twitterアーカイブ+:巨大娘・サイズフェチの構造

2023.02.14: note運営事務局より「性的な音声、画像、動画」が含まれているという理由で公開停止措置を受けました。規約に抵触すると思われる箇所を修正して新規記事として公開します。

サイズフェチを知っていますか

 サイズフェチとは、登場人物と環境、あるいは登場人物と他の登場人物との「大きさの違い」に起因する様々な状況を楽しむフェティシズムである。この「大きさの違い」とは文字通り体の大きさの違いであり、特に「サイズフェチ」ないし「巨大娘」と言う場合には概ね2倍以上のサイズ差がある場合、かつ、身長だけでなく体の横幅の縮尺も違っているものを指す。それ以下の差の場合や単なる高身長の場合は「体格差」とのみ呼ばれることが多い。

〈修正前、ここには家内制自転車操業。「淫愛サイズ」所収『D.I.』からの引用画像があった。〉

 この性癖の歴史は古く、『西遊記』の鉄扇公主などまで遡ることができる(今でも中国語圏ではサイズフェチジャンルのことを「鉄扇公主」と呼ぶことがあるらしい)。史上にいくつかのターニングポイントがあり、それは例えば『ウルトラマン』のフジ隊員であったり、同人ゲーム『縮小学園』であったりする。研究書とされるものとして『巨大娘研究』[1]がある。

操刷「『巨大娘研究』、不条理解析の有用性はともかくとして、被食趣味を主眼にした作品の多さに驚いた。踏み潰される描写はゲーム以外では頻繁に繰り返すことが難しいのかもしれないが(死ぬから)、それにしても足裏フェチが少ない。またシュリンカーを(一概に)窃視願望の表れとするのも首肯できない。」

 ただし2023年1月現在、私は窃視願望をシュリンカーの重要な構成要素とすることを認めている。


 本記事では、サイズフェチという性癖がどのような欲望に支えられているかということを検討する。検討にあたり、相対的に巨大であるのが美少女キャラクターである場合を主に取り上げる。男性キャラクターが巨大である場合もあるが、その欲望の構造は美少女の場合とある程度まで共通していると考えるためである。

サイズフェチ総論

 まず、前置きとして、「巨大娘」概念について述べておく。巨大娘(Giantess, GTS)とは鑑賞者に対して極端に体のサイズの大きい美少女の事で、これに性的興奮を覚える人間が存在する。人数は少ないが歴史は古く、怪獣映画やSMなど、そこに至る経路を多く持つフェチである。

 このフェティシズムは実は複合的な要素から成り、それらが奇跡的に巨大娘という表象によって網羅されている。巨大娘の構成要素とは、例えば自分を屈服させる圧倒的な力であり、触れられる面積の増えた肌であり、存在感の具現たる体重であり、都市を破壊するカタルシスである。

 これらの構成要素のうちどれを求めるかによって、巨大娘フェチは「ギガンテス」(通常サイズの鑑賞者に対して巨大な美少女)もしくは「シュリンカー」(通常サイズの美少女に対して小さな鑑賞者)に大別され、その中で更に美少女と鑑賞者のサイズ比において好みが細分化する。

 具体的にどのようなシチュエーションが好まれるかと言えば、鑑賞者を足や尻や胸で押し潰したり、丸吞みしたりするものが典型例である。ギガでは都市や惑星を破壊する事が前提となり、シュリでは生活感を強調するために言葉責めや周囲の環境の描写を重視する事が多い。

 巨大娘は前述の他にも多くの構成要素を持つが、それらは究極的には多細胞生物の「幼年期には身体が小さい」という大原則に端を発しているように見え、人類という種について多くの示唆を与える興味深い嗜好である。なお、私は「シュリンカー:2倍から100倍」である。

(以降鬼北町の「柚鬼媛」像への賛辞が続くため割愛)

シュリとギガ

 プレイの分析に入る前に、誰がそれをするのか、ということについて述べておく必要がある。即ち、「シュリ」と「ギガ」の違いについて。二者の間に優劣はないが、二者が区別されることを知らない者はモグリである。

 サイズフェチのシチュエーションは「シュリ」と「ギガ」に大別される。シュリとはシュリンカー(「縮小された者」)の略で、人物を小さくすることにフェティシズムを見出すものを指す。ギガとは、人物を巨大化させることにフェティシズムを見出すもの。ギガンテスの略とされることもあるが、日本語圏では専ら「ギガ」と呼ばれる。つまり、ヒロインが男性主人公より大きい場合、ヒロインの身長が160mで主人公が1.6mならばギガ、ヒロインが1.6mで主人公が1.6cmならシュリにとりあえず属する。

 この二つはどちらもサイズ差を主題とするものであり、同じジャンルとして括られることが多いが、愛好者の着目するポイントが大きく異なる。しばしば「相対的に巨大娘」という但し書き付きのジャンル名が用いられるのもこのこだわりの違いによる。私自身はシュリを好む。

 私は、ギガとシュリを支える欲望の違いを「日常の享受」という観点から説明する。

 シュリとギガの違いは実はキャラクターの大きさにあるのではなく、見知った日常が自分にだけは違う意味を持って迫ってくるか、非日常が日常を破壊するために迫ってくるかというところにある。その観点からすれば、シュリは近親相姦(特に母子相姦)と相性がいい。リーリエ×ルザミーネだ……!!

(※)リーリエ×ルザミーネ:共に「ポケットモンスター サン・ムーン」の登場人物。

 シュリにおいて過剰に享受される日常は、過剰に享受されながらも、あくまで日常でなければならない。床は床であり、靴は靴であり、少女は少女であること、それらは普通の日常を営んでいるだけで、ただ自分にのみ脅威となるということが常に意識されねばならない。時間感覚の変化はその意識を妨げる。時間感覚の変化については後述する。

 ここで言う「日常」とは、今や死語である「リア充」という言葉に含まれる「リアル」の概念とも近い。フェティシズムの理由を現実の生い立ちに求めるなら、次の図のように考えることができるだろう。

巨大娘と非リア

 巨大娘ジャンル(のうち、自分が小さくなって普通サイズの女の子と色々するもの)は、「リア充」「非リア」という概念と相性が良い。リアルを超える力を求めるのではなく、普通のリアルを過剰に味わう事によって満足を得ようとする試みだからだ。

 つまり、所謂リア充が謳歌しているその「リアル」が自分には足りていない上、二十歳を過ぎてリア充になっても制服セックス組には勝てないだろうから、その差を埋めるための手段として「普通のリアルを過剰に味わう」という発想が現れてくるのだ。

 これは、子供の「巨大なプリンがあったらたくさん食べられるのに」という願望と同種のものだ。プリンは大きくてもプリンである。女の子も大きくても女の子であってほしい。街を破壊するなどの属性は要らない。それには、自分が小さくなるのが早い。

 もちろん、小さくなった自分にとって普通サイズの女の子は脅威である。しかしそれは、元々欲していた「リアル」、つまり女の子の重さや匂いや体温や筋肉の運動が「過剰」になっただけのもので、女の子が全く別種の何かになったわけではない。

 一瞬ごとに、否応なく、ヒロインの生活感を感じざるを得ない。これを「自分で責任を負わずにヒロインの生活感を味わう」と言い換えれば、確かにこれは自分の存在がヒロインに気付かれているか否かを問わず、覗きと同じ構造を持っている。私が今はシュリに窃視趣味の側面があると認めるのはこのためである。

 一つ屋根の下に暮らす人数が多く、また家同士の行き来も盛んであった時代に比べて、現代では「他人の生活空間」というものの持つ神秘性は強まっているはずだ。プライバシーの権利の発見もその傾向に拍車をかけた。これがシュリの愛好者を多く生み出すのは道理であるし、他人の生活空間の最たるものは他人の身体そのものであるため、他の多くのフェティシズムもまた強化される時代であろう。

 そしてシュリの場合、この日常の享受にさらに「独占」という要素が加わりやすい。

操刷「巨大な美少女が街に襲来した場合、絶望は他の人間と共有できてしまうし自分は巨大娘にとって特別な存在ではないし巨大娘の肌の柔らかさや温かさや重さを感じようと思っても瓦礫が邪魔になる……何が楽しいのだ……自分が小さくなれば、日常風景に殺されるという絶望を、自分一人で独占できるのに……」

操刷「ギガは、求められる構図や巨大娘の嗜虐性の描写などはシュリと似通っているが(同じではない)、根本的な違いが二つある。ギガでは他の大勢の人間も同じ体験をしている事と、直接小人を殺すのは足の裏ではなく瓦礫である事だ。独占や接触ではなくカタルシスを求める分にはそれでよいのだろうか?」

 逆にこの不満から、ギガの本質についての洞察を得ることができるかもしれない。それは一言で言えば、「公共的な日常の破壊」(日常の独占的な享受の否定)ということになるだろう。巨大娘が都市を破壊するシチュエーションはギガの典型例であるが、これは日常を破壊し、なおかつその破壊に不特定多数の他者を巻き込むことに他ならない。他者に正面から権威で言うことを聞かせたい、という欲望の表れでもあると私は考えている。シュリが窃視趣味であるというなら、ギガは(巨大娘に視点移入するか否かによらず、ギガを欲望するということ自体が)露出趣味である。

 巨大娘と周囲の環境との関係が核心であるが故に、サイズフェチは「背景」が重要になるジャンルである。一枚の絵の中に、美少女が大きく描かれ、その足元に小さく主人公が描かれているところを想像してほしい。これだけではサイズフェチ絵としての訴求力をほとんど持たない。重要なことは、彼女らの背景に美少女の私室が描かれるか、ビル街が小さく描かれるか、ということである。

 また日常の取り扱い方についても、外形的にギガであるシチュエーションの中にシュリ的思考法がある場合や、あるいはその逆もある。例えば私は、被食描写(美少女に食べられる描写)で実際に起こっている事がシュリだったとしても、被食愛好者の心性はむしろギガに近いと思う。何故なら巨大娘の体内では、普段見慣れている家具などによって世界と自分との大小比(巨大娘とのではなく)を確認する事ができず、無力なのは自分だけであるという感覚を味わう事ができない。あるいは逆に、『ガリバー旅行記』のように巨人の国や惑星に流れ着いた場合、設定上彼女たちの身長が何キロメートルであろうと、その国の建物や部屋が巨大娘の尺度に合わせて作られているのなら、むしろシュリ的な欲望に訴えるシチュエーションになる。

 ギガとシュリは互いに完全に排反な性癖ではないが、一旦分けて考え、その相違点と共通点を分析することによって、人間の欲望への解像度は高まる。

 例えば男の娘とふたなりを「ホモ」の名のもとに一緒くたにしてはならないことを理解できるなら、ギガとシュリを「巨大娘」の名のもとに一緒くたにすることもやはり止めねばならない。絵の見かけではなく、そこに託されている欲望で区分するのだ。ギガとシュリは、ある面では全く正反対の欲望に支えられている。

なぜ巨大「娘」であるべきか

操刷「巨大娘趣味の亜種として、物が車に轢かれるシーンで興奮する人間がいるのは知っている。そのような人間は地震で家が崩れるのを待てばよい。しかし我々には轢くものとして美少女が必要なのだ! 本質は圧迫ではなく承認と接触欲求であるから! 現実で最も近いものは顔騎であるがそれでは足りない!」

操刷「巨大娘(シュリンカー)趣味の本質を成しているものの一つが承認である。小人は一顧だにされないのだから承認とは対極にある、というのは巨大娘(ギガ)の発想で、シュリンカーの場合は美少女は普通の大きさをした世界の中で縮小人間だけを狙って殺しにくる。」

操刷「その上、殺す前の段階では、美少女は無力な縮小人間を実質的に管理・支配する事になる。縮小人間は社会から切り離され、支配権を委ねた美少女を通してのみ世界と交渉できる(縮小人間が複数いて独自の社会を形成する場合、この条件を満たさず、既にギガの範疇である)。」

操刷「これは俗に言う「バブみ」に非常に近い状況である。巨大娘はここに「汗」「体臭」「圧迫」「スカトロ」「殺され萌え」「触る所がたくさんあるということ」といった数多くの概念を付加できるという点で優れているが、本質はシュリにおいては「庇護」でありギガにおいては「畏敬」なのだ。」

操刷「過剰な承認と過剰な接触。しかしその過剰さを供給できるものは現実世界にはもはやないのだ。これが巨大娘愛好者を取り巻く状況の一面であり、脱がせる必要がないから叩かれない代わりに「表現→実行」図式の反例として取り上げられる事もない零細ジャンルの欲望の構造である。」

 大きいのが美少女であるべき理由は、シュリでもギガでもほとんど同じであろう。私は2023年2月現在、「美少女の存在を強く感じられること」「本来弱いはずの相手に力で勝てないことのギャップ」「本来弱いはずの相手であるために、『美少女が傷つくことがあってはならない』という規範が強く働き、不可侵の存在であるかのようにみなされること」の三点で概ね説明できると考えている。もしも人が、これらの理由で表されている興奮をより強く感じたいがために町を破壊して死者を増やしたり美少女の体重をどんどん増やしたりすることを好んでいるのだとすれば、その後触れる作品によっては趣味がギガからシュリに、あるいはその逆に移りうる。ちなみに第三番目の理由についてはササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史』[2]に詳しい。

 とはいえ、美少女でない場合も非情さが前面に出てそれはそれで性癖になるなど、あくまで人間の精神の可能性は無限大であることを付記しておこう。

操刷「(巨大な竜について)諸君には申し訳ないが、ルクノカの擬人化は許さぬ。あの巨大さと竜鱗の硬質さこそが、ルクノカのえっちさの中核だからだ……! 骨肉が液化するほどの運動エネルギーを、生物としての自然な動きで実現する! 人の身では表現できぬえっちさが、地平には有る……!」

プレイ

 サイズフェチのストーリーを駆動するために、小さい側から能動的にできることはほとんどない。数少ない可能な行為は「見ること」、そして場合によっては「話しかけること」であり、これによって巨大娘を恥ずかしがらせたり怒らせたりすることができる。巨大娘は(特にギガの場合)巨大化によって服が破れていたり隠れるところがなかったりするため、見る対象としては優れている。たとえ見ていることが巨大娘に知られなくとも、あるいは恥ずかしがらないタイプの巨大娘であっても、画面は脚や尻や胸で埋まるわけであるから、作品としては成立する。

 しかし、見るだけで満足するサイズフェチ作品はほとんどない。恥ずかしがるにせよ堂々と見せつけるにせよ、巨大娘が何かをすれば環境や視点人物に大きな影響が生じるのであり、この影響こそがサイズフェチ作品のサイズフェチ作品でなくてはならぬ理由である。見るだけなら普通のサイズでよい。従ってサイズフェチ作品におけるプレイは「する」ことではなく「される」ことにほとんど終始する。

操刷「巨大娘(サイズフェチ)は、女体のパーツを強調する表現の最たるものだが、これは「性的に強調」と言えるか? どのような複雑なコンプレックスの乗算でこうなっているか分かるか? 足を見るに留まらず、「踏み潰される」が頻繁にセットになるのは何故だと思う?(画像は『おねーさんは魔女』より)」

 巨大娘ジャンルにおけるプレイは基本的に「身体のどこかで潰される・飲み込まれる・汚物で溺れる」の3系統しかない。現実にはそれらをされた人間はほぼ例外なく死ぬわけであるから、行為そのものにはさほどのバリエーションはなく、また行為に伴う快楽を想像するにも限界がある(人間は自分の死の瞬間を想像できない)。見た目の派手さに反して、行為に至るまでの主人公と巨大娘の関係の描き方が物を言うジャンルである。

圧迫

「潰される」ということが引き起こす興奮と快楽は、それだけで一つの記事を立てて論じるに値する。人間は圧迫に快感を覚える。それは摩擦の快感より早く発達する。例えば子供はしばしば押し入れの中の布団の山に挟まることを好むし、成人でも重い布団をかけて寝ることで安眠できるという話はよく聞かれる。その理由は分からないが、生理的本能に根差すものだと私は考えている。体が小さい時期が母子一体の時期と一致するためか、より小型の哺乳類であった時期に獲得した脳の機能に由来するのかは定かでない。

 圧死は死に方の中では一瞬で終わる部類であり、それゆえ最も理不尽さがある。死骸も見て美しいものではない。しかし、その理不尽さを凌ぐ誘引力が圧迫にはある。あるいは不快さの中にこそ快楽がある(そして、そこにしかない)のかもしれないとさえ私は思う。

操刷「(蟹が車に轢かれる動画を観て)巨大娘を趣味にしている人間――巨大娘が趣味になってしまうような人間がこのようなシーンを見て何を感じるか、恐らく余人には分かるまいな。非難しているのではない。ただ、極度の不快感が極度に深い性衝動と同一物である事を、私はこの動画から知る。好条件下でこれを見れば私は射精すると思う。」

操刷「「重さがかかる」という事、「圧迫される」という事、「潰れる」という事、「潰れて死ぬ」という事、これらは私にとって確実にトラウマと呼べるレベルで生理的嫌悪を催すのだが、何がそうした状況を生んだのか、何故人間が潰れて死ぬシーンだけは例外的に慣れているのか、未だに分からないのだ。」

 巨大娘が体のどこかで主人公を圧迫する場合、主には足の裏・足の指・尻・乳房・股間・膣・太腿・腋・手の指・手のひら・歯・唇・肛門・乳首が用いられる(順序は遭遇頻度の順、私の印象による)。これらの部位は、性的部位とみなされているかどうか・単調で大きな面があるかどうか・巨大娘の意思に伴って繊細な動きができるかどうか・老廃物を排出するかどうかによって分類され、各人の欲望の構成比によって最適なものが選ばれる。これらの要素は、つまるところ以下のような理由で嗜癖となる。

  • 性的部位とみなされている → そこに触れることによって「性的接触を遂げた」という達成感を得ることができる。(尻・乳房・股間・膣・太腿・唇・肛門・乳首)

  • 単調で大きな面がある → 大きなものに身を委ねる快楽を引き起こす。(足の裏・尻・乳房・太腿・手のひら)

  • 巨大娘の意思に伴って繊細な動きができる → 巨大娘が自分に関心を向けていることによる嬉しさが生じる。(手の指、唇、及び他の部位に手で押しつけられる状況)/繊細な動きができない場合、「状況を変える術がない」という不随意さが強調される。(足の裏・尻・膣・歯・乳首) ちなみに、巨大娘が小さい人物の存在に気づいていないシチュエーションをunawareと呼ぶ。

  • 老廃物を排出する → 巨大娘の存在と生活感をより強く感じさせる。また、それが汚れとみなされるなら、触れる者の地位を貶める機能を持ち、マゾヒズムに訴求する。(足・股間・腋・肛門)

 例えば足の裏は、性的部位とみなされてはいないが、単調で大きな面を持ち、一度踏み下ろし始めれば巨大娘自身にとっても容易には加減ができず、足の指ほどではないが汗をかき、場合によっては土で汚れる。単調で大きな面や繊細な動きという点で、手の指や股間などから区別される。「足の裏は好きだが、足の指を動かしてみせて威圧するシーンはさほど好きではない」という者もいる(私だ)。

被食

「食べられる」ということは、「閉じ込め」と「受容」の二つの要素から成る。食べるのに使う器官は口に限られず、膣や直腸や乳腺や尿道(これは特にふたなりや男性キャラクターの場合)、稀に耳の穴や鼻の穴が使われる。これらの多くは当然、同一化と閉じ込めの他に「分泌物に溺れる」という要素を持っているが、それについては後述する。

 食べることは体内に閉じ込めることに等しい。閉じ込められることは体を拘束されることに劣らず人に恐怖を抱かせるが、美少女や好ましいキャラクターがそれをする場合、恐怖は比較的容易に興奮に転化する。これは分かりやすいマゾヒズムの表れだ。

 また、食べられているということは、少なくとも生理的に拒絶されてはいないということであり、さらにその結果として相手の身体に極端に近づくことができる。これを「受容」という言葉で表そう。この要素と無関係ではないのが膣に入れられる場合(unbirth)と乳腺に入れられる場合(nipplevore)で、前者は子宮に入ることをクライマックスとし、後者はしばしば母乳で溺れるところで終わる。膣や乳首は性的部位とみなされている以上、これらの中に入ることはある種の性的接触の達成とみなされ、嬉しさが生じる。母体回帰という既存の概念によって、自意識を手放すことが正当化されやすいという効果もある。

 一方で、胃酸で体が溶けて吸収される展開などには、実は同一化の側面はあまりないのではないかと私は考える。受容は喉を通過した時点で果たされているからだ。その先は「分泌物に溺れる」の系か、またはリョナに属する。

汚穢

 汚れたものに触れることのマゾヒズムと、匂いへのフェティシズムをここではまとめて「汚穢」とした。この二つは上手く分離することができない。人間の社会においては人の体臭や分泌物を全て汚れたものとみなし、一方で人の汗や膣分泌液には性フェロモンが含まれて性的興奮を引き起こすからである。匂いが生理的な反応を強く引き起こすからこそ、社会秩序への脅威として穢れとみなされ、穢れとみなされたからこそ禁忌を暴く快楽を通じてフェティシズムとして強化されたのかもしれない。

 いずれにせよ匂いや分泌物に触れるシチュエーションは、巨大娘の存在や生活感を強く感じさせ、触れる者の地位を貶め、性的な接触を僅かでも果たしたという達成感を生じさせる効果を期待して描かれている。当然、触れるだけでは終わらず、巨大娘の匂いや分泌物は容易に視点人物を殺しうる。特に尿はその量によって、大便はその重さによって、視点人物に溺死や圧死をもたらす。他に唾液・汗・母乳・屁などが使われる。

 ここで挙げた汚物の多くが液体または気体であることは注目に値する。これらは視点人物の体を全方向から包み込み、狭い空間を満たす。例えば匂いの充満した靴の中に入れられたり、ペットボトルに入れられて中に排尿されたりするシチュエーションに顕著に表れる。これにより、逃げ場がないことのマゾヒズムと、巨大娘のより強い存在感、そして大きな面積で接触されていること自体の快楽をもたらす。また液体はどこにでも付着するため使い勝手がよく、足の指で圧迫されるシチュエーションや、さらにその足にタイツを穿かせて汗を溜めておくアイデアはこの性質を大いに利用している。タイツと汗については以下の記事で論じた。

 私は「シュリンカーが受ける行為」を念頭に置いてこれらの三要素を論じたが、ギガで建物や惑星が受ける行為も同じ要素から成り、各要素の意味合いも同じである。ギガの場合は小さい人物と巨大娘の体が直接接触しづらくなり、また「独占」という要素が失われやすいが、代わりに建物のような硬質な物体が破壊される時には「変化の不連続さ」の快楽が頭をもたげる(本当は人間の骨でもそうだ)。それはカタルシスの一種と言ってもよい。

 しかしながら、サイズフェチにおけるプレイに圧迫・被食・汚穢の三要素があるとはいえ、それらの組み合わせは今やほとんど飽和しているというのが私の印象だ。つまり、プレイ内容には多くのバリエーションがあるわけではない。よって、差別化要因は二つ。一つは、物理的に実現不可能なサイズフェチのシチュエーションに、VRなどの技術によってリアリティを持たせること。そしてもう一つは、キャラクター造形。つまり、圧迫などの要素が感じさせてくれる生活感や受容などの諸々を、果たして誰から感じたいか、ということに注目する道だ。

視点人物と巨大娘との関係:日常の享受再論

 私の趣味の都合上シュリについての分析が主になるのをお許しいただきたい。しかし、プレイのバリエーションが飽和し、キャラを立てる必要に迫られていることにはギガでも変わりがないと思う。ギガの場合は巨大娘の生活空間は描かれないため、台詞や挙動によって「そのキャラクターらしさ」を表現することが重要になる。

 シュリのシチュエーション案とは、大きく見れば既に飽和しており、小さく見れば無限に分岐する。どういうことか。簡潔に言えば、「女体は大体どれも同じだが、日常には無限のバリエーションがある」ということだ(アンナ・カレーニナ!)。

 nipplevoreなど身体に焦点を当てたシチュは誰でも思いつく、だが例えば小人の餌として何を出されるかは作品によって違う。その、餌のような細かい点こそがシュリでは性癖を映すのだ。シュリとは日常を過剰に味わうフェティシズム。「どのような日常を過剰に味わうか」が大きな論点となる。

 そのため、今後のシュリでは「どんなプレイがあり得るか」に通暁しているのは当たり前、その上で巨大娘との関係を細やかに描いたり、ResizeMe!のように没入感に特化したりといった「日常の生活感の語り」が作品の評価を左右するだろう。


 サイズフェチのうち、シュリでは「日常空間の見え方が変わる」点が重要な役割を果たす事はよく知られているが、これには作劇上の効用もある。例えば身長100mの巨大娘が都市に現れた場合、必ず建物が壊れ粉塵が舞う。ギガ派はそれがいいのだと言うが、シュリ派にとってはノイズでしかない。

 日常風景に異物が現れれば、我々はその異物が日常風景に与える影響を詳細に想像してしまう、想像する事ができる。しかしシュリの場合、身長1cmから見た世界など誰も経験した事がないため、その世界で何が起こると何が見えるのか、全てをシミュレートする事はできない。(続く)

 それは逆に言えば、作る側が注目したい現象を自由に選んで、それだけを描けばよいという事でもある。身長1m60cmの女の子が歩けば、現実には埃が舞うであろう、身長1cmの視界からそれは無視できまい。しかし作劇上これを無視したところで、鑑賞者は違和感を覚えないのである。

 こう考えれば、シュリは「日常を再構築する」という位相を持っている。これはギガが日常を破壊する過程にこそ重点を置くのと対照的だ。更に言えば、再構築された日常にはもはや「社会」がなく、ヒロインの生活空間と直結している。その意味でセカイ系の構造にも似ている。


 キャラクターという観点で特筆しておかなければならないのが、母親が実の子供に対して巨大である場合であろう。この場合は、プレイが圧迫であれ被食であれ汚穢であれ、単なる殺害や受容を超えて「生まれてきたことの否定」という側面を持つ。母体から出たものを母体に戻す(≒埋もれさせる)行為だからだ。これは小さい側が望んでいる場合でも望んでいない場合でも、マゾヒズムに強力に訴求する。Unbirthやnipplevoreの場合は「生まれ直し」の要素を持つが、こちらの方が破滅的さがマイルドになる。

〈修正前、ここにはルザミーネが小さくしたリーリエを裸足で踏むdeviantartのBSFLove氏の絵の引用画像があった。〉

各論

時間感覚の変化

 本川達雄『ゾウの時間、ネズミの時間』[3]では、生物は体の大きさによって代謝の速度が異なり、その結果、感じている時間感覚も異なるはずだという提案がなされた。この発想がサイズフェチに持ち込まれることが稀にある。つまり、小さい人間は巨大娘に比べて短い時間で生理機能が働くため、思考や感覚が速く、従って巨大娘の動きが緩慢に見えるはずだというものだ。私は個人的にはこのようなシチュエーションを好まない。

操刷「私はアロメトリー(ここでは、体の大きさと時間感覚の相関)も好まない。シュリとは日常を過剰に味わいたいという欲望であり、そして時間とはカント曰く内的感官の形式である。対して空間は外的感官の形式。せっかく過剰にした外界を、内に取り込む時にまた薄めてしまってどうするのだ。」

操刷「我々は本質的に変化しないものを認識できない生き物で、外界の動きが緩慢に感じるようになれば、(快楽責めでもされていない限り)主人公も無気力になるしプレイヤーも無気力になる。よってこれはバッドエンド以外で使うべきではない。ところが抜きゲーではバッドエンドもまた抜けるべきなのだ。」

操刷「我々は、身体の大きさによって種の平均寿命が異なるとか、大腸菌が目視できるとか、そのようなことを求めているのではない。それらは全て、「女体に触れていることを実感する」とか「決定的なアクションを美少女の方から起こしてくれる」といった観念を補強するための添え物の一つに過ぎないのだ。」

縮小の手段

操刷「ラグスト、ビームで巨大化するシステムなのか(私に言わせればサイズ変換に光線を使うか薬品を使うかはサイズフェチにとって非常に大きな問題である。薬品は触感を伴うし、重力の影響で使う側の体勢や使われる側との位置関係が制限されるから)。」

※ラグスト:ゲーム「ラグナストライクオンライン」のこと。

構図と流れ、そして死という特異点

操刷「絵師であるばいおーぶ先生が言うならそうなのだろうが、しかし私には、サイズ絵に常に付きまとう「顔と足を一枚の絵にバランスよく収めることと、実用的な迫力や臨場感を出すこととが両立できない」という困難が、「垢抜けた絵になりたい」という悩みには多分に含まれている気がしてならないのだな。」

操刷「バランスが崩れているが故の、フェティシズム。しかしバランスを崩すと万人受けせず、数字が上がらない。サイズ絵を垢抜けさせるより、全ての一般人をサイズ沼に引き込む方がまだ容易く思える。人は誰しも、生殖適齢期の女性の数分の一から数十分の一の体長であった頃があるのだから。」

操刷「私の思うに、サイズフェチとはシュリでもギガでも、人間関係や物体構造の変化を予期して楽しむことに核心があり(物体構造の変化とは、つまり破壊のことだが)、一瞬を切り取って一目で見せる静止画とは本来相性が悪い。テキストを入れるか複数ページにして初めて完成するジャンルだとさえ思っている。」

操刷「時間の経過を導入したところで、サイズ絵に特有の困難がまだある。それは、人は自身の死を想像できないにもかかわらず、小さい方が死ぬところを高解像度できっちり描いてもらいたがるということだ。「死んだ後の姿」では物足りないという点が他の猟奇ジャンルと異なる。」


操刷「私の傾倒するサイズフェチというジャンルは、少なくともawareであれば、このような「死の瞬間へとどれほど肉薄できるか」という挑戦を迫られることが多い。「巨大娘にゆっくり体重をかけられて死ぬ」というシチュエーションでは、珍しい拷問器具や派手な絶叫で誤魔化すこともできない。」


操刷「巨大娘がえっちであるということは、つまり死がえっちであるということだ。死を予感させなければ巨大娘はえっちではない。死の最も原初的な形を、糖衣にくるんだものが巨大娘。そして実は、尋常のセックスだろうとオナニーだろうと、全てのものは死を予感させなければえっちではない。」

〈修正前、ここには『縮小学園』の青髪の陸上部女子の画像があった。〉

まとめ

 まとめよう。サイズフェチは日常の過剰享受を旨とするシュリと日常の破壊を旨とするギガに大別され、プレイの面では圧迫・被食・汚穢から構成される。バリエーションの飽和を打破するために巨大娘と視点人物の関係を丁寧に描くことが求められている。


なおもシュリとギガについて

 近年の商業作品にギガに比べてシュリが少ないことについて、しばしば私は慨嘆する。

操刷「(巨大化を解決すべきアクシデントと見る主張について)だから、私はギガが好きではないのだがな。巨大娘においては、乳や尻のような尋常のスケベがサイズ差によってお得に見られるというだけでなく、サイズ差があることそのものが全く新しい性的さを生み出す。しかしギガでは、巨大化が社会に及ぼす影響を描くことに尺を割かれ、性的さの掘り下げを妨げる。」

操刷「巨大娘を、社会の許容能力を完全に超えた破壊の化身として描くなら、そこにはカタルシスがあり、社会を維持するための対処を噛ませ犬として描くことにも意味があるだろう。しかし社会を維持できてしまうタイプのギガでは、どこに効用があるのか分からないでいる。」

操刷「巨大娘に社会的な対処ができるなら、やがて常人と巨大娘は共存し、巨大娘がいる風景は日常になるだろう。日常。それは、むしろシュリの領分だ。美少女の普通の生活を、死ぬほどの大事として感受したいという欲望。「シュリンカーは日常の過剰摂取」というテーゼを私は唱えている。」

操刷「シュリを、セカイ系の反転として位置付けることはできないだろうか? 即ち、美少女を日常空間に置いたまま、主人公の方を彼方の「最大項としての世界」の側に飛ばす装置として? 微視的なスケールに潜れば潜るほど、ある意味で世界の普遍的な真理に肉薄していると言えるのではないか?」

操刷「ギガでは10^15倍(即ち、1光年)程度までの巨大化が普通にあるが、シュリでは10^{-4}倍以下はほとんど見られない。微生物などの「美少女以外に動くもの」を捨象する描き方が、そのスケール以下では美少女の細胞一個単位が独立して動く様子を描かざるを得なくなって破綻するからだ。」

操刷「(ただし、細胞一個単位にも性的さを付与する手段はないではない。美少女がふたなりであり、細胞が精子であればよく、これはうる先生がよく描いているモチーフだ。)」

操刷「粘性や付着力や回折限界を無視しても、視覚的には縮小倍率に対応する大きさの何かを描いて比較対象としければならない。10^{-6}倍程度でウイルスの大きさに達する。これ以下のスケールでもなお美少女の存在を感じさせようとするなら、「ウイルスの擬人化」のようなくりこみを行う必要があるだろう。」

操刷「10^{-4}倍でも、ミリサイズを切ること自体が一つのバッドエンドとされ、縮小後のことをまともに描いている作品は少ない。スケールごとにプレイの描き分けができるのはこのあたりが限度だろう。しかし――先述の、ある意味で真理に肉薄するとは、素粒子に近付くことではなく……何というのだろうな……」

宣伝:それなのにギガ小説

 ポケスペBW2のファイツが、ポケウッド映画「OL・ザ・ジャイアント」に出た時の話を書いた。巨大娘、ということになる。ファイツは役に没頭するあまり、脚本を無視してイッシュを滅ぼし始める。全てラクツのせいだ…… /ファイツ・ザ・ジャイアント Part1 | 操刷法師


[1] 鳥山仁、嵯峨翡峰『巨大娘研究』、三和出版、2012
〈修正前、ここにはとらじまねこ氏のpixivへのリンクがあった。〉
[2] ササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史』、講談社、2004
[3] 本川達雄『ゾウの時間、ネズミの時間』、中央公論新社、1992


〈以上〉

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