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悪を背負う者・背負えぬ者

どうも、お久しぶりです。それなニキです。
テストと夏風邪で一ヶ月ほどnoteを休んでおりました(´・ω・)
夏休みに入ったので、久々にAIで遊べそうでウキウキしています。

本題に入ります。
一ヶ月ほど前、以下のような投稿をしました。

したんですけど、これだけでは余りにも乱暴な気がするので、一応この間にあった考察について説明をしておこうと思います。

(相も変わらずクソデカ主語を振り回します。酒のつまみにでもするぐらいのテンションでお読みください。)


Noblesse Oblige

さて、何から話せばいいか分からなくなるぐらい話すべきことがあるんですが、まずは私が今回の投稿に至った原因となった言葉を紹介しましょう。

女性を加害者にするな。

出典を明確にしようかと思いましたが、いいね数の多い記事だったし、
無闇に対立を煽るのも良くないと思うので、どこかの誰かが言っていたことにします。

ミソジニー的な文脈の「男性差別」の存在を否定する系のnote記事で目にしたものですが、コレを読んで私の中の何かが音を立てて崩れたのを覚えています。

(元の記事では女性保護のためのゾーニング(女性専用車両など)擁護の話が主で、私はそれ自体には賛成です。)

この主張は、現在noteをはじめとするネット界隈で「フェミニズム」と称されるものの主要派閥が根底に抱える認識と合致しているように思われます。
女性の被害者性に関する主張は声高にしてらっしゃいますが、女性の加害者性について提起されると「女性の被害者性を否定される」という恐れからか、拒絶したり無視したりする方がかなり多い。

こうした事態が垣間見得た事案の一つに、半月ほど前に話題になったトランスジェンダーのトイレ問題に対する反応があります。
「フェミニスト」のトランスジェンダーの方々に対する拒絶的な反応が、授業で習った黒人差別と恐ろしいほど一致していて(黒人の犯罪率が白人より圧倒的に高かったために、白人の安全が脅かされるという主張が当時なされたというのも含めて)、一周回って歴史を見ているようで面白かったです。

私としては、犯罪の危険性についても理解しますが、あくまで技術的に対応するべきだし、どうやって折り合いをつけるか考えた上での建設的なトライアルだったのだろうから、不安だから絶対ダメですというのは少なくとも現代の価値観ではあまりよろしくないだろ…と思ったのですが、どうもそう考えない方がそこそこな数いらっしゃる様子。
それに、こうした「弱者」への対応って、ここ十数年の間リベラリズムの下で男性が女性に行ってきたことと基本方針そんな変わってないんですよ。
自分たちが誰かに配慮する番になった途端、急に「嫌です」っていうのは話違くない?って思ってしまいました。

もう一例として、前の記事でも触れている弱者男性の件を触れようかと思いましたが、この文脈で触れると私怨も混じるし、後で取り扱います。

話を戻すと、女性の加害者性・強者性について、我々はいづれどこかで再考しなければならないと私は考えていました。
それは、女性の被害者性を否定するものではありません。男性の加害者性を否定するものでもありません。ただ、女性の加害者性、もっと言えば、男性の被害者性についても検討することを通じて、女性が「自己の加害者性についてもきちんと向き合うことのできる、強者としての責任を全うできる者」へと昇華するための過程です。

"男女平等"とはそういうことでしょう。
少なくとも、女性の権利を男性と同等にするという「都合のいい」側面だけで女性活躍が構成されているということはありません。
男女平等と言われると、私も含めてどうしても、女性が明るい場所でキラキラ活躍する、という側面ばかり想定しがちですが、その裏で「自分の加害性を自認・内省できる者」という立場が男性に「独占」されている状態は、果たして男女平等と言えるのでしょうか?
その社会では、女性は「扱いの多少面倒なお客様」とでも言うべき存在に成り果てるのではないのですか?

現実

で、上記をこれから否定していくんですけども()

ここまで述べてきた話、確かにちゃんとしてるんですよ(少なくとも考えている私の脳内では)
でも、こうした考え方って、現実に全然即していないんですね(突然の裏切り)

「女性も責任を負うべきだ」と言う私は、リベラルフェミニズムと呼ばれる、18世紀終盤に始まった古いタイプの、ちょっと温厚なフェミニズムと認識を共有しているんですね。この主張は2010年代に世界を席巻してたことがあるので、フェミニズムといえばこっちなイメージがある方もいると思います。

んじゃ現代はどうなっているのかっていうと、紆余曲折ありましたが、「やっぱ女性is純粋な被害者なのでは」という方向に振り直しつつあります。
特に既存のフェミニズムが「女性の男性化」を主軸にして、男性性の責任とかも一身に背負おうとした結果、だいぶマッチョイズム的な路線だと取られてしまい、社会的に強者の立場にある女性にしか達成できないものだとして批判されている現状があります。
そのバックラッシュとして出てきているのが「99%のためのフェミニズム」とか「令和版フェミニズム」とか称されている「フェミニズム」です。これらの主張、その中身を吟味すると、加害者性の認識という点については相当逆行しているのが伺えます。

加えて、そもそもこうしたフェミニズムそのものが、この議論に関わっていない人々にとって面倒なものとして忌避されているという実情もあります。
男女平等が叫ばれてから年月が経って世代が交代したこともあり、ちょうど親の世代あたりに押し付けられたものが否定される番に回ってしまうわけですが、特に若者世代、私の同期あたりが思春期に親世代に押し付けられたフェミニズムってどの世代かわかりますか?

そうです。リベラルフェミニズムなんですね()

もう少し厳密に言うと、我々世代は男女平等の思想をある程度は自然に吸収していますが、現在進行形のムーブメントとしては反発しています。
特に、保証される権利は受け入れてますが責任とか義務とか大嫌いです。
結果として、我々世代は「男性は守るもの、女性は守られるもの」「男性が悪で女性が正義」と言った20世紀型の価値観に「でも男女の権利は同等」と言う認識をくっつけた思想を露骨に示しています。

加害性を認識できない・しない社会

上記の現状を踏まえて、私が「女性も内省してもろて」と言う立場を、実名の方で採用したらどうなるでしょう。

無事、「なんか変なこと言ってる、排除すべき落伍者」の仲間入りを果たしてしまいます。
おっと、お前は障害者だから元から生まれつき永遠の弱者だろとかそう言うことを言ってはいけないよ。

ただでさえ障害者(私は元ADHDで幼少期から高校まで施設に通ってました。障害者手帳はありませんが。)という立場を隠さないと、女性に凄まじい冷酷さで線引きされるのだから、そんなことしてる場合じゃないのは火を見るより明らかです。

発達障害者も平等にって優しい言葉吐きながら、でも彼氏・夫は頼り甲斐のある健常者がいいってみんなして線引きするせいで、理解ある彼氏くんが顕在化する一方で理解ある彼女さんが全然発生しないの、女性性の加害性の最たるものだと思うんですけどね…

結局私怨まみれになりました。気にしないでください。

まあ障害者とか特に関係なく、今日において男性が女性の加害性について考えてみようなどと口走った日にはかなり社会的に弾圧されるようになりつつあります。
少なくともモテなくはなりますね。

でも、私はこれ以上社会的に弾圧されたくありません。友達はいっぱい持ったままでいたいし、社会の陽の当たる場所で生きていきたいです。
ましてやこれ以上モテない要素を増やしたくありません。個人的にも人生に伴侶は欲しいと思っているし、伴侶のいない人間に対する社会的な風当たりも少子化や恋愛至上主義の煽りを受けてきつくなってきています。

そして、現代において社会弾圧やモテからの排除は、こうした個人の欲求が充足されないだけにとどまらず、十分な脅威たり得ます。
SNSによって言論が活発化しエコーチェンバー化でその先鋭性、影響力を容易に伸ばせる時代において、社会弾圧を受けた際の逃げ場のなさは尋常ではありません。
また、特に男性については、その内面的価値をモテと結びつけて測られがちです(経験人数とか聞かれるやつですね)。「モテないやつ」認定された時の生きづらさったら相当なもんです。勘弁してくれ…

正義となったBenevolent Sexism

女性という主体が自己の加害者性を認識・内省する存在であると信じていたいのは山々だし、上記のような私の諦念を否定するような社会運動が起こってくれることを、この文章をしたためている現在も心のどこかで期待しています。

しかし、現実の社会で生きていく上ではむしろ慈悲的性差別を行うことが要求されるようになってきており、そうした傾向に疑問を持つと、特に男性の場合は不利な立場に立たされます。
従来から強者としてNoblesse Obligeを強要され、実行してきた人がそれから逃げようとする構図と捉えられがちです。

幸い、私にはそうした類の不条理を受け入れられるだけのマインドセットを幼少期に父方の叔母に仕込まれています(ありがとう叔母さん。あなたが居なければ即◯だった…)。東大受験というとてつもなく大きな試練を乗り越えた実績によって、その屈強さは実証済みです。
きっと私は、社会からの要求をなんとかこなし、男として社会悪の存在を一人で背負い込んでも生きていけるでしょう。

私は、性差別に関する話題についてこれを機にしばらく考えることをやめようと思います。
考えても考えても誰も肩の荷を分かち合ってくれる者は現れません。
今不服を訴えたところで、無視を決め込まれるのが関の山でしょう。
(ほとんどの)フェミニストも、(ほとんどの)ミソジニストも、自分の加害性について棚に上げて、被害者性ばかり叫んでいます。
そんな馬鹿げた茶番に付き合うことはもうしません。

私たち男性だけが、社会悪の原因たり得る。
それで大切な人が笑ってくれるなら、もうそれでいいような気すらしてきました。
これが男性性の発露だというのでしょうか…

まあ、君が笑ってくれるならヨシ!

5年後とかにこうなってないことを祈る

足跡(参考文献)

この間に読んでいたnoteを置いておきます。
私が何を考えてきたのかが推察できると思います。
(勝手に引用させていただいた筆者の方々には申し訳ございません…)
(多方面に喧嘩売ってるみたいになってないかなコレ)

曲コーナー

ちょっと変な自己表現方法ですけど、1日何時間も音楽聞きっぱなしな重度の音楽中毒の私からするとこっちの方がしっくりきますね…
本文読むよりこっち聞いて欲しいまである。
今後もこういう類の文書を書くときは付けていこうと思います。


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