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遊びを遊ぶ。役立てること勿れ(役立てる為に遊ぶこと勿れ)

今年の投稿を既に半年以上もすっ飛ばしてました。最近、Processingをやってる友人を見つけて、触発されてすこしづつ再開しています。
最近の変化として感じたことをまとめておこうかなと思います。今日はプログラミングのお話は全然ありません。

あ、でも最近作ったやつも少し載っけておきます。
画像をモニョモニョさせて楽しんでいます。写真は見浜庭園で行われた『生態系へのジャックイン展』で撮ったものです。(とても良い展示内容でした)

役に立つ遊び

突然ですが、役に立つ遊びとはなんでしょうか?
知育玩具のような子供の知性を育てるもの?算数の計算問題がゲームのようになっているもの?または現在習得奮闘中のプログラミング?
そもそも役に立つってどういうこと?

今日の投稿はそんな遊びについてです。

遊びとは

遊びについて研究した人がいます。ヨハン・ホイジンガは著書『ホモルーデンス』の冒頭であそびの特徴を3つ上げています。

ホイジンガの遊びとは
 ・自由な行動である ー命令や強制によってされるのではない
 ・日常生活とは別の領域にある ー日常生活の一時停止
 ・完結性と限定性 ー定められた期間と空間の中で終わる

彼の研究につづいたフランス人のロジェ・カイヨワはホイジンガの主張に賛成しつつも『それだと色々大雑把だし、逆に定義が狭すぎるんじゃない?』ということで遊びを6つの特徴で定義します。ある程度は似ています。

カイヨワの遊びとは
 ・自由な活動 
 ・隔離された活動 
 ・未確定の活動 ー展開や結果が最後までわからないこと
 ・非生産的活動 ーいかなる種類の新しい要素も作り出さないこと
 ・規則のある活動 ー決められた独自のルールに従うこと
 ・虚構の活動 ー日常との対比として二次的な現実、または明確に非現実という意識を伴うもの

私は遊んでいたか?

ちょっとインテリっぽく学者様の著書をひっぱり出してみましたが、いきなり現実に戻ります。彼らの著書と合わせて藤原麻里菜著『無駄なマシーンを発明しよう!』を読んでみてふと自問しました。

『プログラミングを学んでいる時、私は遊んでいただろうか?』

実際いろんなものに興味は湧くタイプなのですが、どうしてもそれをセコく『役に立てよう』としてしまう性格です。純粋な好奇心から始めたはずなのに、途中からは『多分仕事の役に立つだろう』とか『よくわかんないけど勉強しておくといいだろう』といったような私の『セコい』部分がむくむくと育ち始めていたことに気が付きました。

で、それの何がいけないかというと、やっぱり続かないんです。このnoteを始めたのも習得や学習の経緯や成果を共有するためでしたが、何かが足りないという感じでした。

遊べ。楽しめ。以上

そこで冒頭の話に戻ります。友人が作っているものをみて、また再度やり始めた時に、教科書や本などの順番を全く気にせず『とりあえず気になったものから手をつけてみよう』と言う気分で再開しました。

そしたら楽しいんですね。すごい単純なことなんですが。

以前はなぜか『プログラミングを勉強しなければ』という気分がでてきてしまい、『ああーでもゴールはなんなんだこれー。。。。』となってシラけて結局何も作れないという状態でした。

『遊んでいるわけだから別にゴールも何もないし、日常には役に立たない。必要のない無駄なことをしているわけだからなんでもOKだよね』というある種の開き直りのような気持ちになったらなんだか心が軽くなったように感じました。

そうすると前よりも全然吸収が早いような感じがしています。
どっかで聞いたことのある言葉を思い出したら孔子の言葉でした↓

これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず

 で?何が言いたいの?

何が言いたいかと言うと、恐れずに遊びはきちんと遊びましょう。ということです。どうしても日常生活を送っていると『効率!コスパ!』みたいな考えに偏りがちです。でもそうなると遊びすらも効率の流れに飲み込まれてしまいます。そうなると遊びは途端に、その彩りを失います。
感覚的になにか良いものを掴みかけてるような気がするので、セコさが出てこないように押さえつけながら楽しんで作り続けたいと思います。

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