考え方|飛行機から見下ろした景色
こんばんは。今日もおつかれさまです。…という文頭が、このサイトの「あいさつ」なのだなあとビックリしました。そういう訳で、自分もならって言ってみようと思います。
こんばんは。今日もお暑い中、どうもおつかれさまでした。いかがお過ごしでしょうか。
どうでもいいのですが、「ごくろうさまです(でした)」という挨拶は、立場によっては失礼にあたる、というお話を伺った事があります。
…任侠映画で用いられる「ごくろうさまです」は、一体どこに所属をした挨拶なんでしょうか。誠に不思議な世界です。
さて、記事2弾目となる「飛行機から見下ろした景色」についてお話を始めていきたいと思います。思想が強めのお話になるので、気分が悪くなったら、すぐにブラウザバック(死語)してください。
幼少期より
幼少期、いわゆる物心がついた頃の自分は、暇さえあれば考え事をしている子どもでした。
たとえば、木目をじいっと見つめたとします。よーい、スタート。
…この木目の模様は一体どうしてこんな形をしているんだろう。…木目の模様は、年輪というものもあるらしい。…もしもこれが年輪だとしたら、この木は一体何年目にして伐採されて、「写真のフレーム」になって、俺のところに来ちゃったんだろう。…もしもその木が、いまよりずっと昔に芽生えたんだとしたら、一体どの時代だったんだろう。もしかして、今先生がお話している平安時代よりも前だったりして。…そもそも、この木はどこからやってきたんだろう。もしかして、奈良からやってきたりして。もしもそうだとしたら、奈良時代の奈良の木として芽吹いていた時期もあったのかもしれない。…と、なれば。あの有名な歴史人物も目にした事があったりs「いたい!!!!!!」(先生にボコッと頭を殴られる。)
そんな感じの、こまっしゃくれたガキでした。
ある日、理科の先生に聞いた事があります。「先生、宇宙ってどこまでが宇宙なん?」と。そうすると先生は、「自分の想像の限界が、宇宙の果てや。」そうおっしゃいました。かっこいい…! とときめいていた自分が妬ましいほどに、今の自分はといえば、ただのポエマーやんけ、と即答するひねくれたオトナになってしまった訳です。無念。
ですが、そのポエマーな理科の先生のおかげで、十数年経った今もはっきりと記憶に残っています。きっと、オトナが話すようなおべんちゃらだったら、当時のひねくれたガキは「つまらん」と言って、授業を抜け出していたに違いないでしょう。(でも多分、そのあと授業にすっかり飽きてしまうのは間違いないので、どちらにせよ脱走していたと思います。)
そうやって考え事ばかりしていると、ずーっとずーっと頭が動いているので、要らん考えもよぎります。人の目をじいっと見つめて、この人の目の細かいところが分かるまで、ずっと見ていようとか。あのシマウマさんの縞々部分をぐるぐる取ってしまったら、本当にシマママになっちゃうんじゃないかとか。クレヨンはいい匂いがするから、きっとお菓子になるはずだ、食べてみようとか。消しカスって弾力があるから、ガムになりそう、食べちゃおうとか。あの草おいしそう、食べよ、とか。土よりも砂のほうが、食感が好きとか。…あれ、食べてばっかだな、俺。
そしてついに、今現在も頭を悩ませてしまう、とある考え事に至ってしまいます。
「ああ、この人って、俺が家に帰って宿題をしている間も、ここでアルバイトをしているんだ。」と。
つまり何が言いたいかというと、「自分が暮らしている同じ時間に並行して進んでいる時間で、他人は違う暮らしをしている」という事に、違和感を抱き始めたんですね。今思えば、ここでブラウザバックをしてほしかったものです。
たとえば。
今、自分はうんうんと悩みながら日本語という記号をそれらしく配列して、文章という形にして、世に、人になにかを伝えたい。そう思いながら、こうしてタイピングをしています。
その瞬間、あなたは何をしていますか? 何をしていましたか? どこで、どうやって過ごしていましたか? どんな気持ちでいましたか?
…こんな感じです。どうでしょう、このTHE・ストーカー感。ですが、標準は一点ではなく、不特定多数ですので、どうかご安心ください。
街行く人、すれ違う人、クラスメイト、先生、…いろんな人の「俺が知らないあの人の生活」を想像していました。言語化するとかなり気持ちが悪いですが、これが俺にとって、なによりの趣味でもあり、なによりの現実逃避だったんです。こころが遠くなってくれるので、今という時からどんどん離れてゆけるんですね。なので、暇さえあればずうっとやっていました。
そうすると、今度は標準が「自分」に変わり始めました。そうです。「ああ、俺って今こうしてるんだ。」が癖になり始めたんですね。
これが不思議なものなのですが、自分を客観視している、というよりは、自分という存在をスクリーン越しに見ている感覚です。自分、という主人公を、主観で眺めている映画を観ている感じでした。
たとえば。今でも色濃く覚えている景色があります。それは囲炉裏を囲んだ食卓の日でした。
あげたてのお豆腐を串にさして、囲炉裏で炙り、田楽を作ってもらっていました。出来上がりが楽しみだなあと、味噌が焦げるあの独特な甘くて苦い香りを嗅ぎながら、おなかをすかせていた時でした。
ああ、俺今、炙られとる豆腐見とるんやわ。せやったら、豆腐も俺ん事見とるんやな。と。
…豆腐田楽を前にして、一体なにを考えているんだ、このガキは。
そうして彼(豆腐田楽くん)は、夏休みの絵日記に友情出演が決まったわけです。あれは華々しい見事な銀幕デビューでしたね。
そのうち、モノを客観視する癖が付き始めました。さかのぼってみれば、これが事の発端だったのかもしれません。
マンションこわい。
さて皆さま。突然ですが、集合体恐怖症なるものをご存じでしょうか。そうです、あの粒粒だとかがワーッと集まってるのを見ると、ウワーッてなる現象です。
俺はそれ患いではないのですが、「集合住宅恐怖症」ではあります。
一体どういう事なのかというと、ここまでお読みくださっている方は薄々感づかれているかもしれませんが…。
そうです。暮らしという粒粒がワーッと集まっているのを見ると、暮らしという情報量があまりにも多すぎて、頭がウワーッてなるんです。
つまりなにが言いたかったのかと言うと、タイトルの「飛行機から見下ろした景色」という意味合いは、ご想像にお任せいたします、という事です。
言わずもがなでしょう。これは決して、説明責任の放棄ではありません。国語のテストで見かける「作者はなにを伝えたかったでしょう。」という問と同じようなものです。正解はありません。
初めは、車窓でしたね。ドライブをしていると、色んなものが目に飛び込んでくるじゃないですか。それで、窓を開けると、音も聴こえてくる。匂いもしてくる。体感を通して、いろんな情報が飛び込んでくる。
そして大人になっていった俺は、おかげさまで、電車に乗れるようになりました。すると、匂いも音も限られてくるし、自由度は狭まるけど、目を通した情報は増えてきます。おまけに、車窓時代と違うのは、通りすがっていた景色が、現場にいる当事者、という立ち位置に居てしまっている事なんですね。
そして、もっと大人になった俺は、新幹線を覚えました。もう、もうこれは、でえでえ大事件です。はじめての新幹線は楽しかったけれど、いまは緊張の元そのものでしかないです。油断をしたら、うっかりパニックになってしまいます。なにせ、いままでは「慣れた土地のモノ」だったのに、新幹線は光速で日本を縦断してしまうのですから、「見知らぬナニカ」が飛び込みまくってくる訳です。
そしてそして、さらに背伸びをした俺は、高所恐怖症だというのに、飛行機という文明利器に生命を預ける決断をいたしました。
俺「ふわっとする! こわい! なんでいま上下に揺れたの⁉ これ以上俺をいじめないでくれ! 大丈夫じゃない! 殺される!(?) いまどこ⁉」
…あ、富士山だ。麓が見える。屋根が…粒粒…。(スーッ…とこころが遠のいていく音。)
こっちは真面目なんです。
今でこそ冷静にこうして書けますけど、現場にいる俺は大パニックですから、まったくもってそれどころではないんです。慌てふためいて、見ている方がみじめに思えてくる取り乱しようで、情けない事にその場でうずくまったり、おんおん泣き出す時だってあります。
そうすると、余計人の目って集まってきますよね。従って、俺の視界はヒトだらけになるんです。それも俺を見ている。「俺」という主人公の映画を主観で見ていた世界のヒトたちが、何故か「俺」が見えている。でもそれはもしかすると、俺を通した俺を見ている俺がここにいるだけなのであって、実を言うとこのヒトたちが見ているのは「俺」ではないのかもしれない。そうしたら、このヒトたちも俺と同じように、フィルター越しに俺を見ている可能性だってあり得る。でもでも、だって…。
キャパがオバった陰キャオタクは、暫くの間、要塞に引きこもる事にしましたとさ。
それから、一点が苦手になって、集中も下手になりました。特に、ヒトの目がこわくなりました。そのヒトに見られている事が怖いんじゃなくて、周り回って、「その人の視界に俺が入り込んでしまって申し訳ない。」という思考に至った訳です。だから今でも、極力ヒトの目を避けています。
とある知人が、こう言いました。
「お前ってさ、目に入ったモノをクチにする癖あるよな。」
だって、黙っていられないんですもの。仕方ないじゃない。そのくらい付き合ってちょうだいよ。(ex. 「わんちゃん! 赤マムシ! メイドさん! あれ、あのおばあちゃん大丈夫かな…困ってるんじゃないか…よし、助けに行こう。(途中下車)」etc…)
遠足に出かける幼少期の「俺」のほうが、まだ立派なオトナだった気がします。だって、バナナはおやつには含まれないけど、暑くて腐っちゃうからやめておこう、ってその場におっちんして、黙ってソワソワ出来ていたんですから。
とりとめのない日記が、一番読みやすい。
こういった自叙伝を書いていると、ああ自分語りしてる、と急に恥ずかしくなるものです。それも変なお話ばかりですから、のちに読み返すと、まさしく【 ♰~黒歴史~♰ 】になっちゃう。フォレストページが閉鎖するというニュースを見て、時代の流れを感じました。
自分はとりとめのない日記が好きです。たとえを出すなら、歯磨き粉切らしてただとか、お夕飯がおいしかったとか、500円でセンスのいい服を手に入れたとか。そういった他愛のない話が好きなんです。でも、そういう話を「@俺」で話してくれる人って、親しい関係じゃないとなかなか難しいっていうか。
だから、調子がいい日の外出は、なるべくイヤホンをしないで、人の会話を盗み聞きしています。日常をお裾分けしてもらうために。そして、その人の暮らしを想像(妄想)するネタにさせてもらうために。
そういった意味で、自分がハマる文学は、暮らしに寄り添ったものが多いんだなあと思います。メディアでいうと「都市伝説」なんか、えーっそうなの⁉ ってなりやすいじゃないですか。知らなかったー、今度あの人に話してみよー、って。
だから、これからは読了後に「あーこの人らしい。」と思える記事を投稿出来るような文章が書けるヒトになりたいです。あちらの世界ではコンテンツなので、こういう場を設けたんだったらせっかくなんだし、ヒトらしい日常を発信していきたいなーなんて。
そうは思いつつも、次回書くのは「言語という共通記号を羅列した伝達、すなわち”文章”」なんていうトピックにしようかな、なんて考え事をしているので、ゆくりない余りお手上げ状態です。でも、予定は未定の予定なので、急な路線変更もあり得ます。
さてそれでは。
まったくもってよろしくないおあとですが。
本日はこれにて失礼いたします。