見出し画像

缶コーヒー

何だか最近缶コーヒー中毒に陥っていて、朝夕の通勤で車に乗っていると缶コーヒーが無性に飲みたくなって、ついつい自動販売機の前で車を止めてしまう。

職場に行けばインスタントながらコーヒーはあるし、朝は家で大きなカップに紅茶を2杯は飲んで来るので、強いて缶コーヒーを飲む必要はないのだが、気付くと自動販売機にお金を入れている。

“こんなものばかり飲んでいると糖尿病になってしまう”とか、“120円だって僕には惜しい金だ”とまだ働いている理性が僕にささやくのだが、僕の手は理性の抵抗むなしく既に勝手にボタンを押してしまっている。


公衆道徳を大切にする僕は決して缶の投げ捨てなどしないから、僕の車の中は足の踏み場もないくらい缶コーヒーの缶で埋めつくされ、たまに生徒を乗せると生徒は仰天し、「先生、汚いよ」とか「先生、乗りたくない」などと口々に言い、僕への尊敬の念を新たにしている。

たまに車を掃除すると80~100個もの缶が出て来る。そのゴミ袋いっぱいに入った缶を見て、“俺は必ず数年で病に倒れるに違いない”とか“これだけあれば今月も床屋を我慢せずに済んだのに”と思うのだが、人間、いかんともしがたいものはいかんともしがたいのであって、どうすることもできない。



ついこのあいだの朝も、ふと缶コーヒーが飲みたくなって車をとめた。自動販売機の前に立ち、500円玉を入れてコーヒーのボタンを押すと、ガチャンと音がしてコーヒーが落ちて来た。

すると何だか自動販売機がピーピーと鳴り出して、次の瞬間、缶ジュースのすべてのボタンに赤いランプが点灯した。「何だ?」とまだ眠りから覚めやらぬ頭脳が一瞬思ったが、僕が前にしている自動販売機はダイドーの自動販売機で、これには“当たり”があることを思い出し、

そうか、当たったんだ!」と思い至った。

世の中についている人とついていない人がいるとすれば僕は明らかに後者に属し、“当たる”などということとはおよそ縁遠い人生を送って来たのである。それゆえこれには大変喜んで、「今日はついてる」と思い、快い気分になって再び缶コーヒーのボタンを押した。

再びガチャンと音がして缶コーヒーが出て来たが、また自動販売機がピーピー鳴って、何と!またしてもすべての缶ジュースのランプが点灯した。

これにはびっくりした。

また当たったよ

としばらくは感動に棒立ちとなった。「こんなことがあって良いのだろうか。夢でも見ているんじゃないか」と思い、顔を平手でたたいてみると確かに痛い。「現実だ」とこの幸運に改めて感動してみたりもする。

そこでおずおずともう一度缶コーヒーのボタンを押すと、ガチャンと缶コーヒーが出て来た後、何と何と!また自動販売機がピーピーと鳴ってパッとすべての缶ジュースのランプが点灯したではないか。

すごい。何だ。3回目だよ。本当かよ。今日の俺はよっぽどついてる。日ごろの行いが良いせいだ。ニーチェは神は死んだと言ったけどあれはウソッパチだ。神様はちゃんと僕の品行方正な行いを見ていてくれた。これはその報いに違いない」などと天にも昇る気分になって4回目のボタンを押した。

ガチャンと缶コーヒーが落ちる音がして、また自動販売機はピーピー言ったが、さすがに今度はランプは点灯しなかった。

やっとはずれたか。でもこれだけ連チャンすれば申し分ない。この勢いで宝くじを買おう。きっと当たるに違いない。そしたら誰にも貧乏なんて言わせないぞ。いや待て。当たったら黙っていた方がいい。よこせなんて言われたら大変だ。カミさんにも黙っておこう。貯金して利子で暮らしながら貧乏を装うことにしよう」などとと考えていると、何だか下の方でチャリンチャリンと音がした。

「何だろう」と思って覗いてみると10円玉が2枚ある。

「はてな。何だ」と一瞬白くなった頭脳を必死で回転させるが、分からない。
察しの良い読者の方は既に気が付かれたと思うが、15秒ほど立ちすくんだ後やっと僕にも事の次第が飲み込めた。

つまり最初に500円を入れたのであって、ランプがついたのは“あんたのはハズレたけど、まだ残金があるので買えるよ”という自動販売機の意思表示であって、“当たり”ではなかったのである。
思い返せば、確かに自動販売機はピーピーとは鳴ったが、“当たりだ”という決定的な音は鳴ってはいなかった。
要するに僕は500円で缶コーヒー4本(480円)を買い、20円のお釣りを得たのであって、その至極当たり前なことに、いたくいちいち感動し、バカみたいに喜んでいたのであった。

それにしても、一度喜んでしまった後の落胆は大きい。

「だまされた!俺は自動販売機に欺かれた!もうダイドーの缶コーヒーは飲んでやらない!…愚かだった!」とどこにもぶつけようのない惨めさを胸に抱きつつ、うなだれてその場を去ったのである。


「ばーか」とあざわらっている読者もおられるかとは思う。しかし、あざわらってはいけない。生きるとはかような試練を乗り越えることであって、失意や落胆、苦悩や惨めさこそが真に人を豊かにしてくれるからである。

ちなみに4本の缶コーヒーは1本は自分で飲み、他の3本は職場についてから同僚にあげた。こんなにも惨めな思いをしながら、何と心の寛い自分なのだろうと思う。このような数々の苦難を経て、僕という立派な人間は形成されて来たのである。         

                  (■土竜のひとりごと:第96話)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?