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教育と学びの違い

宿題はなぜやらなくちゃいけないんだろう?
なぜ小学校から英語教育、そして道徳が必修科目になったり平均的・集団的な行動と思考で統一を図らなくちゃいけないんだろう?
やらなくても良いことをやるのはなぜなんだろう?
どうして学校に行かなくちゃいけないんだろう?

そんな疑問はあるけれど、一方でどこに行っても平均的に安定した学習ができるという意味では日本の教育は最高峰にいるのかもしれない。
おそらく、これ以上勉強の情報を詰め込んだところでデジタル化に対応できる人材は難しいのではないかと思う。

今現在、学校で限られた人数の先生で対応できるのは教育まで。
その先の「学び」まで繋げられる時間も人も確保できないのが現状だ。


「学びとは、技術などを計画的に習い、学ぶこと。経験を通して知識や環境に適応すること」
「教育とは、教え育てる。望ましい状態にさせるために意図的に働きかける事である」


そう、教育と学びって同じようで本質が違う。

学びをやろうとするにはベースとなる教育も必要で、でも教育だけでは「指示されたことしかできない」状態になる。
それを考えると、義務教育の教育期間でどれだけ学びの時間を取れるのかが重要になってくるが、4人の子供達を見ていてもかなり個体差があるなと思う。

今の子は社会に出ても、言われたことしかできない。指示されないと動けない。と非難されるけどそれって教育は完璧だったということ。
「学び」になるような経験が昔に比べて圧倒的に少ないのかもしれない・・・

放課後遊ぶにも、お互いの親の承諾がないと遊べないとか、公園に行ってもボール遊び禁止、同学年の子供とのふれあいしかない。
そこで上下関係やトラブルが起こっても、それを外から打破するような他年齢の子がいない(良い意味でのジャイアン)安全な遊びしか経験できない。

今の子が置かれている環境は、常に責任の目がつきまとうような窮屈な環境なのかもしれない。

じゃあそこをサポートするために、地域や団体や保護者、内部から変えたいと思っている人はどうやって向き合っていったらいいのかな。
私の場合、自分が動けるのは家庭をベースにした地域コミュニティの範囲だ。

小さな種が芽吹いていって、地域から子供にとって良い環境を作っていくことが私の課題かな。

茨城県水戸市にて2007年から個人事業に従事、2015年に独立。2021年にsoratobunezumi合同会社で法人化 4人の子育てをしながら泥臭く歩いてきたから分かることを発信/ 肩書なくつながるコミュニティスペース「本拠地」と「本拠地ギルド」の生みの親