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ジャズの日々(5)もうひとつ、百軒店/円山町のこと

 前回は、今話題になっている「再開発」のことについて個人的な感想を書いてみた。きっかけは、ネット上でニュース報道を目にしたことだった。
 書いている途中で、以前にも、同じように報道が引き金になって百軒店を想起したことがあったことを思い出した。
 それは、いわゆる「東電OL殺人事件」が起こったときのことだ。
 この事件の報に触れた1997年の春、僕はアメリカに暮らしていた。
 1985年からニューヨークにいて、日本のことを思い出す機会はすでに日々減っていた中で、週に一度だけケーブルチャンネルで放映される日本語ニュースを通して知った。
 僕が百軒店で働いていたのは、1980年代の前半だから、同時代とは言えない。が、毎晩使っていた井の頭線神泉駅のすぐそばが現場だということにまず驚き、さらに、被害者が円山町界隈でいわゆる「立ちんぼ」の売春をしていたと知って、目が離せなくなった。
 というのも、僕が働いていた頃の百軒店の夜も、「立ちんぼ」の女性が街の暗がりに散在していて、円山町を通り抜ける男たちに声をかける情景が当たり前にあったからだ。

 僕自身、夜11時過ぎに仕事を終わり、歩いて円山町を抜けて神泉駅に辿り着くまでの間、何度も声をかけられた。
 若かった僕は、最初、聞こえぬふりをして通り過ぎていたが、毎晩同じ時間にそこを通るものだから、近所で働いていると分かったのだろう、そのうち「遊んでいかない?」が「お疲れさま」に変わり、何人かと挨拶を返すようになった。 
 彼女たちとの関係は、挨拶以上に進展することはなく、何の個人的な交流もないままに終わったが、件の事件の報道に触れて、幾つもの影が脳裏に蘇った。
 十年以上も時が離れているので、その一つが被害者だったということはまずないだろう。だが、彼女の死の報道は、記憶の底に沈んでいた幾つもの匿名の影をぼんやりとだが浮上させた。一つ一つの影が、それぞれ彼女のように、交換不可能なのっぴきならない生の歴史を背負った存在だったに違いないことが、あらためて鋭く意識されたのだ。
 
 報道はエスカレートして、被害者が昼間は東京電力のエリート社員として働いていたことが大きくクロースアップされ、夜の「立ちんぼ」生活との落差に多くの人が興味を持ったようだった。「東電OL殺人事件」という事件の呼び名そのものが、その、なんとも下賤な世間の関心のありようを物語っている。そのおかげで僕も彼女のニュースに触れることができたのだから、文句を言えた義理ではないが、円山町界隈には、深く掘っていけば、似たような話はそこ此処にあったのではないかという気もする。
 その昔は、芸妓の往来するれっきとした花街だったようだけれど、僕が働いていた頃には、その「文化」は風前の灯だった。由緒ありげな料亭も少しは残っていたが、街全体が性格を欠いた、得体の知れない暗さの中に飲み込まれつつあった。 
 その後のバブル時代には、「連れ込みホテル」が「ファッション・ホテル」に変貌し、街は暗がりというよりは殺伐とした明るさに包まれていったが、事件の頃にはそのバブルもはじけ、もはやハリボテの廃墟と化していたのではなかったか。いずれにしても僕は、バブルからその崩壊にかけての日本を経験していないので、これは、1999年の帰国後、百軒店から円山町の辺りを再訪しての感想に過ぎないのだけれど……。

 帰国後訪れた時には、かつて僕が働いていた音楽館のビルは建て変わり、一階にあったブラックホーク(ロック喫茶)共々跡形もなく消え、2階には、風俗関係の店らしい看板が出ていたのを苦々しく思い出す。
 よく通っていた界隈のジャズ喫茶はみな跡形もなく消え、かろうじて、ロック喫茶のBYGと名曲喫茶ライオンが細々と火を灯していた。

 亡くなった彼女にどんな事情があったのか、帰国後間も無く書店に並んだ関連本も読んだが、最終的には分かりようがない。だが思いは、分からないながらに、あの界隈に「居場所」いや「立ち場所」を見い出した彼女の影の方に傾いていく。
 感傷と言えばそれまでだが、一時でも、同じ界隈に浮き草のように頼りなく漂っていた自分の影が、記憶から消えてなくならないからだろう。私も彼女も、あの場所に腰を据えて生活していたわけではないし、かといって無関係でもなかった。いかにも中途半端な、影の薄い通過者でしかなかったはずなのに。
 「藁にも縋る」というけれど、そんな頼りない浮き草の私には、唯一ジャズという藁があったに過ぎない。彼女にはどういう藁があったのか、なかったのか、それとも藁もろとも沈んでしまったのか、答えのない問いは、今も時折、百軒店の名に触れるたびに浮上してくる。


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