。なぜならほとんどの芸術家が岡本太郎を否定できずにきたから。私は関西に住んでいて、私が活動した範囲では具体が幅を効かせており、こちらも批判できる空気は今もない。

私が抽象画を描くプロセスを説明しておくと、大阪の上本町六丁目にある芸大受験のための予備校があるのだが、私はこの予備校は好きになれず、結局さぼったりして、あまりよい思い出はない。だが一つだけ惹かれる独特の手法があった。そこでは「色遊び」とよばれていたのだが、ただひたすら手法をかえて紙に色をのせていく遊びなのだが、私は大学受験を終えたあともたまにこの「色遊び」をしていた。むしゃくしゃしたときに内面の自己治療のひとつとしても役に立った。絵の具を大量に使う気持ちよさもあった。

そのうちに大学では神秘学に関連のある思想家を研究している教授と仲良くなることになる(だがそれは後悔することなる)のだが、そのときにオーラというか、そういうものの関連に一時期どっぷりになる。ここからそうとう私の人生は脱線してゆくのだが、これは置いておく。

とにかく神秘思想にどっぷりになってから、私にもオーラもどきがなんだか見えるようになり、それを表現する術はないかと考えるようになった。このオーラもどきは後々にメガネのレンズの具合だと気づくのには時間がかかるが、それでは説明できないものもたまには見えた。だが少々洗脳されていたのは確かだろう。

だが、私が思うにその人個人は普段は目に見えているが、それが他人にはおそらく見えない視覚現象の表現は、その見えている個人にとっては危険が生じそうな感じはある。ヒルマアフクリントなんかはこれをやってのけた。夢でも同じことが言えるだろう。

夢でえげつない化物に出会ったことがあるが、そのとき起きてすぐに筆の紙があったのにもかかわらず、できた絵が高橋留美子のボケた時の絵みたいだったときは自分に少々幻滅した。

この本はまずキュビズムからはじまるのだが、キュビズム特有の触覚から視覚への翻訳から読み解こうとする。これだけ書くとなんのことやらわからないが、いまやっている現代美術を言語から絵への翻訳だとするとキュビズムでは身体感覚によって、得られた情報を視覚化するといったほうがわかりやすいかもしれない。そこから漱石の文学論f+Fへと章が変わるのだが、面白いぐあいに、章と章の間が繋がっていないようで繋がっている不思議な感覚がこの本にある。

言語はなんでも翻訳できる、と勘違いしてしまう。上記のようになるのは言語では翻訳できないことを翻訳しようと努力せずに、そのままが書かれているからだとも言える。

抽象の力は何度も読み返したい本だと思う。

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