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sosoの素(113)

ちょうどいいがわからない 後編

いつのまにか僕らは面倒をみてもらったり心配してもらう立場から世話をしたり心配をする立場に変わってた。
子供に呪文のように寒さ暑さを気にして着せる服の心配をしたり、明日の準備ができてるか気にしたり、自分のことを後回しにしてまでも世話を焼いている。

色々と先回りをしながら心配して手取り足取り準備したり教えたり与えたりしながら困らないように、転ばぬ先の杖のように石橋を叩いて渡れることを確認してから渡らせるようなそんな状況にもしてしまうこともあって、それでも世話をしてる本人は必死だから気づかないことがある。
親切心が裏返って余計なお世話になりかねない。

人付き合いの中でもこれらはあって、良かれと思ってやったことがかえって迷惑だったり余計なお世話だったり。
いろんな人と会っていろんなことを話していると本当にたくさんの考え方や気持ちがあるんだなーと感心すると共に正解や正義ってなんなんだろう、そんなものがあるのだろうかと思うようになってきた。同じ問題でも見えてる風景の角度がちょっと違うだけで全く別の考え方になったりする。

「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」という言葉があって、良いこともやりすぎることはやりたりないことと同じような状態になるって意味で孔子の言葉が基になってるらしい。
いつの時代でもちょうどいいが難しい。
子育て世代には子供との距離感なんかがそれで、その時のちょうどいいがどれなのか本当に難しい。
我が家はお姉ちゃんが思春期に入ってきてそれまでにない難しさがやってきてる。これまでならば何かあるとその都度注意してたけど、最近はできる限り少しずつ見て見ぬ振りをしながら本人が気づけるきっかけになる何かが起こるまで待ちながら落ち着いた時に伝えるようにし始めてる。それがいいのか悪いのかはわからないけど、親の小言が鬱陶しく思う気持ちは自分の人生で振り返るとよくわかるから。

ネットやsnsで情報はいとも簡単に手にはいる。
だけどこんなにいっぱいの情報があるのに今の自分にとってちょうどいい情報はなかなか見つからなくてモヤモヤしたりもする。
僕と息子とサッカーの距離感もそれで、周りと見比べてそれを物差しにしちゃうと優劣で考えてしまい過熱していってしまう。どんな世界も優劣だけでみていくと上には上がいくらでもいて、素人コーチが必死にやったところで先が見えてるし、親からの一方的で必死なコーチングで息子もサッカーが嫌いになってもおかしくないし、そうなったら僕の存在自体疎ましく思うだろう。壁にぶつかりながらも頑張ることの楽しさを知ってくれるだけで十分だから息子の気持ちに合わせて合いの手を打つくらいがちょうどいいのかもしれない。

どんな立場や相手であってもその人が置かれている環境を尊重して、信じて見守ることしかないのかなとこのごろは考えていて。
園児くらいの時までは付きまとうように一緒にいて手を離さず繋がっていたけど、小学生になってからは手を離して好きなところに行かせつつも目は離さず見守っている。お姉ちゃんなんかは目を離し始めている状態だけど耳は離さないようにしていて、その先は心を離さないようにするんだなーと前に読んだ記事で学んだことを実践している。

紀元前の孔子が残した言葉が今でも通用するように、いつまでたっても人間は昔から大して変わず抱えてる問題は同じ。
だから焦らずゆっくりその時々のちょうどいいを探して変化を受け入れながら暮らしていきたい。

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