sosoの素(33)
落とさないように
もともと要領がよく、たいていのことはそんなに苦労せずにそこそこ上手にすることができる。きっと器用なんだと自分でも思う。
その反面、地道な作業や途方もない道のりなどがあると拒絶反応が起きるくらい嫌で他の誰かがやってくれないかなーとか、もっとパパッと終わる方法はないかな?なんて頭を使う。
今思えば頭ばっかりで考えて、手を動かさない典型で自分に不都合があると雄弁にそれの欠点めいた箇所を指摘して、さも自分は間違ってませんって顔をしててその場を乗り切ろうとしてた嫌なやつだったなーと思う。ああ、恥ずかしい。
それは遠い昔ではなくて、つい最近までそんな状況だから、今書きながらも本当に恥ずかしいなと思うのです。
ここに書いて来たこと、仕事を通してたくさんの失敗をして、どんなことも地道にこつこつとやることが結局のところ一番スムーズで、今では要領のいいやり方よりもコツコツやる方をあえて選ぶようにまで変わって来た。
そのコツコツのすごさというか偉大さを体験するまでは少しでも無駄がないようにパッパッパっと考えて行動することがいいとばかり思っていた。それを人にも求めてたりもしてて、家族で出かけるときに出発しようと思って車に乗った途端におトイレーと言う子供たちにもなんで車に乗る前にいかないの?ってモヤモヤだってしていた。きっとそんな僕の態度に家族はモヤモヤしてただろうにね。
要領がいいと確かに色んなことをスムーズに進めることができるかもしれない。効率を求められる場面では活躍だってできるかもしれない。だけど、要領の良さだけは褒められ続けてきた僕が思うに、スムーズに事が進んだことと引き換えに見落としてしまったりこぼれたりする大切な事柄はたくさんある。
この春、長男が保育園を卒園する。長女から合わせると6年その保育園にお世話になった。その6年があと2日で終わってしまう時にこの記事を書いている。
特に決めたわけじゃないけど、長女の時から登園は僕が行くことが多かった。そしてよっぽどのことがない限り歩いて通っていて、たわいのない話をしながら保育園に通っていた。
この6年間、たくさんのことがあった。ありすぎて全部忘れてしまってるんじゃないかと思うくらいに楽しいことも苦しいことも辛いこともあった。毎日が必死だった。
そんな必死な日々とそんな中でも子供達と歩いて通った保育園その時間は僕とゆきちゃんにとっては死ぬその時まで何度も何度も繰り返し思い出し、楽しかったなーと話すんだろう。
大変だなーと思うこともちょっとずつやれる分だけでも進めていくと、いつか終わりがくる。終わりが見えて来ると不思議と寂しい気持ちになる。
そして終わったその時にそれまで歩んで来た道のりがその道を歩んだ人だけの本当の宝物として心に刻まれる。
そんな出来事が一つでも多いといいな。
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