東京 1

織田作之助青春賞2021 三次選考落選作です。私はもう出せないので誰かの参考になれば幸。

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 太陽は一つしかないはずなのに、東京の暑さは他とは違う熱を帯びている。その熱はどんどん僕の体力と路地裏の日陰を奪い、僕をここ以外のどこか涼しい場所に追いやってしまいたいようだった。
 手に持っている数枚のチケットには、随分前から汗が滲んでいる。誰かに配るために刷られた紙のはずなのに、とても他人の手に行き渡れる代物ではなくなっていた。コンクリートの地面に波打つ蜃気楼を眺めていると視界まで歪む気がして、職場である劇場の入り口前の階段に座り込んだ。
 路地裏を出てすぐの大通りにはビル街が広がっていて、暑さの原因のほとんどは正にそこに集約されている。背の高い建物の中には大企業のオフィスや予備校が入っていて、朝、最寄りの西新宿駅から一斉に出てくる人の熱気こそがこの暑さの根源なのだと僕は思っている。
 上京した頃は僕もこの熱気を形成していた一人で、この土地で成功してやろうと息巻いている人々に混ざって熱を放出し続けた。しばらくして自分の中にあった鉛の熱さが冷めたとき、この鉛こそが東京だったのだと気が付いた。僕にとっての東京とは場所というより情熱だった。そして東京を失った僕には、この場所はただの居住地に過ぎなかった。

 劇場内から演者たちの談笑が聞こえてくる。建物は狭く簡素な造りだから、楽屋近くにある喫煙所の話し声は外まで筒抜けだ。新宿バルターと名付けられたこの劇場は、僕と同い年の奥原という男によって経営されている。
 元々、奥原は芸人のライブ演出やネタ作りを手伝う構成作家という仕事をしていた。僕がまだ大阪にいて怪人というコンビを組んでいた頃、一度だけやった単独ライブの手伝いをしてくれたのが奥原だった。ライブ中、奥原は舞台袖で誰よりも笑っていた。
「上京する気はないの?」
 終演後、ささやかな打ち上げで行った狭く煙っぽい居酒屋で、奥原は僕に話しかけてきた。関東出身の彼は、普段は主に東京で作家の仕事をしていた。相方の千田は、ゲストで出演してくれた後輩芸人にお笑いとは何たるかを赤い顔で説いていた。
「大阪でも売れてないのに、東京進出なんて考えられへん」
「もったいないな。怪人のネタ、東京でも見たいのに」
 僕は緩みそうになった口元を誤魔化すために、灰皿に捨てようとしていた、もうほとんど吸い甲斐の煙草を咥えた。
 結局、その後すぐ奥原に誘われる形で上京し、しばらくは芸人と作家の関係が続いた。怪人を組んでいた頃は主にコントをやっていて、ネタ作りに行き詰まったときは奥原を呼び出し、良さそうな設定をいくつか提示してもらうことが多々あった。正直、自分で一から考えたネタよりも、奥原が一枚噛んだ方が客のウケが良かった。
 何年かして、奥原は新宿バルターを設立した。作家を辞めるとき、奥原は僕を西新宿の戸山公園に呼び出して、こんなはずじゃなかったと目を真っ赤にして缶ビールを呷った。奥原が作家として付いていた先輩芸人と上手くいっていないことは、噂でなんとなく聞いていた。今は僕みたいな無名の芸人や駆け出しの若手を集めてライブを催し、金にならない商売をしている。雇用を握られているからというのもあるが、奥原は良い仕事をしていると僕は思う。

 くたくたのズボンのポケットから煙草を取り出して火をつける。できるだけ深めに煙を吸い、灰の塊が地面に落ちるのを眺めていると、力点の定まらない物体がふらふらと揺れているのを視界の端に確認した。重い頭を少し上げて物体の方を向くと、セーラー服の少女がおぼつかない足取りで前進しているのがはっきりと目に映った。
「姉ちゃん、大丈夫か?」
 僕が自分の意志で他人に話しかけるのは、滅多にないことだった。無視できない距離に近づいてきた少女は目が半分くらいしか開いておらず、勇気を振り絞った僕の声など聞こえていない様子で、そのまま僕の前を通り過ぎようとしていた。
 僕は慌てて立ち上がり、近くの自動販売機でポカリを買った。財布に入っていた小銭は今月の生活費のすべてだったから少し迷ったが、僕の人差し指は素早い動きでボタンを押し操作した。少女は、もうすでに後ろ姿をこちらに向けている。駆け足で彼女に追いつき、冷たいペットボトルを黒くまっすぐ伸びた髪に覆われている彼女の首筋に押し付けた。劇場の他の出演者に見られたらまずいと思ったが、幸い、彼らを含めて誰も周りにはいなかった。少女はわずかに驚愕の表情を浮かべて振り返ったが、その顔が不自然に紅潮していて、僕の方が目を見開いてしまった。
「とりあえず座ろか」
 首元にポカリを当てたまま、彼女を先ほどまで自分が座っていた階段へ誘導した。肩や腰を支えるべき状況ではあったが、あとでセクハラだと騒がれたら困るので自力で歩かせた。
 階段に座っても、少女の身体は左右に揺れて落ち着きがなかった。僕が隣に座ると、とたんに頭をこちらに預けた。首に当てているペットボトルからは、水滴か汗か区別のつかない液体が滴って僕の手を濡らした。キャップを開けて少女の口元に持っていくと飲み口に唇を当てたので、僕は彼女の頭を少し傾けさせながら支え、彼女の口にポカリを流し込んだ。口元から溢れ出た液体がわずかな膨らみの咽喉を伝って、白いセーラーを透明に濡らした。よく見ると、すでに大量の汗で肌着が透けているのがわかって視線を逸らした。
 少しして、少女はようやく自力でポカリを飲める程度に回復した。随分と顔色が良くなった少女は、僕に何度も頭を下げた。
「ポカリのお金、返します」
 礼儀正しい少女の言葉に甘えてしまいたくなったが、見栄を張りたい気持ちがぎりぎり勝って、別にええよと返答した。迷いが挙動に表れていないか不安になっていると、少女は通学には似つかわしくない大きいリュックから財布を取り出し、小銭を僕の手にぎゅっと握らせた。これは仕方ないと自分に言い聞かせ、ありがたくその小銭をポケットに仕舞った。
 どこから来たのか尋ねると、長野だと少女は答え、他にも基本的な情報を教えてくれた。
 三崎菫と名乗った彼女に可愛い名前やなと素直な感想を伝えると、名前とのギャップにずっと悩まされているのだと恥ずかしそうに笑った。僕にはみずみずしく可愛らしい笑顔だった。当然の流れで、菫は僕の正体を知りたがった。芸人をやっていることを早口で言うと、菫は感嘆の声をあげた。バルターの誰にも聞かれたくない会話だった。名前も聞かれたが、ごく限られた界隈以外の人間が谷屋恭太という芸人を知っているはずもなく、知らない名を名乗られた彼女はへえとかほおとかそんな感じの相槌を打った。
「時間あったらどこかでお茶しませんか?」
 助けてくれたお礼に奢ります、と菫は頭を下げた。自分よりも十ほど年下の彼女にそんなことはさせられないという気持ちもあったが、その好意を強く拒否できるほど余裕のある生活を送れてはいなかった。
 スマホで時間を確認すると十五時過ぎで、今日のライブの本番までにはまだ時間に余裕があった。誘いに快諾すると菫は来た道に喫茶店があったと言い、僕が立ち上がるのを待たずに足早に歩みを進めた。
 菫に連れてこられた喫茶店は、僕も知っている店だった。チェーン店だが、店の前に出ている看板に書かれているメニューはどれも簡単に手を出せる価格帯ではなく、道路を挟んだ向かいにある行きつけのマクドナルドを無意味に見つめた。
冷房の効いた清潔な店内に入ると、菫は抹茶ラテに生クリームをトッピングした豪勢な飲み物を注文し、僕はカウンターに張り付いているメニュー表の一番上にあるアイスコーヒーを指さした。菫は少し笑って、はっきりとした滑舌と大きな声で店員に僕のオーダーを通した。僕は財布を開く仕草を見せたが、結局彼女が会計を済ませた。店員からお釣りを受け取ると、菫は窓際の席に向かって大股で歩いた。
 席は一人分の椅子にしては幅が広くふかふかな座り心地で、つい眠りたくなる快適さだった。灼熱の路地裏を思えば真逆の環境で天国のように思えた。
 さっきは本当に死ぬかと思いましたとへらへら笑いながら話す菫を見て、学校での姿もこうなのだろうと容易に想像がついた。明るくクラスのムードメーカ―で、自分とは正反対の人間なのだろう。声の大きさは時として、話の内容よりも人となりを表す。菫は芸人の僕よりもはきはきとした大きい声だった。
 抹茶ラテとアイスコーヒーが運ばれてくると菫は目を輝かせてスマホを取り出し、カシャカシャと何度かシャッターを切った。僕の力を借りてポカリを飲むのが精一杯だった彼女を思い出して吹き出しそうになった。
 生クリームの山の一角を器用にストローで崩して頬張った彼女は、目を細めて幸せを表現した。十分に口の中で味わったあと、実は親と喧嘩して地元を飛び出し特急に乗って東京に来たのだと、怒っているのか恥ずかしがっているのかわからない顔で言った。くるくると表情が変わるのがおかしかった。僕には行ったことのない長野がすごく遠い場所に思えたが、地元から電車一本で新宿に辿りつけるのだと、菫はどこか自慢気に話した。
「谷屋さんは大阪出身なんですか?」
 菫が上目遣いで僕に尋ねた。せやでと答えると菫は本場だあと、よくわからない感想を述べた。
「お笑いをやるために上京したんですか?」
 菫は無邪気に質問を投げかけてくる。それは若さのせいだけではないだろう。
 
 僕が芸人になったのは高校卒業してすぐだった。
 同級生の千田とコンビを組み、事務所のオーディションに合格して特待生で芸人の養成所に入った。そこからは、ただ落ちていくだけだった。養成所卒業後は、テレビ番組やライブのオーディションを、落ちるために受けていたようなものだった。
 芸歴が五年を過ぎた頃に出演したバトルライブで観客の票が一票も入らなかった夜、相方と連絡がつかなくなった。僕が一人でライブの仕事をこなして一か月が過ぎたころ、千田から「辞めたい」と一言だけのメールが届いた。数日後、僕らは事務所をクビになった。

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