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Missing Piece

古代ギリシャの喜劇作家にアリストファネスという人がいて、彼は、人がなぜ恋をするのかを考えた。

それによると、かつて人間は手と足が四本ずつあり顔も前後に二つあった。要するに今の人間が二人一緒になった合体人間であったわけである。その人間のパターンには、男男、男女、女女の三種類があったということなのだが、能力は今の人間の倍、360度見え、八本の手足ですばやく動き、いたずらばかりして困らせていた。

これに神様が腹立ち、懲らしめのために人間を二つに割り、その能力を半分に減らして悪さができないようにしてしまった。半分に割って縫合した痕がヘソであり、本来ヘソは背部についていたが、神様が懲らしめのしるしであるヘソが常に見えるように、人間の顔をグルッとまわし、ヘソが見えるようにした。こうして今の人間が出来上がったのである。

以来、人間は神様によって割かれた自分の半身を求めるようになった。男男だった者は男同士を、女女だった者は女同士を、男女だった者はそれぞれ異性を。これが人が恋をする理由だというのである。

男女の恋だけではなく、Gender and Sexual Minority までその守備範囲に入れてしまうこの説明はなかなか感心に値するもので、その昔、自分が男男だったのか、男女だったのか、女女だったのかなどと考えてみるのも楽しい事かもしれない。無論、喜劇作家一流の想像力によるものであろうが、どこか説得力のある話に仕上がっているところがおもしろい。



とりあえず恋の話は置いておくが、この話は人間が自分に欠落したものを求める悲しい存在であることも物語っているようにも思われる。男が女性のやわらかさを求め、老いが若き情熱を懐かしむ。壮んな者が安らぎを愛し、平凡な生活が激しさへの憧れを抱かせる。

自分に欠落しているもの。それは失ったものであるかもしれないし、自分にない未知のものであるかもしれない。外へ外へ、人間は触手を伸ばしてゆく。

またその一方で、人間は自分の内奥へ深く旅してゆくものでもある。自分を欠けているものと意識し、それが、何かを求めさせる。おのれの欠落感=存在の渇きを潤したい衝動といっていいものが、人間の中にある。


だいぶ古いが、シェル・シルヴァスタインに『The Missing Piece』という絵本(邦訳:倉橋由美子訳『僕を探しに』)があった。

絵本といっても白黒の線のみで書かれたもので、絵本らしくはない。主人公はただの○(円?球?)。○の端のほうに点が打たれており、それが目。ただ、○は完全ではなく、三角に欠けていて、ちょうどそれが口に見える。ゲームをかじったことのある方はパックマンを思い浮べていただければ、イメージとしてまず間違いない。

これが、「何かが足りない。それでぼくは楽しくない。足りないかけらを探しに行く」というわけで、コロコロと転がってゆく。苦難にも会い、でも、時にみみずと話をし、花の匂いをかいだり、海山を越え、歌いながら愉快に転がってゆく。

やがて、かけらを見つけるが、拒否されたり、合わなかったり。ぴったりしたかけらにも出合うが、落としてしまったり、壊してしまったり----。

そうしてある日、やっとのことで探し求めていたかけらに出合う。喜び勇んでかけらと合体し、完全な○となって、転がってゆく。気持ちがいい。

でも、----。あんまり調子よく転がるので、みみずと話をすることも、花の香りをかぐことも、蝶にとまってもらうこともできない。歌も歌えない。

「なるほど。つまりそういうわけだったのか」と、彼は転がるのをやめて、かけらをそっとおろし、一人でゆっくり、また歌いながら転がっていく。「ラッタッタ。さあ行くぞ。足りないかけらを探しにね」と。

これで、このお話はおしまい。人間が自分の Missing Piece を求め続ける存在であり、人生がそれを探す旅であることの暗喩であると読めばいいのだろう。しかも、一度かけらを見つけた<ぼく>が、それを自分から放棄し、欠落した自分に戻って、更にかけら探しの旅を続ける。

そこに理由は書かれていない。「なるほど。つまりそういうわけだったのか」と書かれているだけである。自分という未知に向かって問を投げ掛け、問い続けることそのものの中に生きる意味がある、あるいは、欠けているからこそ人間なのだとも言えようか。

もっとも訳者は解説で「そういうことをある時期に卒業して大人になるのが普通の人間なので、いつまでも自分の Missing Piece を追いつづける、というよりその何かがないという観念を持ちつづけることが生きることのすべてであるような人間は、芸術家であったり、駄目な人間であったりして、とかく特殊な人間に限られる」と書いている。

この青臭い問に、僕はこだわってみるのだが、僕は芸術家にはなりえないから、「駄目な人間」なのだろう。それで「無用者」という語の響きを再び懐かしく思ったりするわけで(もしよろしければ、下に貼っておきましたのでお読みください)、「そこに価値はないか」と、これもまたいたく素朴に再び考えてしまうのである。

道長は「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んというが、彼とは友達になれそうな気がしない。


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