見出し画像

短文集 ■アスファ・リーフの歌

2019.7.21〜8.1

────────────────────

八月の夢

 ややこしい夢を見た。

 荒々しい岩肌に手のひらを押し当てると鉄板のような熱さだった。舗装などされていない砂利道を歩いてゆくと、急に影が落ちてくる。巨大な鉄橋が架かっていて、橋の上はやたら都会的な人々が往来している。その更に上空を、赤い光線を発しながら飛行する謎の円盤が何かを探しているか、監視しているようだった。わたしはなぜか走り始めた。岩肌が徐々に滑らかになっていき、人工の洞窟のようなところに迷い込んだ。わたしは家族でこの灼熱の土地にやってきて、岩造りの居住区に宿泊していることを思い出した。細い道を進むと鍾乳洞に出迎えられた。グリーンやブルーの涼しげなライトが所々に効果的に設置されている。風変わりなホテルだと思った。

 その先はもっと涼しく、薄暗かったが足元は間接照明で白く照らされていた。床は柔らかく、暗色の絨毯が敷かれている。入り口の自販機の横で誰かが座り込み項垂れていた。甘いような辛いような刺激的な匂いがする。ここにはさまざまな娯楽が揃っていた。ビリヤードやダーツに興じる無口な人々の間を縫い、バーを素通りした。重たそうな扉が奥と手前にあり、奥の方はカジノへ続いていることをわたしは知っていた。わたしは手前の扉を開く。

 大広間だ。宴会が開かれていた。どこかに自分の家族が居ることを半ば確信して、探し回った。そうかからないうちに家族と合流し、わたしたちは食卓についた。円卓の料理は全体的に茶色く、わたしはミントを浮かべた水ばかり飲んでいた。アナログ時計が高速で回転しており、時間が早送りされていることがわかる。わたしは急速に腐ってゆく春巻きを見つめていた。母は祖父が亡くなったことを静かに告げた。わたしは宿泊棟の寝室で、持ってきたカレンダーを広げていた。他にも持ってきたものがあるはずだと鞄を探った。しかし、取り出せるのは色褪せた思い出だけだった。そんな日だった。今日がこの世の終末なのだと誰もが知っていた。どのように世界が終わるのか知りたくて、あるいは知りたくなくても、誰も眠ろうとしなかった。高校生活最後の夏休みの、最終日だった。わたしはカレンダーの最後の数字にばつ印をつけた。

 目が覚めると混乱して、昨夜書いた日記の日付を確認した。今から十年以上前のあの日は随分記憶から遠ざかっていたし、海辺の網にかかったメッセージボトルには本島で元気に暮らす祖父からの手紙が入っていて、今日は八月の終わりではなく、始まりだった。ややこしい夢だった。

鏡を探して

 仮定:映し鏡をなくした心は鏡像を求めて夢幻へと羽ばたく。

 まずは、孤独を想像してみよう。昨日まで挨拶を交わしていた隣人、寝室から起きてくるはずの家族、職場の同僚、夜の長電話に付き合ってくれた友人、往来ですれ違った名も知らぬ人達、仮想世界で二頭身のアバターとなり、意見を交わし合ったりゲームで競ったり、日常をシェアしていた無数の人々。綺麗さっぱり消えているとしよう。消えたのがあなたであるとしてもいい。人口を始めとして、この世から価値ある数値のすべてが消滅したとも言い換えられよう。とにかく無人で、無意味な世界だ。

 次に、心という仮説構成体について考えよう。仮説構成体とは、目で見ることはできないが存在すると仮定されているものの総称である。

 わたしには心があるが、産まれたばかりのわたしには存在しなかった。発達し、自他の区別がついてから、他者との会話や態度、表情、しぐさなどを見聞きし、言語的/非言語的コミュニケーションを学び、感情を自覚し、読み取りと照合確認を繰り返すことで、「自己」と「他者」に同様でありながら異質な心が存在することを信じて過ごしてきた。

 すべての人が同じくそうだとは言うまい。「普通」はそうであるとか、「常識」的に考えてとかいう表現は、一般化した幻想である。主体が存在しない。わたしひとりの心の実在よりよほど正体不明である。だので、普通や常識といった言葉はここでは禁句だ。わたしは意識の裡をまさぐる。わたしの中の、わたしにしか持ちえない意見があるとすれば……それは、「他者が居なければ〈わたし〉に心は無かっただろう」ということだ。

 では、想像世界の孤独な状況に再度立ち返ろう。

 「あなた」という言葉は「わたし」と読み替えてほしい。これは、わたし自身さえ自分を見つけられない状況のシミュレーションだからだ。「あなた」はこの文面を読んでいる“あなた”のことではなく、無人の世界をさまよう筆者の姿を指す。

 他者という鏡を一切なくしたあなたの心は不安定になる。昨日までは、他者が居たからあなたは安らぎ、悲しみ、憤り、苦しみ、楽しみ、喜びを見いだすことができた。でも、あなたを認識してくれる他者はどこにも居ない。あなたがあなた自身を認識するために必要な他者が居ない。あなたの内側に在ったはずの心が早くも霞んでいる。

 しかし、あなたの心は弱さあるゆえに強い。鏡像を自らの心の内に作り出そうとする。これまで内面化してきた他者の記憶から、もやもやとした人の形を思い浮かべると、誰でもあって誰でもない“誰か”……強いて言うならば、もうひとりのあなたが立ち上がる。ひとりであるはずのふたりは、こんな会話をするだろう。

「やあ、こんにちは。」

「違う。」

「……何か間違えた?」

「普通、こんな状況でのんびり挨拶をしたりはしない。わたしの知っている人たちなら。」

「“普通”はご法度だとさっき自分で書いていなかった?」

 自分同士なので、ずけずけとものを言う。あなたたちはしかし次第に疲れ、背中あわせに座り込む。ここでは想像の力で、空腹や眠気など人間の生理現象、生活世界の一切を省いて世界を成立させている。でなければ、この思考実験はすぐ崩壊してしまう。何しろ誰も居ないのだから。コンビニエンスストアの店員も居ないし、下水道業者も居ない。

 あなたは思う。ここに居るのが“本当に他者ならば”(もちろんあなたはそう信じたい)、“このわたしも、わたしにとって他者でなくてはならないはずだ”、つまり“もうひとりのわたしを他者として作り出してしまった時点で、わたしなどもうどこにも居ないのではないか(まだ認めたくないので断言しきれないが、答えは分かっている)”。

 あなたは「もういいよ」と言う。背中あわせのあなたが振り向く。その顔は、家族のものだったか、友人や知人のものであったか、あなたはうまく思い出せない。ただ、もう一度、「もう、いいよ」と言う。あなたが描いた誰かは、あなたの心をなぐさめようと(あなたの最後の願いによって)少しだけ唇を緩め、あいまいに微笑んで……消える。

 結論:鏡は自分自身だけでは鏡として存在し得ない。

馳る海

 暗闇にひそむ澱んだ空気が泥のように泥濘んで、次第に街中へ流れている気がする。
 きんと冷たい冬の夜風が懐かしい。

 断続的な睡魔が泥の河を航ってやって来る。
 青や橙の街明かりを眺めていると、それらがメッセージのように瞬き始める。

 街は半透明の水築都市に成り変わって、滲んだ光の中で機能していた。水面に突き出た電柱の天頂に佇む二頭身の魔法使いが丸っこい手で月を指差すと、星空に手紙が広がった。手紙にはこうある、荒れた海が静かになった。ゆっくり舟を滑らせなさい、と。

 そこで、街じゃなく自分自身が泥濘なのだと、舟に乗るのは自分じゃなく物語を運ぶ誰かなのだと気付いた。

 自分は海の一部としてぬるぬると蠢いて、小さな舟を、大海原へと送り出す。まだ誰も乗っていないのか。でも僅かな重みで舟が軋むのがわかる。月光に照らされて、姿の見えない影が海[わたし]の上に落ちている。
 風をつくるため、海は馳ける。

 生まれたアスファ・リーフ〈突風〉は泣きおらぶ。一心不乱に、無我夢中に馳けてゆく。

お手製の地獄

 アスファ・リーフは猛烈な熱を孕み、火山のなかを渦巻いていた。もうじき噴火し、火口から熱風が射出されるだろう。そうしてマグマが、灼熱の嵐が、毒の灰が、森に覆い被さるのだろう。アスファ・リーフは自身の熱さに苦しみ悶えながら、考える。

 意味もなく残酷な光景など有るだろうか。残酷だと表現されるのならば、それはその光景を作り上げた存在のことを言っているのだし、残酷というイメージは見た者の心にある。雷に撃たれた倒木や動物は? 生死をかけて争う野生生物達は?
 戦争や諍いなどは国家あるいは個人間の対立という意味がある。災害は人命や日常が失われるという意味において残酷である。人間がかかわる悲劇には大方残酷という言葉がついてまわる。

 火はそれじたい残酷か……。アスファ・リーフは地下から突きあがる振動にいよいよかと覚悟を決めた。途端、噴き上がる怒涛の勢いのさなかに、すべての葛藤は掻き消えた。ただ、アスファ・リーフはその名の通り突風となって、熱のコートを纏い、どこまでも馳けた。

メタ・フィクション

 だれが我が身をかようにしつこく舐めるように見つめるのであろう。周囲に人の気配は無い。それも当然、我は書斎に独りきりである。我は頭上の眼を見つめ返す想像をした。気色が悪いものである。

 気晴らしに読書を始めて、何かふと合点がいった。成る程……我は書物の中に居るのかもしれぬ。あの眼は、視線は、ただ文中に示された我が身を読み解くために紙面を見下ろしているにすぎぬのだ。であるとすれば、得体の知れぬ気味の悪さからは一応のところ逃れられる。

 我が身が記された存在であるなら、この先、未来の事象もすべて決定されているだろうか。それとも、頭上の世界でいう“書物”の有り様は単なる紙の束ではなく、超常的、超時空間的な構造体なのだろうか。我が人生という時空そのものを掌中で展開して眺めるという読書の仕方が有るのかも知れぬ。しかし、その実際を想像しようとすると頭痛と寒気に襲われて、また手足が震えた。部屋が暗くなっており、ランプを点けた。すると我が身は正面のガラス窓に確かな輪郭をもって映し出され、やや心持ちが安定した。

 さて読書である──この頃の我が心は、登場人物の居ない物語を読みたがる……正確には居ないというより、風景の移動ポインタとして機能する登場人物・生物ではあるが自我を重視された“キャラクター”ではない……喜怒哀楽の表現すべてがストレッサである時、クイックメルトな客観的情景描写が、脳に容易に沁み渡る。

 いくばくも経ったか。そうして、飽くなき読書の旅先から、心ある生物に支配された感情世界に帰還する。温厚でもなければ冷酷ですらない無感情の世界は美しかった。美しかったと呟きながらも、物事を美と認識して感応するこの思いが、憧憬という感情であることを自覚する。無には成れぬのか。形有るかぎり。頭上の視線は、今でもまだ我が身を見下ろしている。もしも我が身が文章というストリングスで編まれた平面世界に生き、現実にはこれと異なる観察者の世界が在るとしたならば、ああ確かに、読書中の無意識へ没入した時間は、行間の空白で処理されることだろう。

 頭上の物書きについて考える──在りし日の祖父は物書きであった。祖父の身体にはいつも文章がまとわりついていた。時々祖父はそれらをわざと腕に巻き付けてみたり、カウボーイのように振り回したりした。文章のほうが盛んに跳び回るときは、飼い犬と戯れるように庭で走り回っていた。祖父は運動だけは欠かさぬ人であった。物語の世界を歩くのにかならず体力が必要だと口癖のように繰り返していた。祖父は物語の中で死んだ。明け方の書斎にて独り、丁寧に積まれた原稿用紙の傍らに寄り添うようにねむっていた。銀の鎖のような文章をじゃらじゃら引きずって歩いた道が、真の月光に照らされている、物書きとはそうやって魔の月面に遺言を書く者のことを指すのではないか。

 もし我が身の構成要素が二重螺旋の遺伝子でなく、糸のような文字の連なりから成る物語であるならば、我が人生はだれかの遺言のごとき物語世界なのか。しかし、どちらにせよ……その当人の姿を我が見ることは無いであろう。出来れば、我が身を描き切る物書きと、一度きりでよいから話をしてみたい。世界の境界はどこにあるのか、物語はどのようにして生まれるのか……。叶わぬ望み。願う宛先もない。そういう意味で、この想像はまことに詰まらぬ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?