深夜にピーナッツバター 1

生まれて初めてスーパーで買った総菜の唐揚げを一口食べた瞬間から、私の生活はまるごと変わった。

「今日の卵焼き、すごく美味しかったんだけど隠し味ははちみつ?今度俺も作ってみたいんだけど。そうだ、次の休みにお弁当作ってピクニックしようよ」
 汰依が喋り出す直前、私はふだん家ではつけない赤いリップでぐりぐりと武装した唇から「別れたいんだけど」と絞り出したのだけれど、1LDKにあふれた生活音にかき消されてしまった。テレビからは最近注目されている若手芸人のがなり声が、キッチンからはレンジで昨日の残りの白ご飯を温めている音が、お風呂場からはお風呂が沸きましたと伝える。オートマチックな女声が、ここ数日ずっと考えてやっと固まった私の決意を制止しているような気がした。
 汰依は私の声を制してお弁当の感想を述べ、明るく楽しい近未来の話を始めた。ピクニック。汰依は率先して買い物に行ったりレジャーシートをネットで探してくれたりするだろうし、荷物だって持ってくれると思うから、それはそれは楽しい一日になるだろう。私が破局を考えていなければ悪くない提案だ。それにしても、彼が仕事から帰ってきて部屋着に着替えているときに話しかけたのが悪かった。柔軟剤がたっぷりと香る毛玉だらけのスウェットを頭から被っているとき、大事な話は耳に入ってこない。
「別れたい」
 今度こそしっかりと汰依の耳に届くように放った私の一言で、張り詰めた食卓の空気は部屋中に伝染して、何かしらの音が鳴っているはずの空間が静まり返った。
 パジャマ姿に着替えたのに一瞬にして顔の筋肉を強張らせた汰依が、急にどうしたのと言いながらおかずの並んだテーブルの向かいに座った。
「わかれたい」
 五つ全部の文字を繋げないと私の言いたいことは伝わらないのに、汰依はひとつひとつの文字を解釈するように繰り返した。
「そう。私、汰依と別れたい」
 国語の授業みたいに、文節に区切って発音する。これ以上同じ言葉を繰り返して、神経を削りたくなかった。少し間を置いてから、どうして?と言った汰依は私の目をまっすぐ捕えた。正解とはまるっきり違っていていいから、彼なりに納得のいく理由を探し当ててほしくて、私はテーブルに並べられたおかずたちに目線を落とす。この仕草は私なりのSOSだ。
 肉じゃが、サバの味噌煮、ほうれん草の胡麻和え、きゅうりの浅漬け、お揚げの味噌汁。メニューは汰依の好物ばかりだ。二人とも給料日前だから冷蔵庫のありものをかき集めたごちゃまぜカレーにしようと思っていたけれど、急遽メニューを変更した。もしかしたら、今日が汰依と食卓を囲む最後の日になるかもしれないと思ったからだ。
 肉じゃがは醤油とみりんと砂糖と酒を入れて、じゃがいもが煮崩れしないよう、慎重にじっくりと火にかけた。煮汁は豚肉の脂が染み出て甘みを増しているはずだった。調理の途中で小皿に汁とじゃがいもの破片をよそってすすってみたけれど、味がしない。じゃがいもをかじってみてもしっかりと火が通っているとろける繊維を感じるだけで、芯まで味が染みわたっているのを確認できなかった。サバの味噌煮もそうだ。隠し味に入れたショウガの苦みはもちろん、肝心な味噌の甘みが全く感じられない。全ての料理を少しずつ味見したけれど、どれもなんの味もしないのだ。味どころかそもそも、匂いもしない。これは、今日に始まったことじゃない。
 汰依が出張で家を空けた次の日から、私は自分の作る料理に味を感じなくなった。ついに私も流行病に罹ってしまったのかもしれないと思って、近所の病院で検査をしてもらった。陰性だった。結果が出たあとも、こまめに熱を測ったり喉の様子を気にしてみたりした。なんら、いつもと変わらない。いつも通り仕事に行って、洗濯をして、掃除をして、毎週楽しみにしているバラエティ番組を見た。いつもとちがったこと。それは汰依がいなかったこと。
 汰依の出張中、私はなんだかどうしても台所に立つ気が起きなくて、仕事帰りに寄ったスーパーで、恐る恐る総菜の唐揚げを買ってきた。恐る恐る、というのは、そんなこと、これまでの人生でたったの一度もなかったから。汰依は外食だとかデリバリーだとか総菜だとか、そういった類の食事を好まない。誕生日だとかクリスマスだとか、よっぽど特別なときでないと他の人の作った料理は食べない。さかのぼってみれば、母も家庭の味至上主義の人だったから、汰依との暮らしになにも不満はなかった。
 それだから、総菜の唐揚げを一口食べて、なんの雑念のない味に驚いた。言ってしまえば、味が濃いことを除いてこれといった特徴も感動もない。だけど、逆に言えば、安心する味なのだ。自分の料理には揺るぎがある。塩が少し足りなかったかな。もう少し醤油を入れた方が良かったかもしれない。薄味が好きな汰依にはちょっと濃かったかな。だけど、顔も知らないおばちゃんだかおっちゃんだか、アルバイトだとか社員だとかがマニュアル通りに大量生産している唐揚げには、そういった揺るぎや迷いが一切感じられない。なんの不安もなく食べられるご飯は久しぶりで、夢中になって唐揚げをむさぼった。
 次の日から、自分の作った料理になんの味も感じなくなった。朝、いつもの顔で味噌汁をすする汰依に美味しい?と訊くと、「美味しいよ。でもいつもよりちょっと薄いかも」と返されて、一気に自信がなくなった。薄味が好きで、テーブルの醤油やソースの類を滅多に使わない汰依が、初めて味噌汁に塩を振った。味噌汁に足す調味料って塩じゃなくない?と言おうとして、口を動かせなかった。
 その日は私だけ仕事が休みだったから、スーパーに走ってまた総菜の唐揚げを買って、一人で食べた。味がする。それもとんでもなく、美味しい。この唐揚げが口に入っている時間が、幸せが、永遠に続けばいいのにと思った。これまで汰依にもらった心を抱きしめられるような言葉も脳まで刺激するようなキスも、この唐揚げには勝てないと思った。唐揚げを口いっぱいに頬張りながら、もう二度と味噌汁なんか作りたくないと思った。火を通してしなった野菜や表面に焦げ色がついた肉や魚に調味料を振りかける作業に自信がなくなった。米を炊くのも野菜を切ることも嫌になった。
「未祐、仕事でなにかあった?それともご両親とか早苗ちゃんになにかあった?」
 別れ話を切り出されて、自分が嫌われたなんて想像をこれっぽっちもしない彼は、皮肉じゃなくとても幸せ者だと思う。そして底抜けに優しい。今だって、私だけじゃなく親や妹の心配までしてくれている。もしかしたら、自分以外に破局の理由を探しているだけかもしれない。だけど、汰依にとっては幸か不幸か、親は来月二人して旅行に行く予定を立てているくらいピンピンだし、妹は新婚ほやほやで幸せの真っただ中だ。
 同棲を始めて三年弱、汰依は私が作ったご飯を一口も残したことがない。誕生日も付き合った記念日も同棲記念日まで忘れない。二歳年上なのに威張ったところがない。私が生理のときは、スマホで調べながら慣れない手つきで鉄分たっぷりのご飯を作ってくれる。仕事の付き合いで女の子がいる飲み会に参加するときは、三十分おきにメッセージをくれる。たぶんお互いに近い将来、家族になっている図を想像しながら毎日同じベッドで眠りについていた。私もついこの間までは、そうだった。
 私はとにかく、「他に好きな人ができた」の一点張りで破局を申し込んだ。申し訳ない気持ちと汰依が傷ついている顔を見たくないずるい心の両方で、ひたすら頭を下げ続けた。優しい汰依は怒ったり責めたりすることなく、でも食い下がるように私を疑った。
「もしかして未祐、病気とか?俺に心配かけないように黙って別れようとしてる?どこか悪いの?」
 味覚を失ったことが病気になるのか、私にはわからなかった。だけど味がしないのは、今のところ自分で作った料理だけなのだ。試しに塩をひとつまみ舐めてみたらしょっぱさが舌を刺激して、火にかけていた味噌汁の存在を忘れ大沸騰させるほどの快感だった。塩を掬ったスプーンを夢中で舐めた。不思議なことに、調理をしてしまえば、その塩気はどこかへ消えてなくなってしまう。
「病気なんかしてない。本当に好きな人ができたの。ごめんなさい。謝って許されることじゃないとは思ってる。新しい部屋が見つかったらすぐに出て行くね」
 好物を前にうろたえている汰依が気の毒で、ますます本当の理由は言えなかった。自分の作った料理の味を感じなくなってしまったなんて。ましてや、あなたといるよりも、スーパーの総菜を頬張るほうが幸せだと気が付いてしまった、だなんて。
 別れ話をしたあとの食卓は、焼肉をしたわけでもないのにどこか煙かかったようにぼやけていて、どうやって味のしない食べ物の咀嚼を耐えたのか覚えていない。お風呂に入る前、鏡を覗いたら、油やら水分やらと混ざって赤いリップはまだらにとれかけていた。
 それから何回か、その日みたいにテーブルを囲んで二人で話し合った。私と汰依の間にはご飯はなくって、汰依が淹れてくれたコーヒーだったり紅茶だったりがその時々で置かれていた。その度に私は、ちょうど汰依の顔が入り込んでくる視界にマグカップを置いて、湯気で汰依をぼやかした。泣き出しそうな汰依の声はどうにも防ぎようがなく、耳に入ってきて辛かった。でも味のしない料理を作って食べている私のほうが辛いと思った。
 結局、汰依は根負けして私の申し出を受け入れた。私は数週間で家を見つけて荷造りをし、同棲していたマンションを出た。その間、汰依といっしょに食事をすることはなかった。同棲最終日、汰依は最後くらいいっしょに食べようと言ってくれたけれど、優しい汰依と顔を合わせることが耐えられないと思った。最後にもう一度作った肉じゃがもやっぱり味がしなくて、私はおつとめ品で買った唐揚げを食べた。結局、あの日のお弁当に入れた卵焼きの隠し味の正解を教えることなく、私は1DKの部屋を出た。

 朝起きてシャワーを浴び、水を含んだ重たい髪の毛を拭く。脱衣所には昨日買ったばかりの体重計が置かれている。汰依と住んでいた部屋には体重計があったのだけれど、それは元々、彼の持ち物だった。同棲と私たちの関係を解消して一人暮らしを始めてからおよそ半年の間、私は自分の体重を測る術がなかった。だけれどふと気になって、近くのドンキで余計な機能の付いていない体重計を買ってきたのだ。
 久しぶりに体重計に乗って、六十八と表示された数字を見ても大して驚きはしなかった。高校のときから十年ちょっと、五十キロ前後を行ったり来たりしていた。身長は百五十二センチだから、それくらいが妥当な数字だった。体をしたたる水の重みを差し引いてもプラス十八キロだけれど、食生活が変わったのだから体も変化するのは当たり前だ。ただ、予想よりも少し増え幅が大きくて、自分にここまで肥大化するポテンシャルがあったとは
思わなかった。
 二の腕のやわらかい部分を指でつまむ。そこから少しずつ指を滑らせ、親指と中指でくぐらせるのがやっとの太さになった手首を掴む。ベッドに手首を押さえつけ、「細すぎて不安になる」と言いながら私の体に覆いかぶさる汰依を思い出す。そう言いながらも彼はなめらかに思い切り腰を私に打ち付けては、窮屈そうな表情をした。眉を下げて心配している素振りを見せながらも、汰依はお腹とお尻が薄っぺらい私が好きだったはずだ。ただひたすらに、懐かしい。今の私、お腹の肉はだるんとパンツのゴム部分からはみ出て、お尻はLサイズの綿パンツがぱつぱつになるくらいに成長した。
 もう彼の隣には別の小柄な女がいるのだろうか。そう考え始めたとき、お腹が鳴った。キッチンの棚には昨日スーパーで安く売られていた菓子パンが、冷蔵庫にはプリンが入っている。時間は十時。今日はお昼ご飯の約束をしているのだけれど、そう思っているころにはもう、私はパンとプリンをテーブルにセッティングしていた。これはだんだんわかってきたことだけれど、私が味を感じるのは総菜や菓子パンなどマニュアル通りに大量生産されたものだけ。だから今、私の目の前にあるパンとプリンはごちそうなのだ。
 大量にストックしている中から選んだのは、チョコチップ入りのメロンパンとハムマヨネーズパン。どちらも味よりもとびきりのボリュームと安さを重視しているパンだ。ハムマヨネーズパンを開ける。マヨネーズ独特のすっぱい匂いと気持ち程度に仕込まれているチーズの香ばしい匂いが鼻をついて大口でかぶりつく。一口でハムをまるまる吸い込んでしまって少しもったいない気もするけれど、そのまま噛んで飲み込む。咀嚼しながらチョコチップメロンパンを開封する。まだハムマヨネーズパンが口に残っているうちにメロンパンにかじりついて、なんとも言えないあまじょっぱい味を口の中で作り出す。汰依と一度だけ一緒に行った三ツ星フレンチのシェフが見たら卒倒しそうなマリアージュ。だけど今の私にはこっちのほうがミシュランに載せたいくらい、美味しい。もし今、あのお店で心底感動したパテ・ド・カンパーニュを食べても、なんの味もしないだろうから。
 
 里奈とご飯を食べるとき、場所はいつも彼女が決める。今日は有楽町駅からすぐの、ガラス張りのカフェだった。店内にはノースリーブを着た女性客が多かった。今の流行りなのだろうか。先に到着して窓際の席から未祐、とこちらに手を振った里奈も、体にぴったりと密着したニット素材のノースリーブを着ていた。久しぶりに会った里奈がどんな表情で私を見ているのかが怖くて、ニット素材を膨らませている胸を見つめた。
 大学で同じ学科だった里奈とは、ゼミを通して知り合った。学年ばらばらに習得できるそのゼミには、汰依もいた。たいていのゼミ生は顔立ちもメイクもぱきっとしていてノリが良い里奈と仲良くなりたがったけど、汰依だけは講義のあとも教授と話し込んでいて、里奈に見向きもしなかった。私は単純だったから、そんなミーハーじゃない汰依を好きになった。里奈は講義中、ちらちらと汰依のことを気にしていたけれど、私たちの交際を知ったときは驚きながらも喜んでくれた。三人でもよく飲みに行っていて、里奈が彼氏と別れる度に私たちはなぐさめた。美人な里奈だけど別れるときはいつも振られる側で、「里奈ならまたすぐに良い人見つかるよ」「すぐっていつ?明日?明後日?しあさって?」の応酬を池袋の鳥貴族で百回はした。
 久しぶりだね~元気だった?なんとかね、と定型文の挨拶を交わしてから、里奈はほうれん草のパイとハッシュドビーフを先に頼んだと言ってメニュー表を私に向けた。誰かと食事をするとき、私はメニュー表をすみずみまでチェックして、できるだけ食べやすそうなものを注文する。一人暮らしを始めてから、人目を気にせずに大口で食べる癖がいてしまったから、綺麗に上品に食べられる自信がないのだ。
 ほうれん草のパイは食べたことがなかったし、生地がバターで照っている写真にはそそられる。だけど、ナイフとフォークをぎこちなく扱ってパイ生地が粉々になる想像をしたら、自然と選択肢から外れた。結局、皿の上を散らかさずに食べられるシーフードグラタンとガーリックトーストを注文した。
 水の入った透明のグラスに手を伸ばした途端、里奈は「みゆ」と甘えるような声で私を呼び、上目遣いで見つめてきた。
「すっごく心配してたんだよ。LINEもあんまり返ってこないから。あ、返信は無理しないでって送ったのは私だから全然気にしてないよ。汰衣くんと別れたって連絡くれたのにゆっくり話聞いてあげられなかったから、今日会えて本当によかった」
 やっぱり最初はこの話題かとぐっと背筋を伸ばして里奈の目から下に視線をずらすと、里奈の首元直径一センチくらいが赤く腫れているのに気が付いた。
「なかなか返信できなくてごめんね。でも落ち込んだりしてないから。全然元気だよ」
 両手でガッツポーズをとってみるけれど、里奈は納得していない様子だった。
「本当?」
 里奈はよくも悪くも素直だ。だから、今も私の身体を遠慮なく観察している。ゆったりとしたワンピースを着てきたつもりだが、二カップほどサイズアップした胸のボリュームや、上の段ができそうな腹まで見透かされている気がした。
「ちゃんと眠れてる?隈がすごいよ」
 目の下の青黒い部分はコンシーラーを塗りたくったはずだけれど、隠し切れていなかったらしい。伊達メガネをかけてくればよかった。
「最近深夜まで起きて映画見てるんだ。あ、でも平日はちゃんと寝ているよ」
 隈の原因は、夜中まで起きてポテトチップスを食べているせいだ。里奈にとっては不健康なことだろうから、眉をひそめられたくなかった。それに里奈は、深い時間に摂取する油と塩っ気は格別だということを知らないだろう。
 「それにしても汰依くん、本当にあり得ない。あんなに未祐命!って感じだったのに」
 私に同情しているというよりかは、怒っている口調で里奈が言った。LINEでやり取りしているときから薄々思ってはいたのだけれど、やっぱり里奈は勘違いをしている。
 「なんで未祐が振られないといけないの?汰依くんが先に働き始めたのはわかるけど、未祐に家事全部押し付けて毎日ご飯作らせて。そのうえ振るなんてありえない」
 私が黙っていても、里奈は会話をしているように一人で喋ってくれた。
 同棲していたとき、私がおおかたの家事を担当していたのは合っている。私と汰依は二歳差で、彼は私がまだ学生だったときに就職して働き始めた。朝早く家を出て遅くに帰ってくる汰依のために、お弁当を含めた三食、毎日私が作っていた。押し付けられた、と思ったことはない。「人に愛されるにはこれくらいできなきゃだめなのよ」と、小さい頃から妹と二人、母に料理や洗濯を教わっていた。妹は家事なんかよりも自分の見た目を整える
ことに夢中で料理は嫌々やっていたけれど。だけど私は全然嫌じゃなかった。汰依に愛されるために、すすんで家事を遂行していた。
 そもそも、私は里奈に「汰依と別れた」とだけ報告していた。むりやり家事をやらされていた、そして私が振られたというのは、完全に里奈の思い込みだ。三年同棲した恋人と別れて自暴自棄になり激太りした同期の姿を見て頭の中でストーリーが組み立てられたのかもしれない。
 私のほうが後に頼んだのに、二人分の料理が同時に運ばれてきた。いい店だと思った。
さっきまで狐の目をしていた里奈も「美味しそう」と目を輝かせスマホを取り出す。皿やスマホの角度を変えながら、何回もカシャカシャと音を鳴らす。私も里奈に倣って、二、三回シャッターを押す。
 グラタンのホワイトソースは優しくてミルキーな匂い、をしているのだろう。汰依と住んでいたころ、冬は鍋が定番のメニューだったけれど、グラタンを作ることも多かった。
 スプーンを手に取ってチーズの膜をつついて破る。ふうふうと慎重に冷まして口に運ぶ。ホワイトソースが舌に絡む。マカロニとエビを噛む。味がしない。グラタンなんて噛まなくても飲み込めるのに、ホルモンを食べるみたいに何回も咀嚼する。人前でものを食べるときの噛む回数はどれくらいが妥当なのか、私はわからなくなっていた。向かいの席から「ん~」と言葉にならない声がする。里奈は皿の上を散らかすことなく上手にパイを崩しながら食べている。ガーリックトーストをかじる。たっぷり使われているはずのにんにくとバターは、私の舌に反応しない。内装やホール担当の店員の態度からして、とっても良い店だ。きっと、料理人も丹精込めて焼いたり煮たり炒めたりしているのだ。だから、味がしないのだろう。
 やけになって、一枚まるまる一気に食べきる。味はしないのに確実に胃に食べ物が溜まっていくことだけはわかって、カロリーだけが蓄積する。
「でもさ、未祐なら絶対もっと良い人見つかるって。マッチングアプリとかやんないの?」
 たしか里奈は、前とその前の彼氏とはマッチングアプリで出会っていた。
「いや、私はそういうの向いてないよ。変な人に当たったら嫌だし」
 私がそういうと、里奈は前のめりになった。
「そうなの。変な人っていうかハズレは多いかな、実際。顔写真なんていくらでも詐欺れるから、会ってみたら全然かっこよくなかったり超デブだったり。あ、昔ちょっとやってただけで今はやってないよ。」
 デブという言葉に体がかたまる。口を動かさなくても声を発せられる「へえ」という言葉を絞り出してみるけれど、里奈の目は見れない。
「ブスならまだましよ、自分じゃどうにもできないから。でもデブはさあ、もう少し努力しろよって思うよね。自分の価値を下げてるってわかってない男が多すぎ。女がどれだけ努力してるかやってみろって」
 そうだね、と言ってみるけれど、里奈の言葉がアプリで出会ってきた男達に向けられているのか私を刺しているのかがわからなくて、上手に相槌が打てない。スプーンが急に重くなる。おしゃれだと思って着けてきたリングに食い込む中指の肉が目に入る。食べかけのガーリックトーストと、チーズで制御しきれず皿に平たく広がるグラタンの波が汚く見える。味のしない食べ物に二千円出さなくちゃいけないことに怒りが湧いてくる。
「あー幸せになりたい」
 里奈が頬に手をついて言う。私はしあわせ?と聞き返す。あの夜に汰依が呟いた「わかれたい」のひらべったいトーンを思い出した。
「そう、幸せ。結婚だけが幸せじゃないって言うけどさ、それって結局、自分が誰にも愛されてない人がほざいてる言い訳じゃない?やっぱりさ、人って誰かに愛されることで生きてるなあって実感するわけよ。若くて綺麗なうちに自分を好きで養ってくれる誰かを探さなきゃ、先に待ってるのはみじめな孤独死」
 グラタンのお皿にこびりついた焦げたチーズがなかなかこそげなくてもどかしい。半分本気で半分そういう演技をして、今はちょっと喋れませんというポーズをとる。
「このハッシュドビーフだって時間が経てば贅肉になちゃうし。美味しいなんて感情は慰めにしかならない」
 そうだよね、と曖昧に返事をする。里奈はお喋りだから、私は軽く相槌をうつだけで会話はどんどん進む。本当は食べることが一番の幸せなんだけど、言ったところで理解されないだろう。ましてや、汰依と別れた理由がそんなことなんて、わかってくれるはずがない。
「大学生のときは若いってだけで年上の男と付き合えてたけど、この歳になるともう無理だわ。世間はデブとブスに厳しい」
 デブという言葉に一瞬、体がかたまる。里奈は可愛いよと言うと、里奈は険しい顔でぐっと前のめりになった。
「未祐にだってすっぴん見せられなんないよ、私。結局幸せを掴めるのって、天然美人で痩せてておっぱい大きい子」
 私が曖昧な笑顔を作り終えられないうちに、里奈はメニュー表を手に取った。ちょっと前までは、私が里奈の容姿を褒めたら里奈も私を褒めてくれた。今の私の外見には、褒めるところを見出せないのだろう。
「ねえ、ケーキも美味しそうじゃない?未祐も食べるでしょ?」
 ハッシュドビーフが盛られていたお皿には脂身の多い牛肉が綺麗によけられているが、里奈の食事は一段落したらしい。私のグラタンはすっかり冷えて固まっているが、まだ三分の一ほど残っている。
 メニューを睨みつけるように見ていた里奈はいちじくのチーズケーキ、私はチョコレートケーキを注文した。どうせ味がしないのだから、一番安いものを選んだ。
 私は細心の注意を払ってグラタンを食べ終えたころ、ケーキが運ばれてきた。美味しそうとキラキラした瞳で、里奈は再びスマホを取り出した。何枚か撮って満足したのか、小さくいただきますと言ってひとかけら、チーズケーキを口に運んだ。
「幸せ!いくらでも食べられちゃう」
 里奈は心底幸せそうにそう言ったあと、眉間を引き締めて「でもさすがに食べすぎちゃったな。今日は夕飯抜きにしなきゃ」と呟いた。
 その後も里奈は、ケーキを一切れ口に運んでは、幸せと言った。小さな口で、小さなケーキの破片を食べて幸せと言った。もっとたくさん食べたらもっと幸せになれるのに、里奈はそれを我慢する。食べることは慰めにしかならないと否定する。美味しいものを食べて簡単に手に入る幸せと里奈が欲しがっている幸せになんの違いがあるのか、私にはわからない。幸せと連呼する里奈のノースリーブから伸びるすらっとした腕が十分な幸せを享受していないように見えて、気の毒に思えた

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