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水槽の魚

水族館

わたしはいま外の世界を見たくてもがいている。ただ、もがいているだけだ。

水族館の狭い水槽の中に作られた
本物の海のような場所で
外が見たいともがく。

水槽の中で生まれた魚は
水槽の中の世界を知り

ただ目の前に広がる世界が
全てだと思い過ごし
与えられた餌を食べ、
のびのびと豊かに暮らし、寿命を待つ。

ただ、豊かである。
自らの中で美術を作り出し、自らで鑑賞する。

海で暮らす魚たちは
まだ見ぬ世界を目指して進む。
食べるものがなくなればあるところに。
仲間がいなくなれば仲間を探しに。
見える世界は果てしなく変わる。
いつ自分が死ぬかわからない
寿命を待つ暇などない
その日1日1日を必死に生きる。

余裕を持つ余裕がないということだ。
新しい世界は果てしなく変わり
ふと命が終わる時、その運命に委ねるのだ。

私はさながら
水族館で生まれた。
海につながる小さな排水溝から外の世界の話を聞き、憧れているだけの魚だろう。

外に出るにも怖いと思う。

水槽の中の小さな世界のルールがこの世の全てだと思い込んでいる。

小さな世界にいることが1番安全だと
この世界の人は言うだろう。

だけれど、少しずつ聞こえてくる水槽の外からの言葉や歌に耳を傾けていくうち、自分自身もその目で水槽の外を見てみたいと思う。

知らなければ幸せに過ごせたなんてことは
山ほどあると思う。
欲望に身を任せれば自身を滅ぼすというような言葉もある。

ここで私が
一歩踏み出すことが正義なんだと言うことは簡単だ。ただそういったことは、
水槽の外にいる魚たちしか真意はわからない。

水槽の外にいる魚たちは
毎日安心安全で待っていれば餌を与えられる世界に行きたいと思っている者もいるだろうと思う。

どちらにも正解は無い。

だからSORRY NEBOSUKEの真意は

元気な時は水槽の外に出て広い世界を見る
命の危険を感じたら水槽に戻ってきて回復をする
また元気になったら外の世界へ行く

という風でいいのではと思う。

岡本太郎氏は、闘争こそ芸術で
自分が大変な方に身を任せることこそが芸術的 だとさえ言っていたけれど
普通の人間がそれをしたら
耐えきれなくなって消えてしまうだろう

だからSORRY NEBOSUKEは
ゆるりゆるりと、今自分がいるべき場所を、
その時の自分自身に合わせて変えていくことこそ
目指している場所に辿り着くまでの過程だとおもう。
一度外の世界を見て水槽に戻ってきた時
また違う世界が見られると思うから。


東京で電車移動している時に
ふと思いついた内容です。

グッバイ!

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