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コミュニティの運営にリーダーシップは必要か

私は水戸で「本拠地」というコミュニティスペースを運営している。

拠点という構想は、実はゲームから来ていて「幻想水滸伝」という私の大好きな作品の世界観が元になっている。

普通のRPGは、主人公の仲間たちは全て戦士や魔法使いといった実践向きの人達しかでてこない。
それは敵を倒すという目的があって、そこに向かう戦力になるからだ。

でも、幻想水滸伝に出てくる108人の仲間たちは年齢も性別も違う。

特別なスキルを持った人だけでなく、普通のおじちゃんおばちゃん、はたまたモモンガなども仲間になる。(しかも5匹いる)

主人公は旅をしていく中で、何か悩みや不満を抱えた仲間と話をし、思いを伝え、共に生きましょうと拠点に誘うのだ。

その人たちが拠点に来て何をしているのかというと、いたって普通の生活だ。

みんなの服を洗濯していたり、賭け事をして遊んだり、お風呂を作ってみんなを癒したり、ひたすら地図を作っていたり、農地を耕してみんなの食料を育てていたり、貴重品を預かる倉庫番だったり・・・
確かに、最前線の戦闘には、普通の生活は不向きかもしれない。

直接的な支援ではなくてもそんな人たちが陰ながら支えてくれるから、主人公たちはみんなのために戦えるのである。

物理的な距離が遠くても、実質そこに参加できなくても、思いがあればチームとして機能し、人々を巻き込んでいく。

いらない人なんていない。
これは、なにもゲームだけの話ではない。

ビジネスやプライベートに限らず、自分が何かやろうとした時、そこには必ず誰かの支えがあったはずだ。

日常は当たり前に存在しているけど、その当たり前を作っている人がいるから現実は動いていて、対象を変えてみると体や心や物事全て「ある」ものは誰かの力によって維持されている。

目に見えるものだけを評価の対象にしているとそれは見過ごしてしまうほど小さくて、些細なことかもしれないけれど。
人生にはたくさん分岐点があって、ステージが変化したりすると見える世界も変わる。

世界は何も変わってないのに、自分の視点が変化することで見える範囲が変化していく。

そうすると、自分は誰からも必要とされてないんじゃないかとか、自分には何もできないとか、誰も認めてくれないとか、足元がグラグラするような感覚に襲われることもあるだろう。

いくら人から「あなたは素晴らしいものを持ってるんだよ」と言われても、何より自分が自分のことを信じられない。

ではどうやって確立していくのか。

それは、「在る」と信じてとにかく動くことだと思う。
経験が自己肯定感を強くする。
その機会、場所や環境、人や情報をつなぐのが本拠地の役割だ。

リーダーが不在でも思いで人は動く。
足元がグラグラしていては、前には進めない。

だから、本拠地という基盤が、後ろから体を支えるために存在する。

支えがあれば、一歩足を踏み出すことができる。
体力を回復するために、休むことだってできる。
そこに必要なのは、圧倒的なリーダーシップではない。

確かに、運営にはリーダーが必要なのだがリーダーはあくまでその理念を広める広告塔で、発信源。
ぶっちゃけいうと思いを話し続けるだけでよいと思っている。

理念が空気となり、場を維持してその思いに感化された人々が集まり行動する。
それがグループと言う形になり、いつしか共通理念のもとチームとして一体感が生まれ、目標や夢が実現していくのだと思う。

茨城県水戸市にて2007年から個人事業に従事、2015年に独立。2021年にsoratobunezumi合同会社で法人化 4人の子育てをしながら泥臭く歩いてきたから分かることを発信/ 肩書なくつながるコミュニティスペース「本拠地」と「本拠地ギルド」の生みの親