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59. ミアン・サミ『教養としての投資入門』

 教養ということばに、どうも弱い。

 不惑が近づくにつれ、青年時代に描いていたオトナ像とのギャップを感じざるを得ない。特に、まわりの成熟したオトナたちや、あるいはオトナびた青年を見るにつけ、教養のなさをただただ感じる。だから、背伸びして仏教やら歴史やらにばかり手が伸びる。本当は、楽に稼いで、出世して、おまけにモテて、そんな人生を送れるものなら送りたいものだが。

 そうした教養コンプレックス、かつ富裕層にあこがれるぼくに直球で響いたのが、ミアン・サミ氏の『教養としての投資入門』だった。

 本書では、投資の基本を「自動投資」「楽しむ投資」「教養投資」の3つに整理している。

 「未来は現在より明るい」というほぼ確実な未来予想に依拠する、パッシブ投資をベースとした「自動投資」で、将来の安心を保証する。これには、インフレによる現金の価値の目減りから身を守るという意義もある。現金の長期保有も投資の一種であり、そのリスクの高さがこれでもかと強調されている。
 この「自動投資」の肝は「自動的」であり、入金から購入まですべて自動になるしくみの構築が必要だと説いている。ぼくは毎朝機械的に一定額の積立をしているが、著者からすれば唾棄すべき無駄な行為なのだろう。

 次の「楽しむ投資」は、ローリスク・ハイリターンの追求だ。ただ漠然とローリスク・ハイリターンを求めたところで、当然そのような都合のいい投資先は見つからない。勝率を50%のところから、少しずつ高めていって、やがては70%まで到達させる。そのために通る道が、経済の季節当てゲームであり、選択日記である。

 最後は「教養投資」だ。お金ではなく時間をじぶんに投資し、問題解決能力を高め、「生涯賃金」をアップさせる。これぞローリスク・ハイリターンだが、
 一方で、誰しもに平等な時間を効率的に投資しなければ、そのハイリターンは得られない。性格や社会のニーズから、やるべきこととやらないことをピックアップし、少数に絞ったやるべきことにとにかく集中する。
 その結果、たとえ失敗したとしても、スキルや経験という資産は残る。ハイリターンは保証されていないが、少なくとも元本保証ではあるのだ。

 投資の入門書と自己啓発書の合いの子といったところだろうか。これらが教養であるのかは正直わからないが、いま進んでいる方向性への確信はますます強まった。
 ただ、最近、同じベクトルの本ばかり読んでいる気もする。そろそろ、反教養、投機上等的な本をあえて読んだほうがいいのかもしれない。

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