twitterアーカイブ+:漫画『放浪息子』感想:当事者性と子供の恋愛

漫画

『放浪息子』を読んだ。この漫画はストーリーを追うためにも登場人物の感覚を掴むためにも恐ろしいリテラシーを要求する。私には女装にまつわる経験がそれなりにあるが、二鳥くんや高槻さんと同じ悩みを共有する者ではない。きっと多くの読者が、この「理解を拒絶された感覚」を味わうのだろう。

 この作品は分かりやすいメッセージを打ち出すものではなく、ただ人生が流れていく類の物語だが、その中でも救いをもたらし得るものとして提示されているのは「自分について真摯に語ること」だ。私も、精通以前のことについて思い返してみる必要があるだろう。何度もやったつもりではあったが、今一度。

 二鳥くんは恐らく違うのだが、「女の子が好きだからこそ女装を必要とする」という考え方はゼロ年代に広まった。それは、単純に好ましい姿でありたいという願望に加えて――「男性ジェンダーには潜在的強姦魔という性質が予め含まれており、人権社会における性愛とそもそも整合しない」という事実による。

 二鳥くん一人が女の子になろうとする物語ならここまでの圧力は出ない。高槻さんがいることによって初めて、互いに投影し合う痛みと、その関係が身体の変化と共に軋みを上げていく悲しみが生まれる。「いらないならぼくにちょうだい」「彼女とぼくは同志だろうか?」の二言に全てが――全てがある。

『秒速5センチメートル』に通ずる苦さがある。あからさまな救いやメッセージではない、流れてゆく人生のリアリティを描く作品も私は嫌いではない。

 このタイプの作品は、象徴を解釈しその整合性の美に酔うするというインテリな楽しみ方ができない分(その極致が『やがて君になる』である)、読者自身の人生がどうだったか、どこまで共感できてどこからできないかを常に自問させる。現実逃避か暇潰しのために作品を読む者には理解できない味わい方だ。

 私が最も“深み”を感じたのは、二鳥くんの精通のシーンである。性器以前の衝動の根の深い深いところがどうなっているか、射精がどのようにその領域にアクセスするかを理解した者による描写だ。女性作家というならむしろ納得で、「抜く」ことに慣れきった男性は往々にしてこの感覚を忘れる。

 私は人としての自分の肉体を嫌ってはいないが、自由に着替えられるべきものとは思っている(そう思った時には既に第二次性徴が終わっていたことが救いといえば救いである)。従って、身体に不可逆な加工を施すことは好まない。例えば髭の永久脱毛をしない理由がそれだ。

『放浪息子』を読んで印象に残る点の一つは、相手の家に上がり込むシーンの多さだ。このプライバシーの時代、「相手の家に上がる」ことは親密さや承認のメルクマールとして大きな意味を持つ。私のような進学校出身だけでなく、地元密着型生活を送る者にとっても早晩そうなるだろう。

 さらに、互いの家に頻繁に遊びに行くことを親ぐるみで公認し、そのような関係を交際相手だけに限らない(=友達が大勢やってくる)ことによって、背景としての子供時代のモラトリアム感を維持し、第二次性徴がそれを内部からゆっくりと変質させていく痛みを鮮明に浮かび上がらせている。

『放浪息子』には悪い大人が出てこない。それぞれがそれぞれの立場において、あれ以上のことができただろうか(二鳥さとみの対応と、例えば「女装? どんどんやっちゃえ」のような対応の優劣を比べることは難しい)。当事者の問題を外的な障害で誤魔化すことなく、よくぞ描ききったと思う。

 子供同士の恋愛においては、「相手の家にお邪魔すること」こそがゴールである場合すらある。身体接触への関心は薄く、「相手のことをとりあえず知りたい」という欲求が大人よりも前面に出る。しかし、自分と同年代の子供に、隠された「知るべきこと」など大してないということも同時に感付いている。

 たとえ知るべきことがあったとしても、自分はそれを上手く引き出せないだろう、相手も上手く語れないだろうという諦念もある。そのため、人間という当てにならない語り手ではなく、実体を持った物を通して知ろうとする。それは相手の持ち物であったり、写真であったり、家という空間であったりする。

 ここで、「当てにならないとしても、相手本人と接して引き出していくのをなぜ厭うのだ、好きなのは相手本人なのだから」という反論があるかもしれない。この前提は誤っている。好きなのは相手本人ではない。子供には特に顕著だが、本能を刺激された相手の向こうにある不定形の暗がりを、見ているのだ。

 その不定形の暗がりを、「集合的無意識」と呼んでもよいし、「現実界」と呼んでもよいし、「死」と呼んでもよい。そこに向かって働く誘引力は、天蠍宮の原理である。

アニメ

 アニメ版『放浪息子』を観た。これは駄目だ。中学生編だけを抜き出す構成は、話としては最も盛り上がる代わりに最もテーマ性を損なう。ラストも、「みんな違ってみんないい」的な安易かつ唐突な割り切りで原作の深みを台無しにしている。人に薦められん。原作もこうだと思われては敵わんからな。

 高槻さんや千葉さんがいてくれるから、背が伸びて声が変わっても女でいられるか? 劇が成功すれば、ありのままの自分を認められたことになるか? 小学生編を描かないことで薄っぺらくなった葛藤なら、能天気で野卑なあのOP曲の世界観なら、まあそうだろうとも。

 小学生編を描かないことで、二鳥くんの願望が具体的にどのような苦しみを伴うのか伝わらず、ただ贅沢な悩みを抱えてハーレムをやっているように見えかねないし、千葉さんが果たしている役割も不明瞭になっている。このアニメはトランスジェンダー当事者からも歓迎されなかったのではないか?

 もし全十二話で二鳥くんの性別違和を描き切るなら、小学生編から始めて、千鶴・かなこ・桃子は出さずに二鳥・高槻・千葉の三者関係に絞り、中二の文化祭は飛ばし、十話で中三の文化祭、十一話と十二話でTV版エヴァめいて「ぼくの記録」を延々語るくらいのことをしなければなるまい。

 アニメ版の「女の子の服は似合わない」「男の子の服はつまらない」という台詞は、高槻さんは着たい服を着るという生き方をもうしていないが、二鳥くんは自分で自分の在り様を選び取っている、ということの表現か? しかし高槻さんの「同志」感を最初に印象付けておかなければ、その意図は伝わるまい。


〈以上〉

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