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第76話:呼ぶことと呼ばれること

くだらぬ話だが、僕は結婚当初、カミさんのことを何と呼べば良いのかさんざんに迷った。それまでは知り合ってから6年間、苗字で呼んでいたため、結婚と同時にその呼び方に行き詰まったわけである。

名前で呼べばよいではないかと思われるかもしれないが、そう呼ぶのはなんとなく気恥ずかしくもあり、ひとつ年上のカミさんを呼び捨てにするのも気がひける。

そこでカミさんに相談すると「『順ちゃん』って呼べばいいじゃないの。職場のオジサン達はみんなそう呼んでたわよ」とあっさり言ってのけてくれる。しかし「順ちゃん」などと口が裂けても呼べるはずはなく、結局「おい」とか「ねえ」とかで済ますことになってしまっている。

カミさんにはこの呼び方はエラク不評で時々家庭争議のもとにもなるのだが、ほかにうまい呼び方がどうしても思い浮かばなかったのである。

そう言えば、高校時分の先生がこんな話をしていた。

授業をしていて、ある問題を提示し生徒を指名して行ったところ、当てる生徒、当てる生徒がみな「分かりません」と答え、何だか段々と怒りが沸いて来て「こんな簡単な問題が答えられないか」「次」「次」「次」…と生徒を当てて行くと、その「次」に当たった生徒がすっと立って、
「先生、僕は『次』ではありません」と答えたそうだ。

一瞬、先生はたじろいだということだが、自分という人格が「もの」のように扱われることに対して怒りを感じるのは正当なことであろう。
カミさんもきっと「私は『おい』ではない」と思っているに違いない。

しかし、子ども目線で「おかあさん」と呼ぶのも、そう呼んでいる自分を想像すると、これがまたちと面映ゆい感じがしないでもない。
妻を呼ぶ、こんなささいなことですら実に難しいことなのである。
おかしいだろうか。

ところで、多分、5歳のころ、突然息子が僕らのことを「おとうさん」「おかあさん」と呼ぶようになった。当たり前ではないかと思う方もおられようが、それまでは「とーたん」「かーたん」と呼んでいたのであって、これは幼児期、サ行の発音がうまくできずに、「とうさん」と呼ばせたところ自然「とーたん」になってしまっていたのを、幼稚園に至るまで引きずっていたのである。

いざ「おとうさん」と呼ばれてみると何だか照れ臭いような気もしたが、しかしこうなると不思議なもので呼ばれる僕の方も「とーたん」から「おとうさん」にならざるを得ない。父親なんだという実感が改めて起こって来たりもした。
「とーたん」と呼ばれていた時代には、こう言っては何だが、どこか親子ごっこをしているような気分があったのだが、「おとうさん」と呼ばれると、そこはかとない親としての責任を感じたりしたわけである。

人に呼ばれる、あるいは人を呼ぶということは簡単、単純のようでいて、実はそれなりに微妙なものなのかもしれない。
僕らは毎日だれかを呼び、まただれかに呼ばれている。

僕はカミさんに「あなた」と呼ばれ、息子には「とうさん」と呼ばれ、親しい人からは「ツッチー」と呼ばれ、このあいだは女子校生に「おじいさん」と言われてショックを受けたりもした。社会的には「先生」などと呼ばれたりもする。
僕は僕でしかないはずなのだが、それぞれの呼ばれ方に僕の違った責任や役割があり、呼ばれた人との関係がある。

人から呼ばれることにも、人を呼ぶことにも責任がある。そう思うと「呼ぶ」という作業がにわかに大事に思えたりもして来たりもする。

話の脈絡がなくて全く申し訳ないが、以前勤めていた学校でこんなことがあった。

職員室で仕事をしていると一人の男子生徒が近寄って来て、「先生お仕事中失礼します。ちょっとよろしいでしょうか。」と言う。
別にたいした用でもなかったので「いいよ」と言うと、その生徒が突然「先生、先生は『先生』と呼ばれるのがお嫌いでしょうから、僕は先生のことを『土屋さん』と呼びたいと思うのですが、いかがでしょうか」と言う。
一瞬唖然としたが、「そう呼びたいのならそうして下さい」と言うと、「それではそうさせていただきます」と言って去って行った。

今でもその生徒の真意は僕にはよく分からないのだが、先生と生徒という立場から逃れて人間として対等であることを望んだということになろうか。変な生徒だったが、おもしろい生徒であった。

 呼び方ひとつにも、いろいろなことがあるものである。

(土竜のひとりごと:第76話)


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