誰かのモヤモヤ、自分のモヤモヤ

こんばんわ。

最近あったこと、思ったことをつらつらと。

巷では例の流行り病が再燃し、感染者数が増えてきている。
ただ去年より一昨年より病に対する警戒や反応は小さく、
病に対して「順応」してきているように思う。

さて、先日ある演劇を見てきまして
戦前から戦中戦後が舞台の作品でした。

自分が度肝を抜かれたのは内容よりも演出だった。

舞台上でタバコは吸うし、おっぱいは丸出しだし、ゲロ吐いちゃうし、それそのままにしちゃうし、もうなんでもありだった。

数少ない観劇でも、ぶっちぎりでアングラだと思う舞台でした。

ストーリーも全体的に暗く、最終的に殺意に任せて殺すのでなく、
「生かす」ことに決めた主人公に釈然としなく、
ハッピーエンドでもバッドエンドでもない終わり方に首をひねりながら帰りました。


話は変わり、先日の選挙のはなし。

TwitterのTLでも「投票してきました」とツイートしているのを見ると、
少なくとも自分も含めて周りの友人たちは選挙を毛嫌いせず政治や選挙に参加をしていたことは幸いだと思う。

しかし、この選挙中に元首相が凶弾に倒れる事件が起きた。

ここ最近で一番センセーショナルな事件だと思う。

この事件で一番気になったのは、SPや県警の不手際とか、犯人の動機だとかそんなことはどうでもよくて、
「首相経験者が暗殺される」ことが戦後なかったということだ。

首相経験者に限らなければ、長崎市長銃撃事件(平成19年)や民主党議員の刺殺事件(平成14年)と直近でも起こっている。

だが首相経験者の暗殺事件は伊藤博文や原敬、犬養毅らがあげられるが、
「二・二六事件」を最後に「首相経験者の暗殺」はつい先日までなかった。

自分が「人を殺したい」という欲望はないが、
自分が堕落し、世間から見捨てられ、何も失うものがない所謂「無敵の人」になった際に、自分の嫌いな人や著名人を殺して、世間に一泡吹かせてやろうと思うのはなにも不思議なことではないよなと思う。


ここで先ほどの観劇の話に戻る。

観劇した作品では主人公が、自分の先生を殺すことを計画する。
自分の好きだった人は戦争や病で亡くなり、自分自身は堕落し、明るい世界ではいきられなくなったことを先生のせいだと恨み、丹念にターゲットの行動を把握し、殺す一歩前までたどり着いた。

先ず、人を殺すのは悪いぞと思った
しかし、悪い? 何が悪いの?
牛を殺して食って、悪いかしら?
いいや、人間は牛ではない、悪いとも!
だけど、悪くたって、それがどうしたの?
ー 善い悪いが私にとって ー 
人ではない、この私にとって、善い悪いがなにかしら?

三好十郎著 殺意(ストリップショウ)  青空文庫より

善い悪いは誰が決めたのか。
「正義」とは何か。

”「正義の反対はまた別の正義」である”という有名な言葉の意味は、自分はガンダムで学んだ。

主人公が所属する「地球連邦軍」が独立を望む「ジオン公国」と戦争をし、独立や地球の危機を阻止する話であるが、当然「地球連邦軍」が正義側で
「ジオン公国」が悪者側である。
とはならかった。

詳しくは割愛するが、「ジオン公国」の地球への長年の恨みが”独立”という正義を果たすために「地球連邦軍」を相手取って戦争を仕掛けた経緯を知ると、「ジオン公国」を一方的に悪者にはできないというわけで。

この先生を殺そうとする主人公も、元首相を殺した男も、自分の中の「正義」に則って行動していたといえよう。

このことを非難する人々は正しい。
「人を殺すこと(殺そうとすること)」は悪いことだ。

殺人は我が国でも重罪だ。
薬物などは国によって罪の扱いが違うが、殺人に関しては他の国でも重罪なことは変わりないだろう。

だから悪いことである。

ただ、法律では殺人罪の条文で「殺人を禁じる」ということは明示されていない。
あくまでも「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」と書いてある。

つまり、「人を殺してはいけない」というのは、法律や教科書に書いてあることではなく、「社会が感じているルール」であることがわかる。

実際に戦争中に敵兵を倒す軍隊や、死刑執行時にボタンを押す刑務所職員は、殺人罪に問われない。

(中略)

冒頭の流行り病の「順応」も、社会の雰囲気がそう感じるように、
マスクもソーシャルディスタンスも黙食も今は「正義」が幅を利かせているだけなのかもしれない。


あの演劇で観た演出の数々も、僕は初めてだったから戸惑ったし、
あそこで見たおっぱいも実際に出す意味も分からなかった。
だが、作品全体を彩るスパイスになっていると解釈し、自分なりの「正義」だと思うことにした。


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