見出し画像

第97話:ちゃちゃ先輩が負けた理由

これはひょっとしたら、18禁でお願いしたいかもしれない。
辻仁成のエッセイ集『そこに僕はいた』の中に、「ちゃちゃ先輩が負けた理由」という話がある。
ちゃちゃ先輩というのは、辻仁成が高校時代に入っていた柔道部の先輩で、ムチャクチャに強く、またムチャクチャに硬派な人物である。いまどき硬派などということばは死語になりつつあるが、むくつけき容姿、柔道に対する厳しさ、口下手、不器用、硬く一直線だが、それでいて、いやそれゆえに、どことなく愛すべき存在と書けば大まかな人物像はつかめるだろうか。

そのちゃちゃ先輩の高校最後の試合のまさに直前に、忌まわしく、またユニークな、その事件は起こった。試合までにはそこそこの待ち時間があったが、その間を利用して、もう一人の高田という先輩が、昨夜自分が体験した女子大生との武勇伝を部員たちに披露していた。
その話は臨場感に溢れ、微に入り細にわたり、しまいには実況再現まで始まった。部員たちも興味津々、我を忘れ聴き入っていた。
そのときである。
「高田!」というちゃちゃ先輩の怒号が響き渡った。神聖な、しかも最後の試合の前、緊張感をなくすような淫らな話に夢中になっている一同にちゃちゃ先輩の一喝が飛んだ、とみんな一瞬、激しく恐れた。

ところが、である。

だいぶ長くなるが、ここからは本文を引用させてもらうことにする(一部削除)。

 ところが、ちゃちゃ先輩は少しの間をあけて、こう言ったのである。
「高田、お前はいったいどこに入ったんだあ。」
 函館西高柔道部の部員たちの間に一瞬、ざわめきが起こった。僕は、ちゃちゃ先輩が何を言っているのか最初理解することができなかった。高田先輩も分からなかったようだ。
 僕たちが皆、ポカンとしていると、ちゃちゃ先輩は不思議そうな顔をしてまたこう言ったのである。
「高田、俺はお前がその女子大生のどこへ入ったのか知りたいんだ。」

 つまり、こういうことである。ちゃちゃ先輩は、その硬派さのゆえ、十八歳になるその日まで女性に膣なるものがあることを知らなかったのだ。
 他の先輩たちが、それから試合のはじまるまでの間(中略)必死になって説明していたのを、後方で見ながら、僕がどれほど笑いを堪えたか想像していただきたい。
「ちゃちゃ、じゃあお前、今まで子供はいったいどこから生まれてくるって思っていたんだ。」
 高田先輩がまじめな顔をしてそう質問すると、ちゃちゃ先輩は、目を点にして、こう答えたのである。
「肛門からじゃないのか?」

その日の試合で、西高はベスト8に進出できなかったことは言うまでもない。大将だったちゃちゃ先輩は、試合開始後、一分で寝技に持ち込まれ、何を想像したのか、下半身を押さえたまま、敗れてしまったのである。
畳の上でうずくまり、くやし涙にむせぶ先輩を僕は今でも忘れられない。高校生活最後の試合だったのだ。本領を発揮することができず、頭の中を埋めつくした女の謎の部分に翻弄された彼を、誰が責めることができよう。帰りのバスの中では、皆、下を向いて、言葉を交わすものもいなかった。ちゃちゃ先輩は一人、最後列の席にすわり、ずっとうつむいていたのである。

僕は硬派にあこがれた。その不器用なる男の生き方にあこがれた。あの鬼のちゃちゃが流した涙は、僕にとっては美しい宝石のようなものとして、今も心にやきついている。

佐々木ひとし、通称ちゃちゃ。彼は卒業後、警察官になった。

辻仁成『そこに僕はいた』「ちゃちゃ先輩が負けた理由」


僕はこれを図書館で偶然手に取り、読んだのだが、思わず周囲の静けさに響くほどの大声で笑ってしまった。
と同時にちゃちゃ先輩の純真さに目頭が熱くなった。旧き良き時代への郷愁が沸き起こったのかもしれない。

若さとは自分の内なる真水をひたすら清明に生きることかもしれない。
異性とはそのとき、霧の中の湖のように、未知の神秘の輝きを放つものであればよいのかもしれない。
何だか清々しい思いになって、つい紹介してみたくなったのである。


■土竜のひとりごと:第97話


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?