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第6話:あと10円が「ない」

学生時代、やけに金のない時があった。と言って、それが金のある時があったということを意味しているわけではなく、だいだいはいつでもピーピーしていた。

ざっと当時の生活を振り返ってみると、下宿代が1万6千円、光熱費と何やかんやで大体2万5千円の支出。食費、雑費が1日1000円として1カ月で3万円。それだけで収まり切れない分を5千円として加えると、全体の合計が6万円ということになる。当時の仕送りが6万円であったからそれで仕送り分がピッタリとなくなったわけである。

ただテニスをやっていたので、1日1000円で食費を切り上げるのは難しかった。靴やウエアーやラケットがダメになれば買わなければならなかったし、大学生ということで酒の付き合いもせねばならなかった。そんなこんなを考えていただければ、いかに僕の財政が逼迫していたかがお分かりいただけるかと思う。

服など買える余裕はなく、秋風が冷たくなるころには学生服を着て大学に通っていた。アルバイトをしようにもテニスの練習の関係で時間が取れず、試験や盆、正月の長期の休みを利用して稼いだアルバイト代は、年4回ある合宿やもろもろの遠征費に消えてしまった。

だからスネかじりと罵られようが仕送りの親の金に頼らざるを得ず、ノートに1日の支出を書き並べながら仕送りの日を待ち焦がれて毎日を過ごした。仕送りを2、3日前にして5百円位しか残っていないことも多く、貧乏をぼやきながら暮らしていたのである。


さて、ある時、仕送りを受け取り下宿代と借金を払ったら4千円しか手に残らない時があった。

借金といっても別に不埓な生活をしていたわけではない。遠征の最中に雨が降りその分の宿泊費が余分にかかり、また神戸の大学を迎えて定期戦をしていたのだが、その2泊3日の応待(飲み会)のための費用が3万円ほどかかっていたのである。

4千円しか残っていないということに、最初はさほどの現実感もなかったのだが、一週間分が1000円、一日にならすと140円と思い至った時、パニック状態に陥った。簡単に言うと驚いたのである。

どうしようという当然の疑問が胸に沸き起こったが、それで暮らすより外に手はない。そこで、仕方なく3000円を持って買い物に出掛け、米、徳用スパゲティ、マカロニ、ジャガイモ、ニンジン、キャベツ、シチューのルーなど、とにかく長持ちしそうなものをギリギリ一杯買い込んだ。

これである程度までの生活が保障されたことになるが、手元にある現金が1000円というのは実に心もとない。1日平均33円しか僕の自由になる金がないのである。「金がない、食うものがない」という状態は決して心を豊かにはしない。いつでもどこかに欠落したものを背負っているようで落ち着かない。被害者意識、嫉妬、疎外感などという感情が思わず湧き起こって来たりもする。

例えばその月の後半、とうとう金が尽きて僕は本を売り始めることになるが、古本屋はどんなに僕が大事に思っている本でも二束三文でしか引き取ってくれない。あるいは売れないと思った本は頑として買ってくれない。
その日も「これは200円、こっちは3冊で500円、こっちの5冊は買えない」などと古本屋の店主は小さくなっている僕の前で品定めをした。「いくらでもいいから買ってくれ」と食い下がるが、店主は首を縦にふらない。「ああそうですか」と僕は憤慨して店を出、しばらく歩いてその売れなかった本を道端に捨ててしまった。やけになっていたのである。愚かなことであった。


話をもとに戻そう。さて、食糧品を買い込んだところから僕のこの月の生活が始まるが、まずシチューを鍋一杯作り、それを冷蔵庫に入れておき、少しずつ温めてはご飯を炊いて食べた。そればかり食べていると飽きるのでパンにシチューを付けて食べ、またスパゲッティーにシチューをかけて食べた。

そんな風にして数日過ごすとシチューが底をついてしまったので、しなびかけたキャベツとニンジンと玉ネギで野菜炒めを作った。延々とまた数日、野菜炒めの日々。野菜が底をつくと今度はジャガイモを砂糖と醤油で煮た。肉も何も入っていないイモだけの肉ジャガ

それでもまだ料理が出来るものがあった時はよかった。ジャガイモが尽きてしまうと僕に残されたのは、僅かな米とパンとスパゲッティーとマヨネーズと生ノリ(忘れもしないが永谷園のゴハンデスヨ)だけだった。
仕方なく、ご飯にマヨネーズスパゲッティーにゴハンデスヨといった日々が続くことになる。ご飯にゴハンデスヨは当然としてもパンにマヨネーズのおいしさには感動した。食パンにマヨネーズをつけオーブントースターで焼くのだが、あの香ばしい匂いは何とも言えない。諸氏におかれてもぜひやってみていただきたい。

ただ悲しいことにマヨネーズはすぐに尽きてしまったのである。後にはご飯とゴハンデスヨが残り、ご飯が尽きるまで、ちびちびとゴハンデスヨをつけながら食いつなぐことになるのだが、3000円で買ったものがすべて尽き果てたのは、こんな生活を始めて3週間が経過しようとするころだった。


飯を食わないというのはヒモジイものである。特に運動をしている身に、それはこたえた。一日3食が、やがて2食となり1食となって行く。更に全くなくなってしまうのだが、まだコメのあるうちは昼メシが何としてでも食べたかった。テニスは大体毎日4~6時間の練習を午後にやっていたから、一日一食は苦しかった。

それで、朝、握り飯を作りそれを学校に持って行った。これも最初のうちは梅干しを中に入れノリを巻いたりしたのだが、ノリが切れると塩だけで握り、梅干しが切れるとカツオブシに醤油をまぶして入れ、そのカツオブシも尽きてしまうと例のゴハンデスヨをオニギリの中にちょっと添えた
そういうオニギリを人前で食べるのは何となく気が引けて、昼メシ時になるとコソコソと誰もいない講義室で食べたりした。ある時、そのオニギリをある女子に見つけられてしまったことがあった。彼女は覗き込むようにして「あらいいわね」と言う。何が「いい」のか分からなくてキョトンとすると、「彼女に作ってもらったんでしょ」とニヤニヤしている。
何だか腹が立って「冗談じゃない。俺が作ったんだ。俺に彼女がいるわけがない」とだけ言ってその場をスタスタと歩み去ってしまった。あの時あの女の子は僕のそうした態度をどう思っただろうか。きっと何が何だかわからなかっただろう。

それに引きかえ男友達達は実に敏感であった。ちょっとした挙動で「あいつには金がない」ということが分かるようである。この時も2週間が過ぎるころから幾人かの友達が声をかけ、1000円札を差し出してくれた。普段から金に困るとお互い助け合っていた仲であったし、そうすることが当然である暗黙の了解も自然に出来ていた。
しかし何故かこの時、僕は意地を張ってしまった。何か惨めなものをふと感じてしまったのだと思う。それで「俺は金はあるんだ」と根も葉もないことを言うと、当然すぐ見破られて「お前、それは水臭い」と1000円札を押し付けてくるから「大丈夫だ」と押し返すと「そうかぁ」と友人は諦めてズボンのポケットにしまい込んでしまった。
「大丈夫だ」と言いながら未練は残り、もう一回勧めてくれても良かったのではないかなどと恨めしくも思ったが、この期に及んで一体何にこだわって意地など張ろうとしたのか、不可解でもある。
本当に困ったときには、なかなか「助けて!」と言えないものである。


そんなこんなで金も食料も尽きてしまったのだが、そういう生活を続けていると奇妙な衝動に取り付かれるものらしい。

ある晩、突然わけもなく缶ジュースが飲みたくなった。

ちょうど6月の暑くなり始めたころだったせいかも知れない。喉が焼け付くような炭酸飲料が欲しくてたまらなくなってしまった。
一度そういう想いに取り付かれるとなかなかそれをふりほどくことが出来ない。だんだんにその想いが強くなって行き、最後にはそれはそうならなければいけないものとして頭の中に君臨してしまう。何をしても缶ジュースのことしか思い浮かべられないのである。

当時は、缶ジュースは100円時代に入って間もないころだったが、下宿の前の酒屋の自動販売機には一本だけ70円のキリンレモンが入れられていた。
70円くらいならあるかもしれないとゴソゴソ探してみると、コロコロと60円までが案外たやすく見付かった。

ところが、あと10円が「ない」。机の中を引っかき回し、タンスの中を調べ、洋服のポケットもすべて探ってみたのだが見付からない。置いてある本のページもめくったが、ない。

「だめだ、諦めよう」と思っては、「いや10円くらいどこかにあるに決まっている」という気持ちに衝き動かされる。ほとんど必死になっている自分をひょっとしたら馬鹿かもしれないと思いながら、2、3回も調べたところをもう一度、もう一度と調べ直している。

何故僕には10円がないのだろう

必死の抵抗むなしく最後まで10円を見付けることは出来なかった。
いたたまれず、むなしくやるせなかった。これが徒労というものであろうと僕は思った。もし神がいるのなら呪いたい気持ちに駆られたが、僕に最後の10円を与えてくれず、しかも60円までを見付けさせ、生じっかな期待を抱かせた神は、ひょっとしてその名を貧乏神というのではないかとこのごろ思ったりしている。


さて仕送りを4、5日後に控えたある日、僕はダウンしてしまった。その日、下宿に帰ろうとして踏切の前で電車の通過を待っていると、突然辺りがサーッと白くなってそこにヘタヘタと座り込んでいたのである。
体がだるく頭が重い。布団に転がって、あと5日大丈夫だろうかと散漫な頭で考えていたが、テニスはやらなくてはならないし周囲の友人に迷惑をかけるよりはと10円持って親に電話を掛けに出掛けた。仕送りを早めてもらおうと思ったのである。

電話に母親の声が聞こえ、元気かとか何か話をしようとするので、
「今10円でかけているから用件だけ言うから」と言い置いて、
「早めに金を送って欲しい」と言うと、
「そんなにないの」と聞くから、
「そうです」と言うと、
また何かいろいろしゃべろうとする。
「もうすぐ切れるから」と念を押すと、
「電話代もないのか」と聞くから、
「そうです」と答えると、
「馬鹿、そういうときはもっと早く電話をしなさい」とオフクロが言った瞬間に電話が切れた。

ホッとしたと同時に、親のありがたさ、親の金で大学に行かせてもらっていることの重みを今更のように思った。
時には反抗し、時にはうるさく思い、たまらなく家を離れたいと思っていたが、家を実際に離れてみて親に支えられていなければ自分はあり得なかったと思うことが出来ただけでも一人暮らしさせてもらってよかったと思ったりした。経験しなければわからないことはたくさんあったのである。


今の大学生は家賃だけで5〜8万円くらいは出て行ってしまうのだろう。受験と下宿生活の準備だけで300万円かかると言う人もいる。高校生は「仕送りは月に最低10万円欲しい」などと言うが、単純計算すれば4年間48か月で基本的な生活費は480万円、学部によって違うが、例えば、入学金25万円、学費年間100万円+α×4年・・・そうして考えれば、大学を一人出すまでに優に1千万円がかかる。
それは、今の僕の年収よりはるかに高い。留学でもすれば・・。あるいは、大学生が兄弟姉妹で二人以上いれば・・と想像してみると、親がどんな思いかわかるかもしれない。
そんなことも高校生諸氏は考えてみるといいのではないかと思う。

「メシを食う。それは大変なことなのだ」と。


(土竜のひとりごと:第6話)


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