東京 完

「いつか売れるといいですね」
 彼女が発した言葉には何の他意もないだろう。
「いや、実はもう辞めんねん」
「え?いつ?」
 少し間を置いて、明日だと答えた。菫は目を真ん丸にして口元を押さえた。なにかの動物に似ていると思ったが、僕は生き物の分野に明るくなかった。
「菫ちゃんは東京に住むんか?」
 話題を変えようとしたが初めて彼女の名前を呼んだので、少し声が上ずった。
「住みたいなあ。今日来て改めて良い街だなって思いました。こんなワクワクする気持ち、長野じゃ味わえないもん」
 上京したての自分を見ているようで居心地が悪くなった。
「そんなん最初だけや。ずっとこっちに住んでたら地元が愛おしくてしゃあなくなるで」
「そうですかね。私は絶対東京で生きていきたいけど。地元なんてなんにもないし」
 菫はストローで生クリームを器用に削って口に運んだ。きっとこんな洒落た飲み物を出す店も、彼女の地元にはないのだろう。
「東京だってなんもないぞ、こんなとこ」
「私にとっては夢のような街です。全部がきらきらしてて華やかで。ここで暮らせたら他になにもいらないな」
 この街に住んだことがない人間は、東京が自分の中にあることを知らない。
「そんなん言ってられんの今のうちだけやで」
「もう!せっかく受験勉強のモチベーションを上げるために来たのに、ネガティブなことばっか言わないでよ」
 菫はため口を織り交ぜて喋るのが上手かった。
「家出とちゃうかった?」
「それも兼ねてですう」
 口を尖らせた菫は、音を立てながら緑色の液体をストローで吸い込んだ。
「谷屋さんは面白いんですか?」
「そんな質問ある?全然ウケへんから芸人辞めんねん」
 菫はおかしそうに大声で笑った。失礼な反応だが、彼女にはなぜか怒りの感情が湧かない。
「谷屋さんを面白いって言ってくれる人はいないの?」
 ファンは全くいないが、ぼくを面白いと言ってくれる人が一人だけいる。
 
 ライブで一切笑いが起きなくても、奥原だけは舞台袖で声を堪えて笑っている。僕が他の芸人の輪に溶け込めず、会話をしなくて済むようにわざと少しだけ遅刻して来たり、先輩芸人におどおど接する様子を「お前は芸人以外できないな」と、これまた大笑いする奥原の存在は大きかった。
 辞めたいと千田から連絡があった夜、僕は奥原を戸山公園に呼び出した。どれだけ説得しても相方の意思が変わらないだろうということは、電話越しの声色でわかった。少しして顔を赤くした奥原がやって来た。どうしたのかと尋ねると、奥原は一人で飲んでいたと答えた。
「珍しいな。いつもそんな顔赤くなるまで飲まんやん」
 最後に二人で飲んだのは随分前のことだった。ライブ終わりにコンビニで一缶ずつだけ酒を買い、公園で愚痴をつまみに飲むのが僕らの恒例となっていたが、最近では、その回数もめっきり減っていた。
「バルター、経営やばいんだ。このままだと谷屋もいつ出してやれなくなるかわからない」
 売れない芸人を集めて公演を主催している奥原は、僕と同じくらいか、それよりも金がなかった。バルターの客入りが良くないことはわかっていたが、二人の間でその話題になったことはない。最初に首を切られるのは、最も売り上げに貢献していない自分だとわかっていたから、僕から触れることはなかった。
「悪いな」
 悪い、悪いと呟くように連呼し、奥原は何度も頭を下げた。やめてくれと力なく肩に手を添えることしか、僕にはできなかった。しばらくそうしてようやく冷静さを取り戻した奥原は、「そういや、なんで急に呼び出したんだ?」と僕に尋ねた。僕は、怪人を解散してピン芸人になってもバルターに出させてほしいと打診する予定だったが、なんでもないと言って、その日は奥原の愚痴を聞くことに徹した。
 翌日、ライブのために劇場に向かうと、奥原は前夜のことなどなにも覚えていないという態度で僕に接してきた。来月の公演スケジュールを渡してよろしくなと言い、リハーサルの準備を始めた。その日の僕は、コンビ解散というとんでもなくシリアスな問題を宙ぶらりんにしたままネタをやったからか、いつも以上にウケが悪かった。
 千田とコンビを解散して事務所を辞めたあとも、奥原はピン芸人になった僕を気にかけ、劇場の出番を与えてくれた。バルターは相変わらずの赤字経営だったはずだが、奥原は、僕を含めた金にならない芸人に優しかった。
 
「奥原さんって人の話になると楽しそうに喋りますね」
 先ほどまでグラスから生クリームが溢れていた菫の抹茶ラテは、いつの間にか飲み干されていた。
「友達って呼べる人、そいつくらいしかおらんから。菫ちゃんは友達多そうやな。学校楽しいやろ?」
 高校時代の友達は千田くらいしかいなかった。彼はのちに相方となり、いつからか友達と呼べる存在ではなくなっていた。
「私も友達いないんだよね。よく空気読めないって陰で言われてるよ」
 菫は完全にため口で僕と喋っていた。
「意外やな」
「ドジとかノロマって言われてる。私、保健委員だから具合悪い子の世話をしないといけないんだけど、先生がいないと何もできないの。気が利かないんだ」
 菫と出会って数時間しか経っていないが、僕が抱いた彼女のイメージとは真逆なので、まじまじと菫の顔を見てしまった。改めて見ると、目が大きくて端正な顔立ちをしている。
「この間ね、体育の授業中に熱中症になった子がいて、私が近くにいたのに何もできなかったの。結局、別のクラスメイトがタオルを濡らしてその子の首に巻いてくれたんだ」
「そんなん仕方ないよ。咄嗟に人が倒れたら俺だって驚くし」
「でも谷屋さんも私の首にペットボトル当ててくれたじゃん。そういう気遣いができないんだよね、私」
 菫はストローが収納されていた紙の入れ物をを手でちぎり始めた。
「せめて勉強は頑張って東京の大学に行きたいんだけど、成績も上がらないし、もう私だめかも」
 相談する相手がちゃうやろと言いたくなったが、千切られた紙くずを見ていると言葉が出なくなり、難しいよなと間を埋めるだけの相槌を打った。
「谷屋さんは芸人辞めて何になるの?」
「未定やな」
 今後の人生設計は白紙だった。当面は生きていくために、今やっている居酒屋のアルバイトに週五日入る予定になっている。
「奥原には芸人しかできへんって言われてるしな。どうやって生きってったらええんやろ」
 制服の女子高生と小汚い猫背のアラサー男。周りから見たらどんな関係性に見えるのだろう。
「芸人しかできない人なんていないよ」
 菫がちぎっていた紙は、一センチほどの大きさになり、彼女の手元に小さな山ができている。
「え?」
「芸人しかできないなんて、他に選択肢がないみたいで嫌じゃない?これだけ大きいビルがたくさんあって色々な仕事がある街で、一つの可能性しかないなんて言わないで」
 菫は、今度はナプキンを手に取って千切り始めた。
「私なんて、武器になるもの何も持ってないのに東京に来ようとしてるんだよ」
 僕はここで戦える武器を持っているか、上京してからの数年を振り返ってみたけれど、武器と言えそうなのは何冊かのネタ帳しかない。大阪にいた頃は同じ養成所の仲間もいて、若干だけれど今よりも金があった。
 この国でいちばん熱を持ったこの場所で、若さと戦意を失った僕が彼女にかけてあげられる言葉が見つからなかった。
 しばらく僕たちはなにも喋らず、時々、角が削れた氷がグラスにぶつかるわずかな音を聴きながら、同じテーブルで別々の時間を過ごした。

 窓の外から強い日差しが射してビルがオレンジ色に照らされ、そのうち透き通った紺青の闇に包まれようとしていくのを、ただ見ていた。気が付くと、菫の前にはちりぢりになった紙の屑が山になっている。それは菫が無益な時間を過ごした証明のようだった。
「電車の時間大丈夫?」
「やばい!そろそろ帰らないと」
 慌てて紙屑を集めて新しいナプキンに包む菫を見て、楽しい時間を過ごさせてやれなかった自分が不甲斐なくなった。
 外に出ると、むんむんとした空気が全身を包んで肌を湿らせた。菫は新宿駅から特急電車に乗ると言うのでそこまで送ろうと切符を買おうとしたが、彼女は券売機に立ちはだかって両腕で大きく×マークを作り、改札までで大丈夫だからと笑った。
 人の波に流され丸の内線改札まで進むと、彼女が僕の方を向いて、勢いよく腰から折り曲げてお辞儀をした。
「今日は本当にありがとうございました。いやー本当に谷屋さんは命の恩人です。明日までお仕事がんばってね」
 どこか無理をしている声色で、わざと明るく振舞っているように思えた。
「せっかく東京に来たのにこんなおっさんが邪魔してごめんやで。楽しくなかったやろ?」
「そんなことないよ!私やっと決心がついたんだ。本当はずっと迷ってたの、東京の大学を受けるかどうか」
 改札付近を足早に人が行き来して、彼らはその場に留まっている僕たちを怪訝そうな目でちらちらと見ている。
「谷屋さんには内緒にしておくね。もしまたどこかで会ったらまたお茶しよ」
 菫はそう言って改札を通り、一度だけ振り返って手を振った。乗ろうとしている電車が駅に到着するアナウンスが流れ、菫は人波に溶け込んで早々に見えなくなった。  
 彼女が下した決断はどちらだろうか。もし自分がその一端を担っていたとしても、責任を負えるわけもない。正解とは言えない道を選んでも、彼女は僕のせいにはしないだろう。
 菫のことを考えていたら他のなにもできなくなり、すべての挙動を止めてその場に立ち尽くした。何十人もの人が行き交う中で、しばらく僕はそうしていた。
 
 西新宿駅内のエスカレーターを上り地上に出て戸山公園に向かった。到着して二人掛けのベンチに座ってから、数時間振りにスマホの電源を入れる。奥原から何度も着信が入っていた。予想していたことなので焦ることはなかったが、その膨大な履歴を見て心臓の辺りが痛くなった。一番新しい履歴は数分前だった。
 少し躊躇したあと、履歴をタップして発信するとワンコールで奥原が出た。
「どうしたんだよ!何回電話したと思ってんだ!今どこにいる!」
 奥原のがなった怒号を聴くとさらに心臓が委縮したが、なぜか少しだけ冷静になれた。
「ほんま申し訳ない。いま戸山公園やねんけど出てこられるか?ほんま、ほんまごめんな」
 バルターの出番をもらうようになってから、何回この公園に来たかわからない。昔はもっといろいろな遊具があって、ブランコに乗りながら、朝まで奥原とネタの相談に乗ってもらったこともあった。もうそのブランコも撤去されてしまい、今では砂場と滑り台とベンチがあるだけだ。僕はベンチの片方に詰めて座り、奥原を待った。

 公園の入り口に人の気配を感じて顔を上げると、奥原が立っていた。奥原は有名ブランドのロゴが大きく入ったTシャツを着て高そうな時計を左腕に着けている。彼自身の羽振りが良くなったわけではなく、少し前にバルターに出演した人気の芸人と親しくなり、お下がりをもらったからだろう。スタッフのツテを辿ってダメ元でオファーしたら快く受けてくれたと、奥原が喜んでいたのを覚えている。僕と仲良くしていることで忘れていたが、奥原は誰からも好かれる人間だった。結局、芸人も人付き合いが大事なのだと思い知らされる。
「本当に心配したぞ。どうしたんだよ、今日に限って」
 怒りと心配が含まれた声だった。
「ほんまごめんな。ほんま、今日に限ってなにしてるんやろな」
 そう言いながら、今日だからかもしれないとも思った。
「ラストライブばっくれるなんて聞いたことないぞ」
 力のない、心から残念そうな声だった。
 菫には明日だと言ったが、僕の引退は今日だった。彼女に引っ張られるようにしてカフェに入ったけれど、いつだって振り払うことができたはずのか細い腕に僕は従ってしまった。
「奥原な、俺に芸人しかできひんって言ってくれたこと覚えてるか?俺な、ものすっごい嬉しかってん。自分のどうしようもなくダメなところも肯定された気がしてん。でも、俺履き違えてたんやろな。ダメな奴でも救ってくれるお笑いの優しさに漬けこんでた。甘えてたんや、お笑いにもお前にも、あと千田にも。だから一向にウケへんかったんやろな」
 千田は今、何をして生きているのだろう。解散してから、彼のことはできるだけ考えないようにしていた。
「今日な、谷屋さんは優しいから何にでもなれるって言われてん。そんなん言えるのは社会を知らない若者だからやろうか?それともお世辞だったんかな。もしかしたら、俺が知らないだけで意外と社会ってそんなもんなんかな。もしこの先まともな仕事に就いたとき、お笑いやってた十年を悔やむんかな。死ぬとき、若くて貴重な時間を無駄にしたって後悔するんかな。それとも、やっぱり芸人続けてたら良かったなって思うやろか。どっちにしろ後悔ばっかやな、俺の人生。なあ奥原、これから俺どうやって生きていったらええんやろ」
 今日の最後のライブを予定通り遂行できていたら、どうなっていただろうか。手売りのチケットを買ってくれる人は一人もおらず、事前予約も他の芸人目当ての客ばかりだった。どうしても、華々しく有終の美を飾っている自分を想像できない。
「ネタするから見といてくれへん?」
 僕の頼みに、奥原は黙って頷いた。ベンチに座る奥原の前に立ち、僕は最後のライブを始めた。今日ステージでやる予定だったフリップネタだ。肝心のフリップはバルターの楽屋に置いてきてしまったので、紙を捲る振りをする。
 いつもより声が出ている気がする。ライブ後のアンケートで、ネタ以前に声が聞こえないと書かれて芸人失格だと先輩に貶されたことがあった。
公園の外で僕の声に気付き、訝しそうにこちらを見ているカップルの姿が見えた。千田とストリート漫才をしようと、意気込んで新宿駅に繰り出した日を思い出す。少し離れたところで鍵盤ハーモニカとサックスで音楽を奏でる二人組がいて、これには勝てないとお互い無言でとぼとぼと帰った。
 前を見ると、奥原は泣いていた。付き合っていた芸人に振られた彼女がバルターの最前席に泣きながら座っていて、ライブの出演者全員が気まずい思いをしたこともあった。
 ネタ中に感じるものすべてに変な記憶が絡みついていて、透明のフリップを捲りながらどんどん思いが溢れてくる。こういうのも全部、いつか思い出になるのだろうか。それとも、もう思い出になっているのだろうか。
 ネタを終えて礼をする。顔を上げると、奥原の顔はぐちゃぐちゃに濡れていた。それを拭おうとした手も濡れて、その汚れた手で鳴りやまない拍手を僕に送った。僕の頬を温度のある液体が伝った。二人とも、声を上げて泣いた。僕たち二人を、東京の熱い空気が包んでいた。

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