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被災地を自分の目で見てきた。

靴磨き日本一周149日目in石巻

「女川町」は宮城県にある町で、東日本大震災で最も被害の大きかった町の一つである。


石巻で出会った焼き鳥屋さんの草野さんがお店を閉めた後車で連れて行ってくれた。


女川町は漁業や原発で経済が潤っており、小さな地域にも関わらず活気がある街だった。


しかし、その光景は1日で変わった。


2011年3月11日、津波は20メートルを越え、10014人いた市民のうち、827人の方が亡くなった。


今は被害にあった場所も整備されて公園になっているが、唯一「女川交番」は被害があった時のままになっている。


初めて見た。


建物が横に倒れて地面を支えてるはずの真裏が見えてるところを。


2011年3月11日は当時高校生でたしか大阪桐蔭と野球の練習試合をしていた。


試合が終わって自分たちのグランドに帰ると急に選手達は集められた。


てっきり試合の反省会をするのかと思ったら、東北で地震があったことを伝えられた。


自分が呑気に野球をしてる時に数百キロ離れた街で建物がひっくり返ってる。


当時は想像もできなかった。


女川町に住む遠藤さんは仕事終わりに草野さんに呼ばれて来てくれた。


遠藤さんは地震があった日も女川町にいて、地震というよりかは"地球が割れた"と思ったそうだ。


遠藤さんは地震がおさまった後すぐに裏山にの頂上まで登った。


数十分後には津波が来て、住んで家や学校が流されていくのを山の上から見ていたそうだ。


頂上にいた市民たちと避難所まで歩いて行かなければならなかった。


避難所までかなり距離があり、その間に何人もの遺体を見た。


瓦礫の間から腕だけが見えていたそうだ。


途中車の中でシートベルトをして待機してるおばあちゃんに出会った。


「おばあちゃん、何してるの。車ではいけない。早く歩いて行こう」と話しかけた。


おばあちゃんは「避難所までは歩けない。若い人達の手も借りたくない。私はもういいから早く行って」と言った。


「諦めたらあかん。一緒に行こう」と言って無理矢理車をこじ開けて、おばあちゃんを引きずりだしておんぶしてながら避難所まで行った。


移動中も20メートルを超える津波を山の上から見て、何度も「終わった」と思ったそうだ。


あれから10年経ち、女川町の人口は半分に減った。


遠藤さんは女川町で移動式ラーメン屋を営んでいる。


震災後の人口は減ったが、若者の人口は増えたそうだ。


遠藤さんは語ってくれた。
「あの時、死んでもおかしくなかった。むしろ生きてることが奇跡。

生まれ育った女川町の役に立ち、この命を使い切りたい」


ニュースで見るのと、自分の目で見るのと、経験した人の話を聞くのと、それぞれ受け取る質や量は全く違う。


絶望的な状況から這い上がった遠藤さんは言葉では現せない"すごみ"があった。


自然災害の恐ろしさや対策の重要性よりも、"約束された明日なんてない"ということを遠藤さんの話を聞いて学んだ。


遠藤さん


https://www.instagram.com/sosholand

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