コーヒーは大人の飲み物です。だって苦いから。名古屋に住んでいた叔父さんがコーヒー好きで、実家つまり我が家に帰省するとコーヒーメーカーを使って、ずっと飲んでいる。好奇心から、それを一口飲んでみてあまりの苦さに「無理」となりました。インスタント・コーヒーの「ネスカフェ・ゴールドブレンド」も家にあったけど、それも苦かった。飲めたのは甘い缶コーヒーの「UCCミルクコーヒー」だけ。そういえば「Nestlé」の読みはいつの間にかネッスルからネスレになり、インスタント・コーヒーもソリュブ
ろくろ、漢字で書けない轆轤。陶芸家、窯業関係者の基本とされる道具及び技術の名称です。ろくろは「まわす」ではなく「挽く」と表現します。ちなみにかつては「菊ねり三年、ろくろ七年」と言われました。菊ねりとは粘土の中の空気を除く練り方でこれが十分にできないとろくろをひくことができません。ここでの七年とは職人技、ろくろ師までの道のりで、なんとなくできるようには一ヶ月くらい集中練習すれば良いです。菊ねりも含めたろくろ作業は結構からだつかうので、体力が要りますが、そうした楽しい運動として
「君は、なかなか観る眼があるね。」これは会社の上司なんかが「こいつ使えるかも?」って時に言う台詞ですね。あると表現するには、その逆もあって「観る眼がない」は、「見込みがない」ってこと。同じ観るにしても違いがあるんです。日本語は、おもしろくって「眼」と書くと「目」より上等そうだし、「見る」も「観る」と書いたらよく観察している気がする。見ることもいろいろと幅があります。「ぱっと観る」「さらっと観る」「じっくり観る」それぞれで、見えるものが違うはずです。「目ざとい人」は、細かなと
「哲学とは」と問われてもなかなかに答えるのが難しいのですが、まずは言葉の成り立ちから。英語の「philosophy フィロソフィー」の語源は、ギリシア語の「philo 愛する」と「sophy知」からできています。つまり「知ることを愛する」。哲学も「学ぶことを愛する」の意なので、よい訳だと言えます。たぶん哲学という言葉は明治維新以後の造語でしょうから最近の言葉です。まあ私たちになじみがなくても当然です。哲学者といわれる人は「この世界はどういう仕組みなのか」という問いをともかく
「そ/そ/そ」店主、岡山拓と申します。 骨壷やお墓は、死のイメージがついています。そして、それを避けようとする気持ちも働きます。骨壷を作ることに関して、人の死で儲けようとしているという批判もあります。それ自体は否定しませんが、果たしてそれだけでしょうか。生を謳歌して、死を遠ざける価値観があります。死ぬなんて辛気臭いことは考えたくない。それは誰でもそうでしょう。「もう死にたい」とばかり話す友人は、私も嫌です。だけれども、その友人が死んでしまったら、私はなんでその話を聞いて
「そ/そ/そ」店主、岡山拓と申します。 私は、ずっと関西の美術界の片隅で生きてきました。美術系大学入学を機会に現代美術に傾倒し、90年代に作品を発表。その後に、世間の美術への理解や興味のアンバランスに問題意識を持ち、現代美術の鑑賞術を教える「トリ・スクール」という学校を京都・大阪のカフェではじめ、最終的には、神戸、西宮、奈良と広げることができました。こうした活動に興味を持った編集者から、雑誌ので文筆を勧められ、美術ライターとして活動もしました。特に専門としたのは美術館で、美