twitterアーカイブ+:ゲーム『Pokémon LEGENDS アルセウス』感想

初報(2021.02.27):錯乱期

 ……まず、私の思うダイパの魅力とは第一にシンオウ地方の危うさを孕んだ「雰囲気」なのであり、既に剣盾で円熟に至った臨場感演出の技法が投入されるなら非常に期待が持てる。そして、アルセウスの物語がアンノーンとレジ系とウルトラホールの謎を解く鍵になることを私は期待する。

 アンノーンとアルセウスとミュウはどのような系統関係を持つのか。レジギガスはウルトラビーストなのか。やぶれたせかいとは何であるのか。これらを解明することで、我々はポケモン世界の全貌にようやく迫れるに違いない。シガナが持ち去った答えに。

 恐らく我々は、上代のシンオウ地方で、背の高い異国の男と出会うことになるだろう。「人の祈りと石の絆にて世界に生まれし揺らぎを、平らかにする」と言った彼は、メガシンカのあるシンオウで創造のポケモンに何を願ったのだろうな?

 異種婚姻譚もいいが、私がシンオウ神話で一番好きなのは「湖に潜る話」でな。息を止めて水の底深く潜り、大切な何物かを持ち帰る、それが大地を作るための原動力となる。まるで自らの心の奥深く潜り、原体験のエッセンスを持ち帰って一つの世界を創造した、どこかのゲーム制作集団そのままではないか?

 シンオウ神話に語られる異類婚姻の時代について、LEGENDで深く掘り下げられることがあるとすれば、私はタマゴの生成についての新情報を期待したい。タマゴ(に見えているもの)は繁殖のどの段階で形成されるのか? 人間はタマゴを産むことができるだろうか? 人間同士ではどうなる?

 だが、気をつけよ。人とポケモンとの結婚は、本当に異類婚姻だったのか? 「人もポケモンも同じだったから」とは、つまり同じでなければ結ばれないということだ。ラティアスがサトシに対してやったこと、あるいはその逆を、上代シンオウの住民は当たり前にやっていたのだろうか? 即ち……(ポケットモンスターReBURSTより画像一枚)


プロモーション映像(2021.08.19):固有種考察期

 ポケモンプレゼンツを観た。いい感じになってきたな。入植……屯田兵……この地がヒスイと呼ばれていた最後の時代の物語……登用された現地協力者……アルセウスが彼らの前に現れた理由とは、つまり、誅罰……

 ヒスイの姿のポケモンが今のシンオウに見られない理由についてはいくつかの仮説を立てることができる。一つは、本土人の組織的産業、または本土人との不平等貿易のための乱獲。一つは、開発による生息地の縮小。人跡未踏の奥地にまだいると考えてもいい。だが、いま一つの可能性がある。

 本土から持ち込まれた文明のレベルはたかだか二百年程度の新しさに見えるが、一方で地形がシンオウと違い過ぎるために、時代考証が錯綜しているようだな。問おう。リッシ湖を爆破した兵器、ギンガ爆弾は何を基にして作られた?

 ポケットに入らなければただのモンスターだが、ポケットに入れずにいることもまたできないのだ。彼らは未知なる自然の具現であり、集合無意識の諸力であり、人間が世界に敷いた境界を目がけて現れる存在だからだ。拒絶する方が危険を招く。人間がポケットに入れたがるもの、それこそがモンスター。

 ポケットに入らなければ、所詮はモンスターだということ。しかし、人間はモンスターボールを生み出したのだ。


新報 其の壱(2021.09.28):トレーナー考察期

戦闘職

 キャプテンやぬしポケモン概念の由来がアローラかヒスイのいずれかにあるとは、私は思わないな。大海の沿岸部一帯の民俗社会に散発的かつ独立に発達した普遍的な現象であり、例えばホウエン以南の島嶼部についても調べれば同様の文化と生態の痕跡が見られるだろう。

 操刷法師によれば、ジムリーダーという呼称は、イッシュの各町の名士(必然的に治安管理者を兼ねた)がそう呼ばれていたものを、カントーで成立したポケモンリーグなる興行が娯楽産業に巻き取ったものだ。だが、キャプテン制が残る文化圏では、キャプテンが名を変えたものでもあっただろう。

 しかし、キャプテンが直接ジムリーダーに変わったわけではない。強力なポケモンと意思を疎通できる者とは、強力なポケモンを掣肘できる武力の使い手でもあり、それはヒスイには極めて稀有な存在だった。時代が下り、かつてのキャプテンは、まず「ポケモントレーナー」と呼ばれるようになる。

 当然、それに類する者たちはヒスイ以前にもいた。しかし、三千年前に起こったとされる戦争の終結を境に、職種としてのポケモントレーナーは長い間、歴史から姿を消している。

 私はこう述べたが、ファイヤー使い友の会氏によれば、単にポケモンを戦わせることではなく、複数のポケモンを戦わせることを以てポケモントレーナーの成立とするか。手持ちが一匹しかいない人間にできることと、六匹いる人間にできることとの乖離をもっと大きく見積もるべき、と。それもそうだ。

 オーキド博士に届いた電子メールからポケモンリーグについて考えるなら、ポケモンリーグ本部自体は「さいきょうのトレーナーがあつまり」以前から存在していたと考えられ、次に「いちど」という表現から、赤い帽子の少年の時代に何らかの制度変更がなされたことが窺える。

 リーグと名のつくものが全て、広く参加者を募って最強を決める機関とは限らない。元々は他薦で指名してきたトレーナーだけを戦わせて最強を決める機関だったかもしれないし、バトルに限らず優れた功績を残したトレーナーを顕彰する機関だったかもしれないところ、どこかで一般公募が始まったのだろう。

 指名で集めた少数のトレーナーを戦わせて最強を決める機関だったとすれば、その頃のベスト4がそのまま四天王になったのだろう。だが、それがただの新しいスポーツの試みではあんな場所に本部を構えるほどの権威は得られない。やはり、元々の性格は顕彰施設で、バトルは奉納試合だったのではないか?

 ところで、何の権威も正当性もないままに、特殊な立地にデカい施設を構え、指名で集めた少数のトレーナーを戦わせて最強を決める。我々はこれと全く同じことをやった奴を知っている。そう、ミュウツーじゃな。

(鍵アカウントの知己に)操刷「私は、バトルの殿堂の機能とポケモンリーグという名称が結合したのはカントーが最初だと根拠なく思っているが、どこが最初にせよ、バトルで最強を決めるという発想は普遍的にあったはずだ。それは軍事力なのだからな。文官統治が定着して初めて、リーグはただの興行となることができる。」

血縁

 アルセウスフォンは、どこから来た? ……誰が、この時代へと、アルセウスフォンを投げ落としたのだ? その謎を辿った先には、スマートフォンという知識を携えた上でアルセウスと接触することに成功した、一人または複数の人間の存在があるはずだ。それは、どの地方の、いつに?

 誰が誰の先祖であるかということは、今のところ私の関心事ではない。家や血に脈々と受け継がれてきたものが描かれて初めて意味を持つ。歴史は、二百年もの間ずっとシンオウだけで閉じていたりはしない。話し言葉に障害のないポケモン世界なら尚更だ。

 どのみち、「赤い帽子の少年」以前の物語であるということが、全ての歴史考証を究極的には無意味にする……

 レッドの母の先祖は存在し得るが、それはレッドの先祖ではない。レッドは今までポケモン世界に生きたことになっている者の誰にも似ていない。レッドは、今どこにいる? ホドモエか? ポニか? パシオか? そうではない!

 そもそも、操刷法師はポケモン世界におけるパシオの実在を認めていないが……


 ヒスイ地方では春になるとリングマの巣穴を狙って狩りをし、冬の間に生まれたヒメグマを村に連れて帰る。そしてリングマになるまで育て、最後には盛大な送りの儀式を行って殺す。この習俗が廃れたのは、ある年の儀式中に己の運命を悟ったリングマが、歌と笛の重奏される中で二度目の進化をしたからだ。

「おまえが 剣を振るい
私の仲間を傷つけるなら
私たちも 爪と牙で
おまえの仲間を傷つけよう」

 世界は元々そういう場所だったのだが、ヒスイ地方においてその遺恨と報復の連鎖が遂に行き着くところまで行き着いた末路が、急速に大地を作り変えつつあった開拓者らに怒ったアルセウスと、そのアルセウスを討伐するために本国から持ち込まれたギンガ爆弾である……


 名前と植物の分類で血縁関係を推測しようとする試みにもなかなか困難があるようだが、名前というなら、姓の明示されないポケモン世界のこと、我々の知る現代のトレーナーと同名の人物がヒスイにいても不思議ではないわけだな。見ておれ、今に「ヒガナ」が何食わぬ顔で現れて我々全員脳が爆発するぞ。

 ヒスイの誰が誰の先祖であるかということが、なぜ諸君はそこまで気になるのだ? 未来を過去の枠の中に押し込めるな。サトシも言っている、「行ってみなきゃ分かんないだろ?」と。(かく言う操刷法師は、「ルザミーネ=モノマネ娘」説というピッピ人形頼みの狂った主張を繰り返しているが……)


新報 其の弐(2021.10.19):挑戦期

 カメラがその場に留まっているから、雪崩などの広範囲を巻き込む現象ではない。予兆もある。撮影者は即死しておらず、ある程度の距離までは走って逃げている可能性も低くない。最後の足音は大きいポケモンと小さいポケモンの二匹。今のところヒスイガーディ親子説が無難かね。

 ヒスイリングマや鋼かドラゴンあたりのブイズという線も考えられるが、現時点では何とも言えんな。時代考証については、ヒスイの頃にビデオカメラがあっても不思議ではないが、成人男性が奇を衒わず「かわいい」と言える時代はもっと後だろうとも思う。タイムカプセルで送り込んだ可能性はある。

  ゾロアは、あくまで悪タイプが原種なのか。これまで私は、ヒスイゾロアが原種、または原種により近い姿で、その群れの中から現れた突然変異の黒いゾロアが仲間を皆殺しにして海の向こうに去ったものかと……

 他にもゴーストやエスパーのリージョンフォームが有意に多くいるようなら、理由を考えるべきだろうな。太古のホウエンに水と熱の力が満ちていたように、想念に実体を取らせる力が地方に満ちているのか。ギラティナの活動が活発化していた時期なのか。それとも単なる人間側の分類体系の未整備か。

新報 其の参(2021.12.10):歓談期

 私は、カントービリリダマはモンスターボールがポケモンになったもので、ヒスイビリリダマは何らかのポケモンが捕獲された後にモンスターボールと同化したものだと暫定的に考えている。両者の気質の違いは、カントーは失敗作の怨念由来であり、ヒスイは中のポケモンの意思によるからなのだろう。

 言わば「ボールロトム」というに近いものなのだろうが、当然、ボールを道具として使うトレーナーとしては困るし、それが不可逆な変化であればなおさら困る。ギンガ団はそれを防ぐ機構の開発を急ぎ、その成功と共にヒスイビリリダマは激減した。現代のボールにも同様の機構がある。

 しかし、ポケモンには無限の可能性があり、何かを完全に禁じるということは今も昔もできない。隕石落下後のホウエンではマスターボール型のポケモンも出現した。あるいはマスターボールが必ずポケモンを捕まえられる仕組みとは、このようなボール寄生型ポケモンを利用して……?(『ポケットモンスター アルタイル』よりドルマインの画像一枚)

新報 其の肆(2021.12.15):信仰考察期

 先祖の話は予想したところで大して考察が広がるわけでもないから放っておくとして、やはりシンオウさまだな。ヒスイ全土に浸透しているわけでもないある宗教共同体が、後に為政者が変わり行政区分が再編されるタイミングで一定の政治的影響力を持つことができたということになる。何があった?

 いや、キャプテンらが全てシンオウ信者なら、既に政治的影響力は有しているのか。そしてヒスイ時代の終わりまでその影響力を保ち続けた。イチョウ商会が解散したのもその頃以前だろう。他地方との何らかの意味での統一により、公権力が物流を支援し始めたはずだからだ。

 他地方からいいキズぐすりが持ち込まれているということは、他地方では既に、野営地で寝るだけでは間に合わないポケモン消耗活動、即ち積極的に草むらに入って連戦するという行為が普及している、そういう時代だ。ポケモンの戦闘能力を育てるという概念がある。即ち、ポケモントレーナーが。

 私はミヅリリ厨であるからカイの衣装の至るところにルナアーラの影を感じるが、恐らく関係ない(あったとしても血縁の話ではない)。単に真珠を月になぞらえているだけと考えるのが自然だ。だが、笛を持っているのは興味深いな。セキは持っていないのか? 代わりに何を持っている? 玉か?

 アカギはギラティナの存在を知らなかったが、一方であかいくさりを作れることを知っていた。恐らくはヒスイ時代にUMAが自らギンガ団に提供したものだろう。当時の人間には、精神機能の均衡によって自然の諸力を統御するという観念、それを生体組織の操作に落とし込む技術、いずれもなかったはずだ。

 あかいくさりは、ディアルガとパルキアを制御するものではなく、より広範にポケモンと人間を同化させるものだと私は考えている。モンスターボールは適度な距離を保って共存を図るものだが、あかいくさりはポケモンの行動決定機能に人間の意識を直結させる。身体(物質)が介在しないために、そうなる。


 なぜ、モンスターボールがなければポケモンという呼称もないことになるのだ? そのような時代自体はあり得るが、ボールの不在から導かれる帰結ではない。モンスターが先、モンスターボールが後だ。ポケモンという呼称があるためには、ただポケットがあればよい。そしてヒスイにはポーチはある。

 モンスターボールがなくともモンスターという呼称がある共同体は、例えばこれ(https://twitter.com/251monji/status/1427991744826667011…)に描かれているように、想定し得るものだ。こちらの世界でモンスターが英語だからといって、イッシュとの交流を前提とする必要ももちろんない。

紹介映像(2022.01.07):充実期

 ああ、「アローラでマナーロ」というのはアニポケのミームか。私はアニポケを追っていないのだが、元ネタがあるということ自体がだめたまご氏の例のムクホーク漫画に情緒を与えている。GOTCHA!がそうであったように、26年の間、我々の生と共にあったということ自体がポケモンの強みだからだ。

 しかし、悲しいかな、アローラ地方がやさしい世界であることがアニメやUSUMで描かれれば描かれるほど、私には、それらが全てSMのミヅキの手から零れ落ちていったことのみが思われる。コップに半分の水どころか、一滴足りないだけで全てが台無しになることが人間にはある。逆もそうであるように。

「そのどれかに僕がいるなら、君にとっては全ての星々が笑っているように見える」と星の王子さまは言った。ミヅキの星空はカントーにある。あるいはいつか娘が母を見守る必要がなくなったなら、アローラ以外の全ての地方にある。アローラにはない。


 ポケモンにおける世代というものが通信対戦の環境によって定義されているなら、通信対戦のないアルセウスには世代のナンバリングはつかないはずだ。しかし、ゲームフリークによる公式の正史ではある。なし崩し的に時系列に基づき、第0あるいは-1世代と呼ばれるようになる気がするな。

 ヒスイのギンガ団の屋敷にガラルマタドガス型の煙突がある。即ち、大海の彼方では既に産業革命が始まっており、そこと列島を結ぶ長距離航路も確立されている。また、煙突は一つではなく量産品であり、祭具でもない生活用品をポケモンの姿を象って作るほどに両種族の距離が近い場所からギンガ団は来た。

 大陸や各地方の位置が概ね地球と同じだと仮定して、ガラルから列島に渡るにはやはり南方から島伝いの航路になるのだろう。だが必ずしもカイナに寄港する必要はないのかもしれん。少し東に逸れてヨシノ沖まで行けば、豊富な淡水の湧く、ホウエンなどよりもよほど文明的な島がある。アルトマーレという。


FINAL PV(2022.01.25):静寂期

 ちなみに私はアルセウスを、「トロピウス」ではなく「アーケオス」のイントネーションで発音している。

 さあ、“世界”を創りに行くぞ。


発売(2022.01.28):全員爆発期

 以降は発言の時系列に従わず、議論の主題によって整理する。

主人公の出自と歴史の懸命さ

 物理の理論は実験によって検証され、提唱されたもののうちのほとんどは死ぬ。ゲームの新作においても同じよ。例えば今作においては――これは、事前に公開されていた設定となされていた考察の種類からして自然なことだが――最初に表示されるテキストの一行目で既にいくつかの解釈が死ぬ。

(註:この「最初に表示されるテキスト」には、自動レポートの注意書きを含まない。)

 赤緑の話をしよう。「ポケットモンスターのせかいにようこそ!」とオーキドが言う時、そこでは暗黙のうちに「ポケットモンスターの世界の外部」の存在が想定されている(ドラクエ3ではそうではない)。誰が、シナリオの外部を認識する権利を持っているのか――これは世界観の根幹に関わる問いだ。

 ところで、赤緑において主人公の部屋に置いてあるのはファミコンであって、ゲームボーイではない。ここでゲームフリークは、「ゲームを置いて外へ冒険に行く」という営みがゲームボーイの中でできる、むしろそれを可能にする携帯性こそがゲームボーイの強みだと言っているのだ。大した自信ではないか!


 私は三匹目のキングを鎮めたところだが、現時点での評価、物語の始まり方5点、先祖関連ファンサービス10点、レベルバランスと操作システム80点、女主人公2000点、ドレディア4000点、計6095点。さて、ここからシナリオでどう巻き返す……?

(鍵アカウントの知己に)操刷「ポケダンは履修していないのだが、今回の場合は原作チームによる「正史」であることから、歴史の懸命さのようなもの、つまり先を見通せない中で当時の人々がどう努力したかが見所として期待されていたはずだ。しかし、まだ失望するには早いし、ゲームシステムは良い。クリア後にまた所感を述べよう。」


 こちらの世界の時間で一週間が経った。そろそろ私も、百五十年前にシンオウ地方で起きた出来事と、起こったはずだと考えられながらも起きなかった出来事について、少しずつ語っていこうと思う。必要あらばミュートせよ。何の単語をミュートすればネタバレを避けられるか知っているなら、だがな……

 秀逸な事前予想であっただめたまご解釈がゲーム開始一分で爆発四散したのには笑ったが、一介のファンの解釈のみならず「人とポケモンは共に生きる道をまだ知らない」という公式のコピー自体がここでは爆発四散しているのだ。“知っている”主人公にとっては、ヒスイの人々の足掻きは茶番となりかねない。

 ヒスイ時代の人々が、自分たちのしていることがどう結実するかを知らず、ただ願いだけを抱いて、その時できることを懸命にやった、という話を私は期待していた。だがヒスイの開拓が未来人の介入によって成し遂げられたとすれば、歴史というものの持つ尊さが損なわれてしまう。

 聖書外典の『灼眼のシャナノ全テ完』にこうある。――「変革を志す者は、世を憂える悲観、変われるという楽観、双方の振幅によって成り立っている」[1]。対して、“知っている”主人公に悲観はなく、楽観というほどのワクワクもない。アルセウスの面白さは、言ってみれば物見遊山の面白さに過ぎない。

 また、時間遡行を描くことはデオキシス≒ムゲンダイナ説に代表されるループ仮説にさらに餌を与えることであり、ゲーフリはファンダムへのそういう介入はしないと私は思っていたのだがな。アルセウスが恣意的にそのような歴史修正をできるということになるとさらに歴史の懸命さが薄れる。

 しかし、一方でゲームフリークはこういうことをやりそうだという気もする。必ず、プレイヤーである我々の存在を巻き込んでくるのだ。ポケモンがプレイヤーの心的過程であり、「赤い帽子の少年」こそが全ての始まりであるとする首藤的テーゼを掲げれば、無論、前述の歴史修正などは問題にならない。

 ギンガ団の先輩のテルはテルであり、先輩のショウはショウであるかもしれん。しかし、時空の裂け目から来てヒスイに不可逆な変質を齎した者はショウでなくテルでなく、ヒカリでなくコウキでない。それは私なのだ!

 主人公を現代の知識と経験を持つ人物とすることで、プレイヤーのポケモン観をそのままヒスイ時代の厳しさを味わわせるために活かすことができる。これは技術の話だ。問題は「で、それをやるべきか」というコンセプトの話の方にある。

 今後、他の地方の過去編が出るかもしれん。他の地方においてもやはり、人とポケモンの共存は未来人の介入なしには為し得なかったとするのか? それも一つの解釈だ。あるいは、他の地方では自力で共存を成し遂げたとするのか? であれば、なぜヒスイに限って未来人を投入する必要があった?

 コトブキムラでは人間がポケモンを受け入れつつある。だがポケモンが人間を受け入れたわけではない! ヒスイ時代ではまだ、一部の強力なポケモンが血縁と地縁を根拠として人間を庇護しているに過ぎない。草むらに隠れているのは人間の方なのだ。それが逆転した時期が、全ての地方にあるはずだ。


 アルセウスフォンを「冒険の中で偶然手にする」と称するのは、ミスリードを超えて嘘だろう。とはいえ、嘘は大きいほどバレづらく、トンチキは大きいほど突っ込まれづらい。ゲームフリークという巨大なトンチキが全てを「あそこのやることだから……」で呑み込ませる……

シンオウの時代区分

 知られている限りのシンオウの歴史は少なくとも三段階に分けることができる。前期シンオウ時代、ヒスイ時代、後期シンオウ時代。前期シンオウ時代とヒスイ時代の間に「カミナギ時代」というものを想定してもよいかもしれん。だが、ヒスイ時代の終わりはアルセウスよりもう数十年後になりそうだ。

 前期シンオウ時代は恐らくギラティナやレジギガスの平定、そしてアルセウスの隠遁によって終わり、ディアルガ・パルキアを信仰の中心とするカミナギ時代が始まったのだろう。それがコンゴウとシンジュに分裂してヒスイ時代が始まり、ギンガ団が全土を開拓してシンオウ時代が始まったと私は考えている。

 発売前、アルセウスというタイトルを聞いて我々が期待したのは「アルセウス神話の真実に迫る物語」であり、「ヒスイ時代の物語」ではなかったはずだ。前期シンオウ時代の話が来ることは最初から期待できなかったものの、伝承に頼る方式が繰り返されたことへの落胆はなくはない。

 伝説のポケモンに関する手掛かりは、結局のところ「伝説」によって齎されざるを得ないのだろうか? 過去に飛んでも「さらに過去からの伝説」を参照しなければならないなら、一体何のための過去編だ? シンオウさま信仰が発生した瞬間、最初の直接接触の現場には、我々は立ち会うことができないのか?

 だが、そのあたりの答え合わせを、やはりゲーフリはやらないだろう。この世に一つの真実がある、という描像をこれまでのポケモンは採用していない、むしろ否定している。二十一世紀という時代自体が、宇宙の究極の真実のようなものに対する想像力が一旦使い尽くされてしまった時代だ。

 故に、公式に語られなかった事柄を我々がどのように補完しようと――自由だ! ポケモンの数だけの解釈があり、ポケモンの数だけの論争が待っている。


 ジバコイルの図鑑説明を読むと、流石にこれが「はるか昔」「何百年かかったとしても」の時代であるというのは無理だろうと思う。ラベンには電磁場の知識があり、ポケモンの技ではない電波を計測することができ、さらに物質が分子でできていることを知っている。

 テルは自分のピカチュウに対して、「なんでこいつエレキを出せるんだ?」と言う。この時代、まだ「電気」は広く知られていないからだ(ラベンは知っている)。ギンガ団本部に電気照明が引かれている程度で、それ以上の電気設備をヒスイで使うためにはロトムを入れる必要がある。


 ふるいポエムという激ヤバ聖遺物がヒスイ各地で出土したために、シンオウの歴史観も修正を余儀なくされている。「むかしシンオウができたとき」が後期シンオウ時代の黎明を示しているという仮説は棄却され、前期シンオウ時代が現代に比肩する人ポ友好の時代だった可能性が高まった。

 前期シンオウ人はシント以西に影響を残すまでに栄えたが、ある時人間の信仰の中心、恐らくはアルセウスが隠れ、続いてこの地を放棄せねばならないほどの天変地異が起こり、ヒスイはほぼ無人となった。コギトの存在から、ここに∞エナジー現象が関与している可能性は否定できない。

 コンゴウ団とシンジュ団はいずれも、前期シンオウ人の離散後の渡来者であり、渡来の直前か直後にディアルガとパルキアの啓示を受けたものと思われる。その時点で、アルセウス隠遁時の紛争と時の流れにより、人とポケモンの間の紐帯はほぼ失われていた。

 ふるいポエムが何者によって書かれたかは判然としない。コギトか(そうではないと思う)、コギトから昔話を聞いた別の詩人か(あり得る)、それとも「赤い帽子」以後の知識を持ってカミナギ時代に落ちてきた、ヒカリではない別の誰かなのか(これもあり得る)。

 それ(シントの名がヒスイ時代以前にあること)については、シンオウという名前の成立は遥か古代に遡るものの、その民族が離散したためにヒスイでは一切が忘れ去られ、僻遠のシントだけが残った、というのが私の解釈だ。また、シントのシンはシンオウさまのシンでもあり得る、故に故郷の大地に名がなくても信仰さえあればシントは成立し得る。


 ヒスイ時代のクロガネ隧道近辺は深い森であったが、石炭の採掘のために伐採が進み、後期シンオウ時代には森は半分からが姿を消して街となった。その採掘事業を最初期に主導したのはキクイであったとされる。ということは、どこかの時点でキクイの血筋はバサギリを滅ぼしたのだ。

 私としては、キクイの子孫が「ジジイの昔話とシンオウみんなのあったけえ暮らしのどちらが大事だ」と言ってバサギリ掃討に向かう時、キクイには存命であってほしいと思っている。彼は主なき巨木の下で悔恨のうちに死に、その後家は落ちぶれてイッシュで再起を図ることになる。


 デンボクの子がいつどこで生まれたかはっきりしないが、別の有力者の家に預けられていて難を逃れたか、隠し子か、コトブキムラで誰かとの間に設けたかしかない。シンオウに渡った時には既にデンボクの死後だ。従って、その者は父の偉業を伝聞と状況証拠でしか知らないし、父の失敗はもっと知らない。(SPで最終強化シロナに勝った後のナナカマドの画像二枚)

シンオウ神話

 ミオ図書館に収集された昔話のうち、あるものは後世の懐古趣味によって美化されているだろう。人とポケモンの結婚などは、ヒスイ時代の様子を鑑みると疑わしい。剣を手に入れた若者の話は、ヤマトタケルのように、数十年から数百年間の動向を寓話化したものだと私は考えている。

「私たちも爪と牙で/お前の仲間を傷つけよう」とは、ポケモンが積極的に姿を隠し始めた後に、次の段階として報復が始まるという意味なのか。それとも、ポケモンが姿を見せなくなったという部分が誇張で、若者が旅に出た時には既に戦争状態に入っていたのか。

 若者というのも実際には個人ではあるまい。ある帝国主義的共同体が、反撃を受けて人ポ友好へと方針転換したことを表しているのだろう。ただ、人とポケモンの和平ないし休戦状態が徐々に確立される中で、ポケモンと意思疎通のできる稀有な個人が大きな役割を果たしたことは確実だと私は思っている。


 ポケモンバトルを介さずにポケモンを捕獲する体験によって、我々は「剣を手に入れた若者」の話に多少の実感を持てるようになった。この話は共同体間の軋轢の寓話として見ることができるが、そうではなくあくまで個人を描いた話として見るならば、剣とはモンスターボールの比喩ではなかったか?

 その若者は、奇妙な服を着て始まりの浜に落ちてきた。衣食住を得るため、当時始まったばかりのポケモン捕獲に手を染めて、そこで頭角を現した。余ったので放牧場に捨てた。次の年、豪雨と大大大発生が過ぎた後、何も獲れなくなった。ポケモンは姿を見せなくなった。そういう話ではないのか?

 この話を史実ありのままに語っては、既にモンスターボールが普及した社会にとって都合が悪い。そのため、後世の語り部は若者の武器を剣に変えた。元より不吉の彼方から来た子供で、しかももう不吉の彼方へと帰ってここにはいないのだ。構わないだろう。

「剣でポケモンを狩る」という描写に読者が納得するかどうかは別だ。普通の刀ではポケモンを狩れないが、ガラルのおとぎ話に伝わるような「すごい刀」ならできるという感覚はあるのか。特別弱いポケモン(コイキングなど?)がおり、狩ったのは全てそれだとして読者を納得させられるのか。

 なお、ここで私は「シンオウの神話」と「トバリの神話」を区別していない。コギトの庵があの場所にある以上、今のところ二つを時代的・地理的に区別できる道理は何もない。


 主人公が現代に戻るまでの間には、ポケモンの隠遁と主人公の「調査」、そしてあの問答もあったかもしれん。そうだとすれば、むしろそのイベントこそが主人公が現代に戻るきっかけとなり得る。主人公が剣を放棄することができるのは図鑑を完成させた後に限られる。

 異常な捕獲技能を有した主人公さえいなくなれば、人間側の戦力は大きく削がれ、人々はポケモンバトルを介した捕獲へと移行せざるを得なくなる。今やノボリがもたらしたポケモンバトルの技法が根付きつつあるから、その移行は大きな抵抗を受けない。

 そして人間側のポケモンの中から、人を助けてやるよう野生のポケモンを説得する者が出る。ポケモンが草むらから飛び出すようになるのはそれからだ。シンオウの夜明けは、主人公が消えて初めてやってくる。

 あるいは、ポケモンを効率的に捕らえるのに使い、最後に地面に叩きつけて破壊した剣とは……アルセウスフォン……?


 私は、かつてアルセウスと戦った古代の英雄を「十匹のポケモンと一人の人間」とは考えておらん。それは、「六匹ずつのポケモンを連れた二人の人間」であり、石像のない二匹はディアルガとパルキア、もしくはどこかの御三家である。「古代の」という言葉さえ、素朴に受け取るべきではないと思っている。


根源神らへの信仰

 ギラティナの毀たれた石像が高所(しかも、ディアルガ・パルキアよりも上)にあるが、一方でギラティナ自身は戻りの洞窟に姿を現す。両方がギラティナの祭祀場だったとすれば、ギラティナ信仰は地・空・水の全てに関わるものだったのか?

 これは、ギラティナを冥界の神とし、地底に沈んで空へ昇る太陽信仰と同型だと見れば説明できる。あるいは、火葬や鳥葬によって空に昇ったものが雨を通じて地底に下り、大地から蘇ってくると解釈してもよい。ミオ図書館の文献を参考にすれば前者か。

 だがどちらであれ、ギラティナの像がディアルガ・パルキアより上にあることは、ギラティナの発生がこの二匹より前である可能性を示唆する。天使の長でありながら神に反逆したルシフェルのようではないか?このギラティナの反逆の逸話がどれほど真実かは、今回また議論の材料が増えたが。



 待てよ。ヒカリを転移させた時のアルセウスは、人間の信仰の都合ではなくアルセウス自身の公式見解として、ギラティナを自らの眷属として認めていないのか? そのギラティナをもう一度係累に組み入れさせるだけの、物理的もしくは心理的な影響を与える遺物/意匠/エピソードがシントにはある?(LEGENDSアルセウス冒頭の画像一枚とHGSSシント遺跡イベント中の画像一枚)

 ヒカリを転移させた時のアルセウス紋は最内陣の光が二つだが、全てのポケモンに出会った後に目撃するアルセウス紋はシントと同じデザインになっている。シントに理由があるのではなく、アルセウス世界体系の「オリジンとアナザー」なのか?

 二つの可能性がある。「勘当説」は、ヒカリ転移時のアルセウスはギラティナを一旦勘当しており、ヒカリがギラティナを打破したことに免じて復縁したというもの。「統合説」は、むしろ最内陣が2で表される世界こそがあるべき形だというものだ。

 ディアルガ・パルキアのオリジンフォルムは、あくまで日食・月食ネクロズマのように中間的な形態であり、本来はこの二者が融合した姿とギラティナでバランスが取れるが、宇宙の内部に表現される時には二匹に分かれアルセウス紋も変化する、という可能性はある。

 しかし、全てのポケモンに出会った後の会話がこうもあっさりしていると、元の時代に帰還するかしないかということを考えるのがアホらしくなるな。XY以前で殿堂入りした後のチャンピオン業の様子がほとんど描かれないのと同様に、プレイヤーに見えないところでいいようにしていると考えるのがよい。

 ヒカリがやってこない世界よりヒカリを呼んだ世界の方が好ましいと判断したということは、アルセウスは世界をあるがままに流転させる理神ではなく、偏向した価値判断を持つ人格神だということになる。私は以前から、人格神は世界の最高原理にはなり得ないと考えている。









 シンジュ団の理想は分かりやすい。それはカイの言葉通りに受け取れば、広い空間が持つ包摂性を重んじるものだ。だが、それはコンゴウ団の理想が「時間の広がり」にあると誤解する余地を生む。両共同体は、むしろ時間あるいは空間に対する不変性を持つものに価値を置いている。

 シンジュ団は広い空間の中のどこであっても紐帯を感じられることを理想とし、コンゴウ団は時間の流れの中のいつであっても紐帯を感じられることを理想とする。彼らは時間や空間に寄り添う者ではなく、むしろそれらの広漠さに抗う者なのだ。手を繋いで漂流する者らが海を愛してはいないのと同じように。

 ともあれ、シンジュ団は同じ空間を過ごす仲間を重んじ、コンゴウ団は同じ時間を過ごす仲間を重んじる。時空と愛し方の関係という点で、これらと異なる価値観を持つ者らが二つある。一つは、時間も空間も自分の理想のために作り変えればよいとする新旧ギンガ団。一つは、ルザミーネ。

 そもそも、考えてみられよ、「親子」というのは違う時間・違う空間を生きていく者同士を結びつける紐帯だぞ。ルザミーネはそれを別の世界にまで拡張しようとした。もはや何を共有していなかろうと、彼女の一方的な愛の前には障害とならない。


ポケモン使いとポケモントレーナー

 ウォロの名の由来が、植物名であると同時にvolo(意思)であったとしよう。そしてcogito(思惟≒知恵)と対をなしているとしよう。しかしポケモン世界において心的機能は、そして全ての統一態(エンテレキー)は、三つ組である。残りの一つ、感情はどこに? ここに在る! 主人公こそがそれだ。

 主人公は、未来の知識を期待されてラベン博士に重用されているのではない(相対的にポケモン知識の少ないプレイヤーもいる)。彼女はあくまで、投擲の腕前、そしてポケモンを恐れない心によってヒスイを変えた。投擲もまた心的技法の象徴と見ることができる。

 投げるとは、遠くにあるものに自分の影響力を伝え、また近くにあるものを遠くに離し、以て双方の間の距離を調整する行為。ナマの自然、即ち無意識の諸力であるポケモンを、モンスターボールというインターフェースで包み、適切な距離に召喚して力を借りる。ポケモントレーナーとは心を乗りこなす者よ。

 何が、ポケモン使いとそうでない新たな在り方(後のポケモントレーナー)を分けたのだろうな。思うにそれは、自然や無意識のもたらす不確実性に賭けられるかどうか、というところだったのではないかと思う。ポケモンを使役するのではなく共闘するとは、そういうことではないか?


 ポケモントレーナーという存在には二通りの解釈がある。一つは、「ポケモン使い」を基礎とし、そこに共存の概念を加えたものとして。もう一つは、ポケモンと対等に共存する者を基礎とし、そこに闘争の概念を加えたものとして。ヒスイ時代の終わりに前者として発生し、現代ではほぼ後者に置き換わった。

 裂け目から落ちてきた者が知っていた「人とポケモンの共存」の様など、ヒスイの人々に理解できるものか。コトブキムラにおけるポケモンの受容は、まずは生活の役に立ってもらうことから始まった。それが浸透した後にようやく、生まれた時からポケモンが身近にいるような世代が現れる。


 裂け目から落ちてきた者がギンガ団を追放されることはポケモンの伝統からして当然ではある。我々は調査隊である前に一人の冒険者だからだ。冒険者たるもの、組織を離れて一対一で自然や己と向き合う時こそが本分だ。この時にはラベンやテルやシマボシも、組織と関係なく私的な信頼によって援助をする。

 神話において何者かが共同体の外に追放されることは、何らかの心的内容が意識の領域から無意識の領域へ送り出されることを表す。それはいずれ再び意識の陸地へ戻ってくる。ポケモンの骨が再び肉体を纏って戻ってくるように。湖の底から何かを拾ってくるように。少年がマサラタウンに帰るように。


 私はポケモン世界の全てを心的過程の神話とみる首藤解釈の立場と、異種族の共存の歴史が紡がれていく一個の独立した世界とみる立場を常に混在させている。後者もどちらかと言えば人‐ポケモン関係に注目するもので、人‐人関係に興味が向いたのはミヅリリからだな。


 アルセウスがスマホに着目したのは、考えてみれば当然よな。それは冒険の場に伴ってゆける携帯端末であり、かつコミュニケーションを拡張する通信端末である。つまり、現代のゲームボーイなのだ。26年が経ったが、心はいつも、町田の林にアルセウス……




 アルセウスについてふと思ったのだが、妙に32という数字に縁のあるポケモンだな。身長・体重に始まり、なぞのばしょバグでは32の倍数の歩数を何度も要求される。この歩数はバイナリをいじることに対応しているのだろう。だがさらに遡れば、32という数字はポケモンの歴史上大きな意味を持っている。

 赤緑の開発のある段階までは、捕まえたポケモンを30匹程度までしかボックスに預けられなかったところ、途中でセーブデータ用の記憶容量が増強されて151匹を超えて揃えられるようになったという。その増強された後のRAMの容量が、32kBであった。これがなければポケモンはない。

 故にアルセウスは、プレイヤー一人一人が生きていくポケモンの宇宙を、その始まりの時より祝福している――と、いうことになっている……。

 アルセウスの司る「あらゆる宇宙」がどこまでの範囲を持つのかは未だに明確でない。ポケモンにおいては異なるレイヤーの並行世界構造が混在している。同カートリッジ内のウルトラスペース、バージョン間のメガシンカの有無、トレーナーIDの違い、ポケモン世界と我々の世界。

 私は今のところ、アルセウスはウルトラスペース・メガシンカの有無・通信ケーブルは超えた存在だが、ゲームの外側の世界については存在は認識しているものの介入する権能は持たないと考えている。故に、プレイヤーは歴代ポケモン主人公に憑依している間のみアルセウスの祝福を受ける。だが――

 だが、「自分はポケモン世界の創造主に祝福された存在である」というめでたい自意識を、プレイヤーがこちらの世界に持ち帰って自分の生に役立てるのは自由だ。ポケモンとしてのアルセウスは第四の壁を越えなくとも、その言葉は越えることができる。


プレイング

 チェリムは太古の洞穴前で連続して出たし、風船割りは途中で止まって落ち着いて方向転換しても任務は達成できるからいいが、ブイゼルは人と比べることの無為を教えてくれる任務よな。


 世界観考察の観点からは不満もあるが、それ以外のゲームシステムは大満足の傑作だと私は思っている。「小さな成功体験を小刻みに云々」というゲーミフィケーションの理論を老舗が全力でやると図鑑タスクになる。音楽は目立たないが、伝説戦のアレンジ(そしてそれ以上に、シロヒカ前世概念)は良い。

 オオニューラとウォーグルによる移動の自由度が高く、あらゆる行動がシームレスで、エリア間移動時のロード時間以外にストレスがほとんどない。ボタン操作は多く未だに慣れないが、その分自分の判断で道を切り拓いている感覚がある。オープンワールド要素がたった二回目でこんなことができるか?

 私はダイパの頃から、伝説だろうとUBだろうとあらゆるポケモンをモンスターボールで捕まえることを信条としており、他のボールは売れるならすぐさま売ってモンスターボールに換えてきたが、今回ばかりはそうもいかないようだな。当たらなければ捕まえられない。ジェットボールは許せ。



 私はポケモンと共に戦う者だが、トルネロスとは共存できんなあ。モンスターボール22個、げんきのかけら5個、けいけんアメM1個、まんたんのくすり2個、かいでんのタネ1個、ガンバリのいし1個、その他諸々、とりあえず返してもらおうか。

 トルネロスとは共存できんと言ったが、その上を行く最悪ナメック星人が来た。もうコピペロス全員∞エナジーにして時空の裂け目の彼方に飛ばしてしまえ。許さぬ。春など来なくてよい。どうせ私は一年中黒衣の身だ。

ヒスイの化身たちと四季

 あれらが四季の神であるという説には若干の疑義がある。仮に四季だとして、技名から考えればボルトロスが夏から秋、トルネロスが秋から冬とするのが自然だが、豊穣の神であるはずのランドロスには秋に比定すべき要素がない。秋の収穫時の一瞬を司っているのか? それは四季と呼ぶには歪な分け方だな。

 れいじゅうフォルムが中国の四神に対応していることは確実であり、四神にはそれぞれの司る季節があるが、技名を一旦忘れるならば、コピペロスの能力はむしろそれぞれの季節の終わりを象徴しているように見える。梅雨明けの雷、晩夏の台風、収穫による秋の終わり、そして春が訪れる。

 四季という均等な分け方で考えると不自然になるが、全体として一年の巡りを表す神々ではあるのだろう。また、天地とその間の仲介者からなる空間の神々でもあることになる。ディアルガ・パルキアという抽象的な時空の概念を、農業という人間の生活レベルへと引き下げた信仰が、つまりコピペロスよ。


リージョンフォーム

 最も物議を醸すであろうオオニューラを敢えてライドポケモンにし、単純接触効果で憎めないようにした時点で八割方勝ちではないか?(後の二割はパルキアだが、貶すほどのものではない。)

 ところでオオニューラの籠にアルセウス紋があるが、もしやあの籠はシンオウさまからの授かり物、または前期シンオウ時代から受け継いでいるのか? オオニューラ自身ではなくキャプテンが継承しているのなら、そのキャプテンが一度空座になっているのは地味な文化的損失ではないか?


先祖一般論

 ヒスイの人々の幾人かが我々の知る現代のトレーナーの先祖であるとして、彼らの配偶者の形質は後世に一切伝わらなかったのか、という疑問がある。また、使うポケモンの好みとその表出まで完全に一致するものかという疑問も。これには二つの説明があり得る。

 一つは、他のポケモンのように姿は片方の親で完全に決まり、もう片方は能力や性格を伝えるというもの。生殖のモチベーションが薄れそうだが、ポケモン世界では肉体の形質の遺伝は重要ではなく、特にヒトは性格と事績こそが受け継がれるに値するものだという価値観を確立している、という可能性はある。

 もう一つの説明は――転生だ。ポケモン世界において、ヒト‐ヒトまたはヒト‐ポケモンの配偶は互いの遺伝子を混ぜ合わせて新たな個体を生成するのではなく、過去に存在した者の魂のようなものを現世に呼び出すためのきっかけに過ぎない、とするもの。同時にもちろん、我々のような彼方からの転生者もいる。

 転生の可能性を私は今まであまり考慮してこなかったが、どうしてもプレイヤーの存在を世界に組み込みたがるゲームフリークの所業からすればこちらにも一定のもっともらしさがあるような気もするな。ミヅキは彼女の母に似ていない。似ている親子の場合は、隔世転生であるやもしれん。

 母が祖母以前の祖先の魂を娘として産む同系内隔世転生を含んだ転生説を可能性として考慮することによって情緒の増す人々がいる。一つはウォロであり、一つは、そう、リーリエじゃな。


ウォロ

 今作ではゲーム内時間が経過するのが速く、朝に始めたポケモン勝負が夜に終わることもある。アルセウスの解像度でもまだ、勝負にはデフォルメされている部分があるということで、そうなると私がミヅキとリーリエの試合を日没に始まって夜明けに終わるようにしたのも正しかったのだな。


 シロヒカ前世バトルの戦闘曲の中の、笛の音が入る部分(スーパーシロナタイムで言えばミロカロスの箇所)が本当に好きでな。この数秒の箇所からありとあらゆる生の苦悩に思いを馳せることができる。キャラクターの隠された側面を語るという点で、ヒガナ戦の弦楽器の部分と同じ機能を有している。


 私はハスキーな男の声といえば“不抜の尖嶺”ベヘモットのフレイムヘイズ『儀装の駆り手』カムシン・ネブハーウしか思いつかない人であるから、ウォロの台詞はCV:皆川純子をより穏やかにしたような声で再生している(私にはウォロは男に見えている)。

 もしも能登麻美子の男性キャラ版と呼ぶべき声を見つけてこられるなら、それがウォロだ。


 分かるか? 数年度の未来に何かの間違いでGOTCHA!と同系統の巨大歴史映像がポケモン公式から投下される時、そこには必ず何らかの形でウォロが登場するということが……

 好奇心というのは衣食住が足りた者の特権でな。ウォロは恐らく個人的な不満やコンプレックスを増幅させて好奇心にくべる薪にしたのだが、それは他人から見れば取るに足りない悩みだろう。人が人のままで神に挑むに大義は要らない。ただ矮小な個人の生を絶対の座に据える傲慢さがあればよい。


 pixiv百科事典の記述は私の解釈と異なる。彼の動機は「アルセウスの力で何かものすごいことをする」「どうなるか試してみたいから」という単純な好奇心ではなく、まず自分の不幸の責任を世界に対して問いたいという怨恨であり、それが表面上好奇心と区別のつかないものを形成している。

 自分の不幸の責任を世界に対して問いたいという怨恨から素粒子・宇宙論の研究を志した者の実例を私は知っている。操刷法師という。


 オカルティストでありもぐりの物理学徒でもある私は、神話を調べ上げたところで決して宇宙の真理を手中にはできないことを知っている。従って私はウォロを憐れむが、数理科学に強いはずのアカギまでもが同じ虚像に縋ったのは感情のなさしめた錯誤と言う他ない。そしてシロナも理学博士持ちだと思う。




 そうか、この叶えてはならぬ夢のリストに、「アルセウスを捕まえたウォロ」が加わるのか……


 主人公が悪のボスと戦う時に聞こえているのと同じ音楽が、主人公と戦う悪のボスにも聞こえている。それは常に、自分の前に立ち塞がる「現世」のテーマなのだ。ウォロにとってその音楽は、辿り着けない未来、慰めを望む過去、自ら閉ざす可能性、「ポケモンと共に戦うもの」に対する意地を表していた。

 ゲーチス・ルザミーネ・ウォロの戦闘曲には、まだ「叫び」を感じる。サカキは悪の覇道が痛みを伴う道であることを承知している。フラダリやローズもそうだ。一方でマツブサ・アオギリ・アカギは、戦闘曲を聴く限り、現世への不満よりもこれから想像する新世界への期待の方が勝っているように思える。

 私がアルセウスのサントラを作るとすれば、ウォロの最後の戦闘曲のタイトルは「決戦!ウォロ」ではなく「対決!ポケモン使い」にする。ウォロの側の心象風景がどうであろうとも、主人公にとってのこの戦いの意義はそこにある。ルザミーネの二回目の戦闘曲が「対決」であるように。


シロナとコギト

 私はひとのつくりしうつわを投げ終わったところだが、まだシナリオへの最終的な講評を述べるには早い。シロヒカ前世概念エピソードを終わらせ、アルセウスと大人のお話し合いをするまではな。

 それにしても、「シロヒカ前世概念」というのも冗談のつもりだったのだがな。今作の先祖周りの色々は、ゲーフリにしてはファンサービスが過ぎるのではないか? それに、何者かの先祖であるということは子を為したということだが、時代が時代とはいえ結婚するようなタマではない奴もちらほらいるぞ。

 先日私は「誰かの先祖であるということは子を為したということ」と述べたが、ここではとりあえず転生のようなものは想定していない。いずれにせよウォロには全てを書き残していてほしいものだな。そしてシロナには、百五十年前に起きた全てを知った上で神話を追っていてほしい。

 シント遺跡イベントにおけるシロナについて、短編でも書くかね。HGホウオウイベントでのまいこはんについて以前書いたように。思えばHGSSは、過去の因縁に決着をつける類のイベントに恵まれているな。



 コギトのあの眉を寄せて目を細める笑顔、短命の者を憐れむ傲慢を自ら恥じているような、かつて愛する者を愛したままで嬉々として殺したような、人であることを捨てた隠棲者の笑顔が私は好きでな。ゲームフリークは片目隠れ熟女にどれだけ努力値を振れば気が済む?

 AZが三千年生きたと称しながら迷い続けているのに対し、それよりは歳若いであろうコギトがああなのは、やはり男と女という生き物の違いなのかね。定命の者であるルザミーネさえ、場合によってはコギトとそう違わない境地に至るだろう。

 シロナの性格がウォロよりコギトに近いとは、私は感じない。そもそも我々にはコギトの素の性格を窺い知ることができないが、シロナは好奇心の人であるという一点からしてもヒスイの頃のコギトとの一致を見ることはできない。プラチナでは良心に従って積極的に動きもした。訓詁屋ではない。

(知己のmaccckeyに)操刷「そこ(コギトよりウォロがシロナの直系であるという説)には迷う余地がない。そう考えた方が情緒効率が良く、サイドの髪と隠れ里の位置だけではコギト説を推す理由にならない。ただ、そもそもウォロがコギトの子孫である可能性はあると思っている。」

 クリア前と後で性格に一貫性がなく(私はそうは思わないが)、故にシロナとの類似はミスリード、と考える向きもいるらしい。シロナの歴史趣味は前世の因縁ではあるが、同時にシロナ自身の生い立ちから出たシロナ自身の選択でもあったと私は信じたい。ウォロもそうだったのだ。


 コギトの子孫ギーマ説? 「人より突飛なことを言ったら勝ちゲーム」がしたいなら、それは自由ではあるが。あの目つきは遺伝するものではない。生の厚みだけが、辛苦の鑿によってあの表情を削り出すことができる。



 コギトを含む片目隠れ熟女が性癖に刺さるという話をしたが、私の言うそれは胸や尻を盛ってバブみに全振りした絵を見たいという意味ではなく、逆にそれら歳相応の(?)肉体的成熟が欠落したギャップ、欠落した代わりに別のどこかが尖鋭化したような鬼気迫る圧力、そうしたものを求めているのだ。

 ナウシカのクシャナに「我が夫となる者はさらにおぞましいものを見るだろう」という台詞があるが、あれと同じようなものをコギトの黒衣の下に想像している。同様の理由で、私はルザミーネを貧乳に描くべきと主張するし、サーナイトの下半身は少なくとも豊満人間型ではない。




 ほんの100日前には、何の“文脈”も有していなかった構図だ。今もない。今を生きている者にとって、二百年前に打破された者のことなど関係がないのだ。(SPで最終強化シロナのトゲキッスにアルセウスを出した画像三枚)

 神ではなくポケモンバトルが、人を救う。私とノボリさんがこの地に根付かせた、ポケモントレーナーのポケモンバトルがな。(SPで最終強化シロナに勝った後の画像一枚)


異邦人


 つまり、ノボクダ閥にとっての今回のノボリ失踪は、我々ミヅリリ閥にとってのリーリエロスと同じだと……? そういう文脈ならサブマス二次創作にも理解が深まる。


 人間が突然いなくなり、その現象の背景に別世界の存在がある、という事例が蓄積されつつある。モーン、リラ、ハンサム、そしてノボリ。とりわけ今回は、強くもつれ合った片割れを元の世界に残した人物を長期にわたって観察することができた。我々は、少しずつだが着実に、シガナの真実に近付いている。


 BDSPアルセウスイベントは、悔しいが“正解”と言う他ない。笛の渡し方もあれでよいし、誘導もいらない。自室から迷わずアルセウスのもとに辿り着いて物も言わずにバトルを挑めることこそが、我々があの大地を旅した証なのであり、辿り着けない者はギンガ団員・ヒスイ統一の立役者・ウォロの敵ではない。

 だが誘導が全くないことは、ヒカリその人がヒスイに飛ばされたとする解釈以外はほとんど棄却されたも同然ではないか? 過去に存在した別人(それがヒスイ時代人であれ現代人であれ)の記憶を夢でなぞったとする解釈は辛うじて延命できるが、風情としては劣る。

 ノボリは何を土産にもらったのだろうな。カミナギのふえはもらったかもしれん。ノボリにはノボリの使命があるからヒカリと同時には戻っていないだろうが、戻った暁にはスーパートリプルトレイン「オヤブン・エクスプレス」を新設し、発車ベルの代わりに試される大地の笛を吹くくらいのことはするか?

 しばくぞ……(SPでフトマキにアルセウスを見せた時の画像四枚)




音楽

「チャンピオン・マリィのアルセウス音源アレンジ」という曲があり(https://youtube.com/watch?v=gRhyoaKjlLU…)、私はこのような強火の幻覚は嫌いではないのだが、海外勢のアレンジは大抵原曲のメロディラインが非常に分かりづらくなるため、曲としてはあまり好んでいない。だがポップさを抑えたい時には役に立つ。

操刷「アルセウスについて訊きたいことがある。ウォロ戦の曲の、シロナ戦前奏が終わってから主旋律が始まるまでの間に笛のパートがあるが(参考: https://youtube.com/watch?v=cofIT5qodv8… の0:52-1:04)、ここは既存曲のアレンジなのだろうか、それとも今作オリジナルなのだろうか。私では判断がつかん。」

操刷「そうか。ここがウォロのオリジナルであれば彼のパーソナリティについて考える材料になるのだがな。シロナ戦の冒頭を速くしたようにも聞こえるが、そうでないようにも聞こえる。 もう一つ相談だが、ゴンベが余っていると言ったな。一匹譲ってもらえまいか。ベイビィポケモンらが一向に出ん。」


 2022年3月現在、私が選ぶ歴代トレーナー戦BGMトップ3は、
1. シロナ(DPPt)
1. ウォロ(アルセウス)
2. ヒガナ(ORAS)
3. ジムリーダー(剣盾)
であり、野生ポケモン戦トップ3は、
1. オリジンディアルガ・パルキア(アルセウス)
2. ウルトラネクロズマ(USUM)
3. ホウオウ(HGSS)
となった。

 オリジンディアルガ・パルキアのBGMは、オリジンディアルガ・パルキアであるが故に、ヒスイ時代のヒスイ地方の雰囲気からどれだけかけ離れた音作りをしてもよいことになっているのがズルい。

 フィールドBGMの順位に変動はない。アルセウス内で言えば黒曜の原野の昼のBGMが最も好みだが、これは発売前の古代ロマン的印象も乗った評価だ。戦闘曲ではUMAがオリジンディアルガ・パルキアの次によい。

 黒曜の原野の昼のBGMといっても二つあるな。切り替わる条件を私は知らんが、重々しい方だ。


その他


 アドバンス仕様のつながりのヒモを素材としてクラフトすることで、メガシンカのない世界のホウエンの未来へと飛ぶために必要なアイテムが完成する。てんくうのせきばん、あおいくさり、あやしいパッチ、それらを合わせアルトマーレに上陸せよ。


 海外勢にツバキが酷評されているようだな。そこまで嫌うほどのキャラか? 確かにさして魅力的な人物でもないが、よくある造形だろう。


 ドーモ、アルセウス=サン。ソーサツ・ホーシです。


 そもそもイモモチにしてからが、ムベのかつての稼業と切り離せない料理であっただろう。ヒスイに来る以前にもめかくしだまの材料として芋の粉末を使っていたのであれば、その材料を調達しつつ正体を偽装しながら貨幣を得るために、シノビの里は組織的に芋の栽培をしていた可能性がある。


 アルセウスは公式でポケモンシリーズの「正史」ということになっているようだが、だとすればどうなるか、諸君には分かるな。『ポケットモンスターSPECIAL 第16章 LEGENDSアルセウス編』が出る。どう転んでも知情意トリオは壊滅する。



DLC「ヒスイの夜明け」

「ヒスイの夜明け」というほど大仰なイベントではなかったが、ともあれこれで、主人公がポケモンなき世界から来たという解釈はほぼ死んだ(「純天啓説」として延命させることができなくはない)。何もかも分からずじまいだったことも、「ポケモンは不思議な生き物だから」と言われれば頷くしかない。

ギンガ団

 訓練場に行く途中、ギンガ団の本部の前でシマボシに呼び止められて屋上で激重ギンガ団しんじつを聞かされ、その後訓練場でかちぬき道をやったところ物の弾みでペリーラがシマボシ前歴しんじつを口にした。これは……何?

 考えてみれば当たり前で、後続の入植団が来ているからには本土で募集をかけているのであり、本土側でヒスイ入植事業を金銭的・情報的に支援している何者かがいるのだ。それも地方を跨いで広域に。つまり、この時本土には既に全国的な大組織があり、それはポケモンリーグの前身である可能性が高い。

 そして、ホウエンの……? 剛剣と言ったか……? 何……? シマボシ自身の武芸のことでもバトルの腕の比喩でもあり得るが、ともかくその種の技能を示す機会とその種の技能がもてはやされる環境とが当時のホウエンにはあったらしい。LEGENDSレックウザの機運か?


ノボリ

(グググ…あれはノボリ・ニンジャクランのオヤブン・ジツ…数に飽かせて押し包む姑息なジツよ。ワシに体を預ければ放電カラテで皆殺しにしてやれたものを…よいかショウ!多少の手傷はこの際構わぬ。一匹ずつ役割論理にて着実に仕留めるべし!殺すのだ!)

 三匹のポケモンで倒せぬ相手だからといって、一匹のチカラ・ワザに頼ってはならぬ。六匹のポケモンを繰り出すのだ!


(ノボリに関する誰かの何らかの意見について)そうだ。ノボリは自身がバトルマニアであるだけでなく、また快楽のためだけにバトルをしているのでもなく、ポケモンバトルこそが世界をより良くするための有効な手段だと信じて、人々に道を伝えている。キミきめのサトシ(ミュウツーの逆襲へのアンチテーゼ)がさらに洗練されるとああなる。

 指先が一発で真正面を向かんな。それとも右の体側をやや前に出すのがポイントなのか? いずれにせよ修練が足りん。(ノボリとの写真一枚)

 ノボリのポーズを皆伝した。このポーズには力業と早業がある。写真では右手の親指を横に逸らしているが、これが早業であり、トレーナー圧で銀板が焦げないよう加減したものだ。一方、勝負や列車運行の際には親指を人差し指に揃えて指向性を強める。力業だ。(ノボリの画像二枚)


 いっぴき道は、バトル廃人のためのものではなく、教育を目的として実施されている訓練メニューだ。バトルと言えば生存か捕獲のためのもので、数で囲んで強い技を早く撃つことしか知らなかったヒスイ人に、ポケモンごとの特質の違いを考慮して様々な戦略を考える楽しみを知ってもらうためにやっている。

 いっぴき道でノボリが案内するのは、あくまで一つのポケモンに無数にある勝ち方のうちの一つで、決してそのポケモンを最も活かす唯一の方法ではない。そんなものは相手を見てから考えることだ。ノボリ自身は、コイキング一匹でアルセウスに挑んだとしても、勝利へのルートを考え続けることができる。

 サブウェイマスターが電車にこだわるのは、地下鉄とバトルという組み合わせの面白さのためだけでも、目的地を目指すことのアナロジーのためだけでもない。運行ルートと時間、規格化された狭い車体、バトルの環境から極限まで不確定要素をなくすことで、勝負そのものの不確実性を引きずり出すためだ。

 世界の全てが数式で表され、しかもそれが解けるはずだとNは考えた。だが、完璧な数式を完璧に解いた結果としてカオスが現れることもままある。管理されたバトル空間、バトルサブウェイではそのようなことが日々起こっている。

アニメ「雪ほどきし二藍」

『雪ほどきし二藍』の時系列だが、人とポケモンの共存が絶望的とされているにもかかわらずピカチュウやイーブイのお面が流通しているのは妙だな。当時、この二種は決して親しみやすいポケモンではない。エレキを出せるというだけでテルはピカチュウを恐れたし、イーブイなどは予測不能性の筆頭だろう。

 アキオのゾロアークの面については、これほど恐るべきポケモンになると玩具というより魔除けとして子供に持たせることがあり得る。あるいは、お面の子供は他の地方から来たばかりで、ポケモンへの忌避感が薄いのかもしれん。それでも、ヒスイの夜明けには時空の迷い人を待たねばならなかったのだが……

 ヒスイにおける人間側のポケモン受容は、ほとんど地域差なく全島一斉に進行した。空から落ちてきた子供が、その不気味な活躍の早い段階でコンゴウ団・シンジュ団の長に取り入ったからだ。ある場所の人々は玩具として親しむが別の場所の人々は共に生きられないとまで言い切る、ということは考え難い。

 ウォロが堂々といる以上はラベン式図鑑完成以前であろうし、時空の歪みはその発生条件に未知の要素が多いため考証に使えない。時空の裂け目が開く前からギラティナの予備的な力の行使で生じていた可能性があるし、裂け目が閉じた後も生じている。ディアルガとパルキアが現世に留まっているからだろう。


『雪ほどきし二藍』は、シナリオの面白さはさほどでもなく画面の構成もシーンの繋がりを掴みづらくしているのだが、ギンガ団についての情報が補完されるという意義はあったのかね。しかしやはり、子供たちのポケモンへの好意的な様子は「共に生きる道をまだ知らない」という時代にはそぐわないが……

 時空の迷い人の前、医者ごっこのアキオのさらに前に、誰かがいたのではないか? まだ恐れに支配されていない開拓村の子供を狙って、見た目が可愛いポケモンから始めて親近感を吹き込み、警戒心を弱めていった何者かが? そいつは破れた黒いコートを着て、奇天烈な黒い帽子をかぶっていなかったか?

 私はきんのたまを(シュウゾウ完走後に)受け取っただけでアルセウスのガイドブック本体にはまだ目を通していないのだが、ノボリの来訪がXX年前と記されているらしいことは聞き及んでいる。ただ、それが必ずしも二桁年前を意味するとは考えていない。また、パトソール概念についても聞き及んでいる。


[1] 電撃文庫編集部『灼眼のシャナノ全テ完』、アスキー・メディアワークス、2013


〈以上〉


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