『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』を読んで
「私もアイヒマンになりうるかもしれない」
学生時代にアーレントの〈悪の凡庸さ〉という概念に触れて、そのような危惧の念に襲われたのを覚えている。
当時は、主にジグムント・バウマンによる官僚制批判の文脈で見かけた印象が強く、私の理解は今思えば適切ではなかったのかもしれない。ただ、ホロコーストという歴史的な出来事と私とが接続しうるという衝撃は、自分自身の批判的思考を育むうえで重要なプロセスだったと思う。
さて今回は、田野大輔・小野寺拓也編『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』(大月書店)の感想を述べていく。
本書はまさに書名の通り、通俗的に理解(誤解)されてきた〈悪の凡庸さ〉の現状を「問い直す」本であると同時に、歴史研究者と思想・哲学研究者との視座の違いから、アーレント自身の〈悪の凡庸さ〉という概念の意義を「問い直す」本でもあったと思う。
1.組織の歯車ではない
「アイヒマンは組織の歯車に過ぎない」だとか「アイヒマンは命令に従って職務を実行した凡庸な役人である」といった、人口に膾炙したイメージは誤りである。この点に関して、歴史研究者と思想・哲学研究者の間に異論はない。
一方、アイヒマンが〈悪の凡庸さ〉という概念を通じて何を主張したかったのかについては、今もなお論争があるということが本書で浮き彫りとなっている。ただ、少なくともアーレントがアイヒマンのことを「組織の歯車」であることを示すためにその単語を使ったわけではない、ということは強調されてよいのではないか。
田野大輔氏が指摘している通り、ミルグラムの実験が「アイヒマン実験」と呼称され「普通の人々も権威にたやすく従ってしまう」というイメージとともに広まってしまったことが、〈悪の凡庸さ〉をめぐる誤解が定着した要因の一つと言えるだろう。
「誰々は命令に従っただけだ」「組織の歯車に過ぎず、抗うことはできなかった」という抗弁が免罪符として流通すればするほど、歴史修正主義的に悪用される危険性を高めうるという田野氏の主張には、ドイツ史研究者としての鬼気迫る切実さを感じた。
2.「忖度」と「主体」
興味深かったのは、近年の歴史研究におけるアイヒマンの行為説明が、日本における「忖度」という言葉と、そう遠くないという指摘である。
ヒトラーの欲するであろうことを自ら「主体的」に想像し、率先して実行に移していく。そんな人間像としてのアイヒマンの方が、盲目的に命令に従う機械的なイメージよりも、よほど現実的で人間味があるし、それ故に恐るべき人物と思わせられる。
ただ、そこでいう「主体性」とは何なのかについては、慎重な吟味を要するだろう。能動的/受動的、自律的/他律的という対立軸で考えたときに「能動的・自律的」ではあるけれども「主体的」とはいえない、という次元も十分存在するのではないだろうか。
例えば、食事の際に率先してサラダを取り分けようとする女性は、能動的・自律的に行動しているかもしれないが、既存のジェンダー規範に対して従属的で思考停止しているような場合には必ずしも「主体的」とは呼べないかもしれない。
そもそも、行為主体性(エージェンシー)の無い人間、というのは存在するだろうか。人は常に特定の状況に置かれ、複数ある選択肢から特定のある行為を選択している。問われるべきは、「アイヒマンに主体性があったかどうか」ではなく、「アイヒマンは、どのような構造のもとで、何を資源として、どのような行為を行い、どのように正当化したか」ではないだろうか。
3.「怪物」ではなく「バクテリア」による悪
最も勉強になったのは、アーレントが師ヤスパースから〈悪の凡庸さ〉のひな型となるようなアイデアを受け取っていたという事実だ。
何人もの人が殺されたとき、それを「悪」と認識するのが人間の性だが、むごたらしい現実を前にして、人は「怪物的」「悪魔的」な犯人像を用意しがちだ。
しかし、実際には一人一人の人間がいて、歴史的・構造的な要因と個々人の意思決定とが複雑に絡まりあった結果として「悪」と認識されるような事態に帰結したに過ぎない。「悪」の背後に「怪物」を見出してしまう傾向は、しばしば事実と向き合おうとする冷静な視点を排除する危うさをはらんでいる。そのような警鐘としてアーレントは〈悪の凡庸さ〉という概念を掴んでいたのではないだろうか。
確かに歴史研究者が指摘する通り、アーレントの記述はあいまいで誤解を生んでも仕方ない側面があり、皮肉にもそれ故にこれだけ人口に膾炙したということも否定しがたい。
しかし、誤解の多い概念だからといって即座に廃棄するという姿勢が適切とも思えない。アーレントがその概念によって本当は何を言おうとしていたのか。何が誤解で、何が妥当な理解のかを丹念に掬い出そうとする営みを続けていくことが重要なのではないだろうか。
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