仮に生きるとするなら

自死について考える参考に安楽死を扱った本を読んでいる。スイスに渡り安楽死を試みた女性の自著を読んだ。今は、法的に安楽死が可能な国で取材を続けたジャーナリストの本を読んでいる。

安楽死を希望する(した)人は、余命宣告を受けているもしくは、耐えがたい痛みがあり、それに改善の余地が無いことがほとんどだった。

実際に、自殺幇助を提供する団体では、安楽死を実施する条件として、耐えがたい痛みがあることなどが明記されている。

自分をふりかえってみると、今、耐えがたい痛みがあるかと問われれば、無い。
そもそも鎖骨あたりから下の感覚機能は喪失している。傷がつこうが火傷しようがわからん。痺れや痛みもない。

精神的な苦痛も最近は感じなく、鈍くなってきた。
少し前までは、受傷以前の生活とのギャップに苦しんでいたが、約2年半を経てようやく、以前の生活を忘れてきた。現状と比べる対象が無くなった。

社会と隔絶された、病院やリハビリ施設に閉じ籠り、snsに極力触れないようにする。
以前の当たり前の生活を想起させる情報から徹底的に距離を置く。
ニュースやドラマ、邦画やものによってはバラエティ番組やCMも見られない見たくない。
そうすることでようやく、以前の当たり前を忘れることができた。
1日に何度も惨めで情けない、クソみたいな気持ちになることが少なくなってきた。

現在は、辛くも楽しくもない、喜怒哀楽どの感情も起こらない、誰にも何の影響も与えない、密度激薄の日を過ごしている。

少し前に、誤ってLINE をタップして開いてしまったことがある。
同年代の知人友人の近況が目に飛び込んでくる。
結婚したり、子供が産まれていたり。同年代としては普通で当たり前の内容。

自分がとっくに諦めていた、忘れていた、「自分の家庭を持つ」ということが、本来は、当たり前にありえたのだと思い出す。
ああ忘れてたけど、俺ってわけわからんくらい不幸やったな。
自分の持つ表現力ではあらわしきれない、絶望感、徒労感、やりきれなさに襲われる。
現実がいきなり目の前に現れて、殴りつけてくるような感覚。

社会や他者と関わるほど、不意に殴られることは増える。
他と比べなければ、自分が不幸であることを認識できない。
社会や他者と関わってまでやりたいことがないので、これからも引きこもっていたい。

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