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似ている

カミさんというのは、だいたい亭主のズボラを責めるものと相場が決まっていて、ウチのカミさんも、毎日服を着替えろだの、ヒゲを剃れだの、鼻毛は切ってだの、トイレから出たら手を洗えだの、それなりに些細なことで注文をつけてくる。

徐々にズボラになりつつある息子を眺めながら「全くあなたに似てきて」とため息をついたりもするわけだが、自分の子が自分の描いてきた理想像からずれていくことに落胆しているようでもある。

それが「僕に似てきて」と表現されるのは、明らかに僕に対する侮蔑であるのだが、「そんなに似てるかぁ」とお茶を濁すと、「何言ってるの。ため息のつき方、歩き方、話は上の空で聞いているし、『まあいいや』とか『どっちでもいい』とかっていう口癖も、何でもそっくりじゃないの」と言う。

遺伝子は半々といっても、力関係で言えばカミさんに軍配が上がるのは必然で、都合の悪いところは僕に責任転嫁しようとするカミさんの魂胆は見え透いているのだが、それでも確かに「これは俺だ」と自分の影響を息子の言動に感じることがある。

例えば、僕は、曖昧、混沌を愛し、ぼんやりと生きている。悪く言えば、優柔不断で、意志、意欲に欠ける、現代の競争社会ではおよそ役に立たない人間なのだが、美しく言えば、雲のごとき性格で、それは実は尊い資質なのである。非常に高度な生き方を厳しく生きているのだが、表面上、
まあいいや
なんでもいい
さあ?
どっちでもいい
任せる
いいんじゃない
それならそれでいいよ
俺はいいよ
などという曖昧語を乱発しているため、これが息子にじんわりと影響を及ぼしつつあるらしく、カミさんを苛立たせているようなのである。

例えば今日は外食しようと車に乗り込み、「さて何を食べようか」と息子に聞くと、「何でもいい」と言う。「回転寿司?ラーメン?どっち?」と聞くと、「どっちでも」と答える。
例えば今日は外出しようと車に乗り込み、「さてどこへ行こうか」と息子に問うと、「どこでもいい」と言う。「ボーリング?温泉?図書館?どこがいい?」と聞くと、「どこでも」と答える。
お前のすきでいいよ。
お父さんのいい方でいい。
お父さんはどっちでもいい。お前はどうなのさ。
お父さんはどっちがいいの?
だからお父さんはどっちでもいいんだ。
僕もどっちでもいいよ。
こんな具合で永久に話は先に進まず、ただ時が過ぎてゆく。横で聞いていたカミさんが「まったく」と呟くことになるわけで、そう言われると立つ瀬がない。

でも、優柔不断が決して悪いわけではない。自分で言うのもなんだが、優しくて人を気遣い、でもシャイで、自己表現が得意ではない。そういう不器用さも大事だと思いたいのだが、いかがであろうか。

いつぞやカミさんが「セーター買ってあげようか?」と聞くので、「どっちでもいい」と返事をすると、そんな返答には慣れっこになっているカミさんは「そうだ。あなたの誕生日のプレゼントにしよう」と唐突に言う。ひそかにバイクのリアタイヤを、と目論んでいた僕は「いやそれは、誕生日は、あの---」としどろもどろになると、「何か欲しい物あるの?」と言うのだが、プレゼントとしてはあまりに高いのであって何となく言い出しにくく「ないこともないけど」と口ごもると、「何?何?」と突っ込んでくる。突っ込まれると何だか怒られているような気がして「でも、いい」などと思わず言うことになる。

すると「そういうふうに言いかけて止めるところがあなたの悪いところよ。言って」と詰め寄ってくる。いよいよ追い込まれたウサギのような気分になり「いいよ。たぶんダメって言うと思うから」とうっかり言うと、「そんなの言ってみなきゃ分からないじゃないの」とくる。崖に立たされた思いでいるところへ息子が風呂から上がってきた。

そこで息子に矛先を向け、「お前、誕生日に何が欲しい?」と問うと、息子は「うーん」と何か考えている様子である。「どう?」と更に問うと、「ないことはないけど」と言う。「何?言ってごらんよ」と言うと、「でも、いい」と言う。「どうして?あるなら言えば」と言うと、「でもたぶんお母さんがダメって言うと思うから」と言って、ハァと溜息をつき、布団の上にバタンと倒れ伏した。

それを聞いていたカミさんが今度はハァと溜息をつきながら「そっくりだわ」と呟いたのであった。カミさんに言われるまでもなく、まるで僕とカミさんの会話を聞いていたかのように僕と息子のセリフが一致している。

息子の気持ちが実に良く分かり、こいつが自分の息子であることの愛しささえ感じたのであって、倒れている息子の上に覆い被さって、男同士固く固く抱き合ったのであった。

こいつもやはり、やがて奥サンの尻に敷かれる運命の上を生きているのかもしれないと思った子供がまだ幼かった日の思い出である。



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