深夜にピーナッツバター 2

 スーパーの自動ドアを抜けて一目散に向かうのは、いちばん遠い総菜コーナーだ。というか基本、そこにしか興味がない。総菜は週替わりなのか気まぐれなのかわからないけれど、ラインナップは日によって変わるから、毎日来ても全く飽きない。腕時計を確認すると二十時を少し回ったところだった。里奈と別れてからせっかく都心に出たのだからと駅ビルに入っている店を見て回ったり、デパ地下でおしゃれなお菓子を見たりして、電車に乗って最寄り駅に着いた。北口から出たら家に早く着くけれど、わざわざ南口改札を通ってスーパーに寄った。ボリュームも味もない料理を平らげてウィンドウショッピングをしたら、もうお腹はぺこぺこになった。
 ちょうど、値引きシールが貼られているころだ。目論見通り、多くのパックに二十%引きのシールが貼られている。辺りを見回す。パックが並べられている棚を見回す。見つけた塩唐揚げを一つ手に取って、かごに入れる。目当ての物は手に入ったけれど、他にもなにかないかと確認作業に入る。まるいわっかのイカリング、大葉と梅のささみカツ、大粒のカキフライ。どれも魅力的だけれど、目に留まったのはエビフライだった。さっき食べたグラタンにはエビが入っていたのだけれど、まったく味がしなかったから、リベンジだ。大きなエビフライが二本入ったパックをかごに入れて、レジに向かう。ふと何かに呼び戻されるように踵を返して、ダメ押しでコロッケを手に取る。これで本当に、終わり。ぜんぶ揚げ物だけど、冷蔵庫には炭酸水が入っているから、さっぱり食べられるだろう。
 家に着いて一通りやることを終え、がさがさと袋から乱暴に総菜の入ったパックを取り出してテーブルに広げる。まずは全部の蓋を開けて、二リットルの炭酸水を口につけて一口飲む。箸で唐揚げを一つつまんで頬張る。口いっぱいに塩と鶏肉の旨味が広がる。噛むたびに脂が、脳にまで染み出る気がした。
 ぴろん、とスマホが鳴る。見る見る、あとで見るよーと食べ物まみれの口で独り言を言って、まだ鶏が口に残っている間に、エビフライにかぶりつく。揚げてから時間が経っているから衣はべちゃっとしているけれど、これはこれで良い。エビはぶりっとしていて独特の甘みを放つ。鶏の塩気が口の中でエビをコーティングして、シェフ泣かせの美味しさ。コロッケはしっとりとした口当たりが心地よく、衣の中の潰しきれていないじゃがいもの主張が嬉しい。     
 一口目以降は、とにかく口に詰められるだけ食べ物を入れる。咀嚼して飲み込む前に次の食べ物を運んで、口になにも入っていない時間をつくらない。味を感じているとき、私はほかのことを考えている暇がない。里奈の言葉も傷つけてしまった汰依のこともなにもかも。だから私は、犬のようにものを食べなくてはいけない。
 全部を食べきると、私の手は自然にスマホを掴む。汰依と住んでいたときはすぐに二人で皿洗いやゴミ捨てといった家事を終わらせていたのだけれど、一人だとそういった面倒ごとは後手後手になる。
 『おねえちゃんいつ遊びに来るの~?慎二も久しぶりに会いたがってるよ!』
 さっきの通知は妹の早苗からのLINEだった。ちょうど私が一人暮らしをめたころに二年ほど付き合っていた慎二さんと籍を入れた早苗は、新築のマンションに引っ越したばかりだけれど、私は遊びに行くなんて約束はしていない。
 LINEを閉じてほとんど使っていないインスタを開き、フォロー欄から『Sana』を見つけてタップする。鏡越しに撮影された自撮りのアイコンの横には『21・04・08』の数字が添えられている。早苗夫妻の婚約日だ。投稿欄には早苗の手料理らしき写真がずらっと並び、そのほとんどに百件以上のいいねが来ている。いちばん新しい投稿のメインディッシュは酢豚で、ほかにも漬物やひじきなどの小鉢が添えられている。私も毎日ご飯を作っていた
けれど、写真なんてほとんど撮ったことがない。でもたしか、汰依が初めて作ったオムライスが酷い出来で、それだけは二人で笑いながら写真を撮ったはずだ。薄焼き卵がやぶれかぶれで、その間からケチャップライスがこぼれ出て皿の上はかなり悲惨な状態だった。再び、ぴろんとスマホが鳴る。早苗だ。
 『まだ一人でしょ?幸せのお裾分けしてあげる』
 わざわざ一泊置いて追いLINEするほどのことですか~?と八畳の木造ワンルームで出せる限界の声で叫んでみて、スマホをベッドにぶん投げる。お腹いっぱいのとき、私は酔っぱらっているみたいに気が大きくなる。ぴろん、とちょっと遠くからまた通知音が鳴って、少し間をあけてもう一度、鳴った。立つのが面倒で、這いつくばってちょっとだけ布に沈んだスマホを掴む。
 『久しぶり!元気??掃除したら出てきたんだけど、これって未祐のだよね?』
 どうせ早苗だと思って開いたメッセージは汰依からで、どくんと心臓が大きく跳ねた。花火を見ているみたいな、太鼓を聴いたときみたいな、胸の底から響く鼓動が体中に伝染していくような感覚。
 続けて送られてきた写真は、まさしく私のイヤリングだった。初めて出たボーナスで買った、シルバーのデイジーモチーフ。もう少し時間を置いて返した方がいいのかなとYUIみたいなことを考えた自分に驚いた。私が終わらせたのに。駆け引きなんてしていい立場じゃないのに。というか、既読、つけちゃった。
『久しぶり!元気だよ~。そう、私のだ!よく覚えてたね(笑)』
 すぐについた既読に、さらに大きく胸が鳴る。
『いつもつけてたからね(笑)大切にしてたから連絡しなきゃと思って。取りに来れそう?』
 私の(笑)は心の底を見透かされないための防御で、汰依の(笑)は牽制かもしれない。元カノが着けてたアクセサリーくらい覚えてますよ(笑)もう未練とかないですから(笑)っていう牽制。
『最近ちょっと忙しいから、ちょっと先になるかも(泣き顔)行けそうな日あったら連絡する!』
 汰依から了解のスタンプが来て、会話終了。私から終わらせにかかった。でも、これでいい。やっぱり、だけど、もっと話したかった。久しぶりに里奈に会ったこととか、最近食べた美味しいものとか、汰依の生活とか。たった三ラリーのメッセージを何度も何度も繰り返し読む。スクロールする必要もない画面に、私は一呼吸おきにくぎ付けになった。
 
 鉄筋コンクリートの真っ白い建物を訪れたのは、妹夫妻に会いたかったからでもワイワイしたかったからでもない。冷たい空気が鼻を通り抜けるエントランスで早苗たちが住む部屋番号を呼び出すと、すぐにオートロックが解除された。エレベーターで上に向かい、改めて部屋のチャイムを押すと、いらっしゃーいという声とともに、真っ白いエプロンを着けた早苗がドアを開けて、目を丸くした。
「ちょっと、お姉ちゃんどうしたの?太りすぎじゃない?」
 整頓された部屋の奥には早苗の旦那もいるはずだが、早苗のキンキン声はデリカシーがない。新婚の妹の旦那なんて、私からすればほとんど他人なのに。
「ストレスかな。一人暮らしを始めてから太っちゃって」
 早苗は同情をたっぷり含んだ視線を、肉の付いた私の体に浴びせる。恥ずかしいけれど、使える情はあるだけ使うに越したことはない。里奈と喋って気が付いたことだ。そっちのほうがスムーズに物事がすすむ。
 入って、と促されるままに靴を脱いで白く加工されたフローリングの床を進むと、玄関を抜けたすぐの部屋がリビングダイニングだった。油と塩の匂いが充満する空間で、慎二さんがキッチンから料理を運んでいるところだった。
「お義姉さん、お久しぶりです!お忙しいところすみません」
 慎二さんとは数回しか会ったことがなかったけれど、垂れ目をさらに垂らして笑みを浮かべるその顔に、私はけっこう好感を持っていた。両家総出の顔合わせのとき、「優しそうな人だね」と早苗に言ったらあからさまにムッとした顔をした。顔はかっこよくないけれど、という嫌味に捉えられたらしい。だけれど、変わり果てた私の姿を見ても表情一つ変えない慎二さんに、早苗はもったいないと思った。
「いえいえ!こちらこそ招待していただいて光栄です」
 洗面台を借りて手を洗い、私はせかせかと準備をする早苗を呼び止める。
「これ、大したものじゃないけどお土産。よかったらどうぞ」
 早苗は目を輝かせて、お礼を言うやいなや、すぐに紙袋から箱を取り出し開封し始めた。昔から丁寧に包装されたお菓子が好きで、親戚や友達からもらったお土産の箱をきらきらの目でビリビリに開けていた妹を思い出す。中身がチョコレートだったら、早苗は飛んで喜んでいた。
「なにこれ。だし?って書いてあるけど」
「よかったら使ってね。インスタで見たけど、お料理頑張ってるみたいだから」
 手土産には白だしを選んだ。給料が出ると汰依とよく行っていただし専門店で、私がいちばん好きなやつだ。肉じゃがや筑前煮にはもちろん、和風のグラタンやパスタにも使える万能調味料だ。毎日ご飯を作っていたときには手放せなかった。
「ありがとう。大事に使うね」
 早苗は底が抜けてしまいそうな勢いで紙袋に白だしのびんを突っ込んでフローリングの床に置き、キッチンに向かった。
 慎二さんに促されて一人掛けソファに座り、場が整うのを待った。見回してみると、私が汰依と住んでいた、シンプルな部屋とはまるで違う。壁にはコルクボードがかけられ、二人の写真で埋め尽されている。テレビの周りはぬいぐるみで賑やかで、リビングの隣室のドアノブには「sleeping room」と書かれたプレートがかかっている。
 整頓された部屋の中を見回しているうちに、目の前のテーブルにはたくさんの料理が並んだ。煮物や焼いた肉からは湯気とともに、空腹を刺激する匂いが漂ってくる。
「ほら、お姉ちゃん食べて食べて!」
 前の椅子に早苗と慎二さんが並んで座った。私はいただきます、と言って、葱のソースがかかったグリルチキンを一切れ口に入れる。ぴりっと辛いソースが、ジューシーなチキンの甘い脂といい具合に絡む。しっかりと下味が揉みこまれているのが舌のすみずみから伝わる。味を感じる。
「美味しい」
 でしょ!と早苗は自慢げに慎二さんを見る。よかったじゃん、と慎二さんは穏やかな笑顔で返す。
「早苗からいつも聞いてたんですよ、お姉さんがとっても料理上手だって。結婚してから早苗も料理勉強し始めたみたいで、いつもうまい飯作ってくれるんです」
「ちょっと、お姉ちゃんにのろけないでよ」
 胸やけしそうな新婚のやり取りを聞きながら、私は舌の上で塩味を感じていた。盛り付けられたチキンをよく見てみると肉は少し焦げていて、ソースに使われている葱はかなり細かくみじん切りにされている。慎二さんの分を取り分けている早苗の指先は、キラキラのストーンで装飾された長い爪。
 筑前煮の大皿が目に入る。鶏肉、こんにゃく、いんげん、蓮根、山芋など、一目では数え切れないほど多くの食材が使われている。適当にスプーンで小皿によそって、自分の箸に持ち替え口に入れる。筍は加熱のしすぎなのかみずみずしさを失い、にんじんはへなへなしていて必要以上の甘さを放っている。皿に浮かぶ汁の色はにごっていて、脂の水たまりがいくつもできている。適当に小皿に具を掬って、箸で筍をつまんで口に運ぶ。
「美味しい。うーん、隠し味ははちみつ?」
 早苗はかくんと口角を上げた。
「せ、正解。さすがお姉ちゃん。よくわかったね」
 ぎこちない笑顔。きっと旦那は気づかない。
「慎二さんも料理されるんですか?」
 私は顔を上げて、ニコニコとグラスにビールを注ぐ慎二さんに問いかけた。
「いや僕は全く。卵焼きすら作れないなあ。料理は早苗に任せっぱなしです」
「お弁当も?」
 早苗は箸を持ちながら、じっと慎二さんを見つめている。
「平日は早苗も仕事だから、コンビニか近くの定食屋ですね。コンビニ飯もたまに食べると美味くて」
 たまにはいいですよね。そうそうたまにはね。そんな会話をしながら、向かいの席から不安げな視線を感じた。
 テーブルに並べた料理を、早苗はまだ一度も口にしていない。私がチキンを一口食べた瞬間から、疑わし気に咀嚼したりまじまじと料理を眺めるのを、早苗はちらちらと見ていることに私は気づいていた。残念ながら、早苗の不安は的中している。私にはテーブルいっぱいに並べられた料理が既製品だとすぐにわかった。手料理だったら、味がするはずないのだ。慎二さんは、私ほどではないけれど、前に会ったときよりも肉付きが良くなって
いる。毎日毎日味の濃い料理を食べているから、ぶくぶく太ってしまったのだろう。同じ食事をしているはずの早苗は食べる量を調節しているからなのか、線の細さをキープしている。
「お姉ちゃんさ、さっきも言ったけどさすがに太りすぎじゃない?毎日どんな食事してた
らそうなるの?婚約破棄されてストレスなのはわかるけど、切り替えていい人見つけきゃ」
 料理の話に言及されたくないからか、早苗は私が嫌がる話題に舵をきる。
 それにしても、我が家ではいつの間にか私が婚約していて、さらに破棄までされたことになっているらしい。母も父も、そう思っているのだろうか。慎二さんは気まずそうな顔をして、おい早苗と弱々しく制止する。もしかすると、姉妹の悪ノリだと思っているのかもしれない。慎二さんはたしか、一人っ子のはずだ。
「そうね。料理もしなくなったし、服や靴にも興味なくなっちゃった。でも全く未練はないし、なんなら今の方が幸せだよ」
 早苗はまた、同情の目を私に向けた。
「お母さん悲しがってたよ。あんなに料理教えたのに汰依さんと別れて挙句の果てに激太り。精神的に病んでるんじゃないかって。ねえ、私が契約してるジム、いっしょに行こうよ」
 早苗はわざと、慎二さんの前でこの話題を出してきたのだろう。自分の方が優れた女だということを知らしめているのかもしれないが、姉相手になぜそんなことをするのかはわからない。慎二さんは俯いて、もくもくと塩分たっぷりの総菜を食べている。
「ありがとう、考えとくね。それよりさ、私もう一つお土産あったの忘れた。今出していい?」
 きょとんとする早苗の前に、紙袋から保冷ボックスを取り出す。大きな紙皿を取り出してアルミホイルの蓋を外すと、あ、という早苗の声がした。
「懐かしいでしょ?はりきって久しぶりに作ってきちゃった。早苗もよく慎二さんに作ってるかもしれないけど、メニューが被らなくてよかった」
 取り出したのはキッシュだった。わが家のおやつの定番で、昔はお母さんと姉妹の三人でよく作っていた。正確に言うと、早苗は手伝う振りをして私にほとんどの作業を押し付けていたけれど。「未来の旦那さんにも作ってあげるのよ。きっと喜ぶわ」というお母さんの言葉を律儀に覚えていて、汰依にも頻繁にふるまっていた。
「キッシュですか。こんなおしゃれなもの、僕は作ってもらったことないなあ」
 キッと早苗が慎二さんを睨む。きっとそうだろうと思った。早苗はまともに作り方も覚えてないだろうけれど、私は味覚のない今でも、小さい頃から何十回、何百回と作ってきたキッシュは上手に作れる自信があった。昨日の晩、引っ越してから初めてキッチンに立ち卵を溶いた。
「そうなんですか?母から教わったレシピだから、早苗が作っても同じ味になると思いますけど、よかったら食べてください」
 慎二さんはキッチンからナイフと小皿を持ってきた。
「あ、待って。トースターでちょっと温めた方が美味しいかも」
 私がそう言うと、慎二さんがちょっと待っててくださいね、とキッシュの箱を持ってキッチンに戻った。早苗はその一連の動作に見向きもせず、テーブルを見つめている。
 ほかほかのキッシュを、慎二さんは手際よく取り分けてくれた。私はお腹いっぱいなので二人でどうぞ、と言うと、デブのくせにとでも言いたそうに。早苗は私の身体に目を向けた。慎二さんは一番大きく切り分けられた三角をナイフに載せて小皿に取り、早苗に渡した。「久しぶりに食べるんじゃない?」と慎二さんに言われた早苗は無言で小皿を受け取った。慎二さんはその隣のキッシュを取って、自分の皿に載せてフォークを入れた。卵やほうれん草をのせて水分を吸ったパイ生地が砕ける。
「美味しい!お義姉さん、めちゃくちゃ料理上手じゃないですか!」
 お腹の底から出るような声で慎二さんは言った。お世辞ではなさそうでほっとする。総菜にはかないませんけどねという言葉をぐっと飲みこんで、よかったですと胸に手を当てる。早苗も一口食べるが、表情は変わらない。
「こんなに美味しい料理を作ってくれるお義姉さんを振るなんて、彼氏さん、もったいないことしましたね」
 フォローするために言ったのだろうが、見事に逆効果だった。
「本当にそうだよ!お姉ちゃん、早くいい人見つけなきゃ!このままだと孤独死確定だよ」
 孤独死。いま流行りのフレーズなのだろうか。慎二さんの故意ではない援護射撃で元気を取り戻した早苗は帰り際、もう一度ジムに行く約束を私に交わさせ、慎二さんとエレベーターの前まで送ってくれた。向こうも本当に行く気なんてないはずだから、私は適当に相槌をして、ドアが閉まった瞬間に顔の筋肉の動きを全て停止させた。

 家に帰って寝る準備をしてスマホを見ると、里奈から着信があった。メッセージは特に入っていなかったから、急用ではないだろうと思った。零時をまわっていたけれど、折り返せてかけ直すと、里奈はすぐに出た。
「未祐、ごめんね。ごめん」
 声に元気がないのは時間が遅いからかと思った。
「電話、気が付かなくてごめんね。今日ちょっと出かけてて、スマホ見る余裕なかったんだ」
「ごめん。ごめんなさい」
 電話越しに謝罪を繰り返しているけれど、私は里奈に謝ってもらう心当たりがなかった。
「里奈、どうしたの?なにかあった?」
 しゃくり上げる声だけがスマホ越しに聞こえてくる。しばらくなにも言わずに待ってみるけれど言葉を発する気配がない。
 ワイヤレスイヤホンを耳に挿したままマイクをミュートにしてキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。明日の朝食べる予定のパン、プリン、ヨーグルト。そしてこの前、唐突に食べたくなって買ったピーナッツバター。買って帰ってすぐにパンにたっぷり縫って食べたら全身に幸せが駆け巡った。
 ピーナッツバターとスプーンを持って、折り畳みテーブルの前に座る。蓋を開けてみると、中身は三分の一ほどだった。ピーナッツが粉砕された粒入りのかたまりにティスプーンを滑らせてすくって唇でこそぎとる。甘じょっぱさがありとあらゆる細胞を刺激する。ミュートを解除しても里奈はまだ喋り出そうとしないから、もう一掬い、バターを舌で溶かす。
「あのね、私、未祐に言わなきゃいけないことがあるの」
 どうしたの、と私は塩味が広がった口から言葉を出した。
「未祐のお花のイヤリング、今度返すね」
「え?」
 お花のイヤリング、と聞いてなんのことか一瞬、わからなかった。
「汰依くんの部屋に忘れていったでしょ?デイジーのシルバーのイヤリング」
 数日前にやり取りした、元カレとのメッセージを思い出す。あれから何度も何度も汰依とのトーク画面を開いて読み返しては、汰依の声で脳内再生されていた。
「私、汰依くんと付き合い始めた」
 里奈は私の質問を先回りして勝手に答えを言った。舌に染みたピーナッツの味をすみずみまで感じながらもう一度冷蔵庫に向かい、炭酸水を手にとって、テーブルの前に座る。何かしらの動作をすることで、自分で作り出した沈黙をなかったことにしたかった。
「里奈が?」
「そう」
 わかりきっている質問をして無の時間を打破してみるが、沈黙はまたすぐにやってくる。バターに蓋をする。
「前からずっと、汰依のこと好きだった?」
「違うの。いや大学のときは、ちょっと好きだったかも。あ、でも未祐と付き合い始めてからは、そんな気持ち、なくなったけど。本当だよ。だけど少し前、ばったり汰依くんと会って飲みに行こうってなって」
「ホテルに行った?」
 会話が途切れる。返答代わりの沈黙だった。私と汰依の始まりもそうだった。ゼミの課題で悩んでいる私に、汰依は休日も図書館でレポートに付き合ってくれた。教授に褒められた私を、二人でお疲れ会をしようと言って連れて行ってくれた居酒屋の帰り、ホテルに行った。次の日から、私たちは正式に付き合うことになった。
 里奈と食事をしたときに首元に見つけた、痣なんかではない、赤い痕を思い出す。里奈が言う少し前とは、いつなのだろう。
「里奈ってば律儀だな。私はもう汰依と関係ないんだから謝らないでよ」
 里奈はまだ、泣き止もうとしない。再び、スプーンでバターをこそぎ取る。
「ありがとう。でもね、違うの。泣いてるのは、違うの」
「ん?」
「汰依くんね、私が作った料理が合わないみたいなの」
 スプーンを持つ手が、自然と止まった。
「私、ほとんど料理なんかしたことなくって。ハンバーグもオムライスもカレーも、美味しいよって食べてくれるんだけど、私にはわかるの。絶対に気を遣ってる」
 いつの間にかしゃくり上げる声も泣き声も、耳に入ってこなくなった。うんうんと相槌をしているので精一杯だったけれど、なにに対してうんと言っているのか自分でもわからなかった。
「だから未祐、料理教えてくれない?こんなこと聞くの本当に申し訳ないって思うし間違ってるのはわかってるけど、未祐なら汰依くんの好みわかるかなって思って」
 里奈は心底すまなそうに、スマホ越しの私の表情を伺うように話す。汰依の好きなものなんて、もちろん、なんだって知っている。
「美味しいなんて感情は慰めにしかならないよ」
 里奈はなにも言わなかった。
「この前、里奈が言ってたじゃん。美味しいご飯なんて日々の営みの一部に過ぎないんじゃない?」
「…それは私だけの問題だよ。誰かと営むときは、いっしょに美味しいご飯を食べることのほうが大事でしょう?未祐とだって、この間ランチしたじゃん」
 楽しかったよと、里奈は涙声で付け加えた。どんな気持ちで言っているのだろうと呆れかえってしまうが、私も私だ。もしかしたら、里奈が羨ましいのかもしれない。だから、意地の悪いことを言いたくなって、したくなる。
「うちはキッチン狭いから無理だよ」
「え?」
「料理教えろって言ったの里奈でしょ。うちじゃ無理だよ」
 私の言葉に里奈の顔がほころぶのが、見えなくてもわかった。
「それなら大丈夫。私の家のキッチン三口IHだから、よかったらうちに来て」
 短い時間で考え抜いた返答に、里奈はほんの少し、明るい声を出した。逃げ道を見つけられないまま、話題はいつの間にか汰依の愚痴に移行していて、十分もしないうちに申し訳なさそうに謝っていた里奈の声を思い出すのが難しくなっていた。
「未祐、本当にありがとう。料理教わるの、楽しみにしてるね。未祐も早く、幸せになってね」
 明るい声で電話を切られ、私はスマホを投げ出して床に大の字に寝転んだ。
 食べるのが好き。大好き。それを幸せに結び付けられないのはなんで?里奈だって、友達の元カレと平気で寝て平気で付き合えるくらい恋愛が好き。私も同じ。食べるのが好き。総菜の唐揚げが好き。ピーナッツバターが好き。口いっぱいに食べ物が詰まっているこの瞬間が好き。自分だけの、たった一人でのこの営みが好き。
 むっくと起き上がって、バターの容器の中に放置していたスプーンを手に取る。くぼみいっぱいに詰まっているバターの上にさらにバターをすくい、幸せがいっぱいのっかったスプーンを口に突っ込む。口の中の、味を感じるところ全部に塗りたくる。少しでも味のしない時間が来るとなぜか汰依と里奈の顔が頭に浮かんだから、それを打ち消すように口の中で舌を動かす。営み、生活、同棲、幸せ。次々と押し寄せる考えを打ち消すように、バターを塗りこむ。どうして私、あのときイヤリングなんて買っちゃったんだろう。初めてのボーナス、給料二か月分。今ならコンビニでスナック菓子を買い込んで、Uberでピザとチキンとハンバーガーとポテトを頼んで一人、大宴会。あまじょっぱさを塗りこんだ隅から隅まで、舌をゆっくりと当てていく。考えても意味のない思考と感情を味覚で埋めてゆく。そうやって私は一晩中、ピーナッツバターを舐め続けた。

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