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語呂合わせ

今に始まったことではないが、記憶が怪しい。古いことは勿論だが、新しいことはほとんど入らない。さらに瞬間的に覚えること自体の力も衰退して来て、何かをしようと思って立ち上がると、もう何をしようとしたかの記憶がない。
Yahooにログインするのに、パスワードから確認コードがSMSに送られてくる形にしたのだが、スマホに送られてくる6桁の数字を確認して、パソコンのログイン画面に目を移すと、もうわからない。

似たような例は枚挙にいとまない。漢和辞典を引くのに、索引でページを確認し、そのページに移ろうとすると、ページが分からなかったり、違うページを開いていたり。もう一度索引からやり直して本編で意味を確認し、辞書を閉じて、それをメモしようとすると何が書いてあったか覚えていない。また最初からやり直さなければならない。

物を忘れ、物をなくし、それを思い出そうとしたり、探したりして、一日の大半が過ぎていくような感じである。だから、大事なことは口で言う。漢和辞典を引くときは、例えば「1536、1536」とページ数をつぶやきながら、職員室を施錠する時は、どこを確認したか忘れないように、手指し指さし、「ガスOK。扇風機OK。鍵は今、確かに締めたよ」とつぶやきながら。

哀れな奴だと思う方がいるかもしれない。でも、とりあえず、僕の「老い」はさておくとして、記憶や確認にはこうした体と連動させてさせることが昔から行われてきたのであって、あながち哀れなことでもない。いやむしろ、社会では大事にされてきたやり方で、駅員さんや電車の運転手さんはその典型であろう。学生時代にデパートでバイトをした時も、「お客様からお金を預かった時には、必ず(例えば五千円預かれば)『五千円お預かりします』と言いなさい」と教えられた。これは店員と客の双方の誤りを防ぐ方法である。

体との連動ではないが、受験生が歴史の年号を語呂合わせで覚えるのも、何かと関連付けて覚えようとする点においては、その必死さは僕の哀れさと何ら変わらないとも言える。
いい国(1192)作ろう、鎌倉幕府」は、もう使えないようだが、「鳴くよ(794)鶯、平安京」とか。でも、関連というのが難しい。「鳴くよ鶯、平安京」も、僕たちはかつて「泣くよ坊さん、平安京」と覚えた。桓武天皇が道鏡ら僧侶の横暴を排除するために奈良から京都へ都を遷したことを考えれば、その方がより関連付けられる。それがいい語呂合わせなのか、下手な語呂合わせなのかは、そうした関連の深さによるのだろう。

話がコロコロ変わるのをお赦しいただきたいが、古文単語ではそうした関連性を持たせて語呂合わせを作るのが難しい。生徒は英単語より古文単語の方が記憶しにくいというが、語源やその語の本来的な意味と結びつけても案外記憶を刺激しない。
例えば、「つきなし」「つきづきし」という語を教える時、「『つく』という言葉は『ぴったりくっつくフィット感』だから、『つきなし』にはそれがなく、『つきづきし』にはそれがある」と説明して、「隣の奴とくっついていたいか顔を見てごらん」とまで言って印象づけようとするが、覚えてくれない。
「『つれなし』は『連れ無し』で、内面と外面に関連がない、すなわち、内面で鬱屈したものがあってもそれを表に出さずに『平静を装う』」と説明しても、これも入りにくい。

かつての同僚が「あさまし」(意外さに驚き呆れる)という語を生徒に教える時に、「いいか君たち、朝起きたらベッドの前にマッシーっていう怪獣がいたんだ。あさ、マッシーだよ。驚き呆れたね、と覚えるんだ」と言っていた。なんとばかばかしいと思うかもしれないが、これが不思議なことに、結構一発で生徒の頭に入っていく。そうすると、語呂合わせという記憶術には強烈なインパクトや楽しさも必要になって来る。

文法でも、助動詞「べし」の意味を「スイカトメテヨ」と覚える伝統的な覚え方も入りやすい。推量・意志・可能・当然・命令・適当・予定の頭の一字を取っただけだが、転がっていくスイカを一生懸命追いかけていく「絵」が思い浮かんだりする。
また、助動詞「り」の接続(サ行変格活用をする動詞の未然形と四段活用をする動詞の已然形(正しくは異論がある)の下につく)を覚えるのに「サ未・四已」で「さみしい」と覚える。これも入る。僕が高校時代に使っていた参考書には女の子が人形を抱ながら泣いている絵が添えられていて「リカちゃんはサミシイの」とあった。
「ばや」という終助詞も自己希望を表して「~たい」という訳をするが、これも「バヤリースを飲みたい」という古典的な覚え方があって、これも入る。伝統のある語呂合わせには、やはり力があるなあと思ったりする。

自分でもいろいろ考える。願望の終助詞には他に、「てしがな・にしがな」「もがな」「なむ」がある。自己希望を表す「てしがな・にしがな」は自己希望で「しが」が中心になっているので、「バヤリースを飲みたい」を真似て、「志賀(滋賀)に行きたい」と覚える。
もがな」は、実現不可能な(存在)願望で「~があったらなあ・いればなあ」が主な意味なので、宝くじにひっかけて「10億円もがな」と覚える。
「なむ」は他への願望を「~てほしい」という表現で表すが、未然形に接続するということが他の「なむ」との識別上大事なので、「何(なむ)とかしてほしいミゼラブル」と覚えるとか。

まだ、考えた。勅撰和歌集が古今集から新古今集まで八つ作られて、これを八代集というが、これを「公金の五千万円を横領して、家の周囲の守りを五重にし、金曜日しか深呼吸ができない」という文脈で、「公金(古今集)の五千(後撰集)をくすね、周囲(拾遺集)五重(後拾遺集)、金曜(金葉集)しか(詞華集)せん(千載集)深呼吸(新古今集)」としてみたり。
あるいは漢文で文法に無縁に返変される文字を返読文字と言うが、これを覚えるのに「多少の難易の有無のために、所ジョージと詠み返す」という文脈で「多少の難易の有無の為に、所ジョージ(従・自)と読み返す」としてみたり。
漢文の句法で「不敢A」は「強いてAしない」でさほど重要ではないが、漢字の順序が逆転して「敢不A」となると「どうしてAしようか、いやAしない」という反語表現になるということが重要なので、これを「敢不(カンフー)で反抗(反語)する」としてみたり。

ただ、もうひとつ大きな問題があって、それは語呂合わせで覚えたはいいが、それが何を意味しているか覚えていないという現象である。「スイカトメテヨ」は覚えていても、「スイカトメテヨ」が何を表しているかを忘却してしまうことである。
「奉る」という語は、➀「与ふ」の謙譲語・②謙譲の補助動詞・③「着る」「飲む」「食ふ」「乗る」の尊敬語という三つの用法を覚えなければいけないが、③の尊敬語が覚えにくいため、これを「衣・食・乗」の尊敬語として覚える覚え方があるが、「衣・食・乗」は覚えたが、それが何を覚えたのかを忘れてしまうのである。
猫や犬が餌をどこかに持って行ってKeepしようとして、でもその隠し場所を忘れるという、これはその類いである。

虚しくも、でも、こうした営みや忘却が人間的で面白いと僕は思ったりする。

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