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本当の望みとは何なのか

望むことはなんだろう。

いつか上司に聞かれたことがある。
「お前は結局どうしたい?」
それでふと我に返った。
わたしはどうしたいんだろう。
その答えがわたしには分かっていなかった。
現状の嫌に思えることは黙って我慢はできないのに。
じゃあそのあとにどうなればいいのか。
その答えを不思議なほどに考えもしていなかった。

みんなと同じでいたい。
いわゆる「普通」でいたい。
何かしらマイナスに思える出来事があるたびにいつも自分の特性を、障害を思ってしまい、そしてその度に心底「普通」でいたいと願ってしまう。

でも反対に、自分には何も得意なものがないとも思う。

人と違うものがほしい。
人よりできるものがほしい。
私は何もできない。
みんなのように何も。

「普通」を願いながら「特別」を望む。

物事は受け取り方次第だとは思う。
どんな出来事もプラスにもマイナスにも受け取れると。

みんなに優しいは八方美人。
自分の意見が言えるはでしゃばり。

だから全員に好かれることはできなくて
つまりは合う合わないの話なんだとは思う。

とはいえ、多くの人に好かれる人、嫌われる人がいるのも事実で、わたしはその嫌われる側にいつもいる。
幼いころは、それがどうしてなのか分からなかった。
気づけばいつも嫌われている。
嫌われるほどに人との関わりを求めて、関わるほどに嫌われてしまう。
わたしはいつも距離感を掴むことや自制ができなかった。
嫌われてでも、相手にされることを求めていた。

全てが障害のせいではないと思うけれど、でも根本にはやっぱり障害の特性があって。
何も分かっていなかったわたしは、暗闇の迷路の中にいるように、ずっと逆走をし続けていた。

「普通」を望みながら「特別」を望んでしまうわたしが望むことはなんだろう。

それはきっと、好意の感情なのではないかと思う。
幼い頃からみんなにはできているように思える人との関わりが、わたしにはとことん苦手で、人に好かれることはわたしにとって「特別」なことだった。
兄は人に好かれるタイプで、そんな兄に張り合おうとするのにわたしは嫌われてしまう。
そんな自分のことが、わたしは自分でも大嫌いだった。
他人だけでなく、わたしもわたしのことが嫌いになっていた。

嫌われ続けた先には何があるだろう。

いつからかそう思うようになった。

まるでゲームのように
わたしはわたしを操っているだけのように
本当のわたしではないようなそんな感覚を覚えるようになった。
そしてその感覚は、次第に「わたし」と「わたし」の間にズレを生じさせるようになった。

わたしはわたしではないのにわたしから抜け出せない。
わたしがわたしであることに気づいて気持ち悪くなってしまう。

わたしはわたしを他人に感じるようになっていた。
その感覚はいまだに時折感じてしまう。
一時期はその感覚のせいで薬が増えたこともあった。
薬を飲んだところでその感覚がなくなることはなかったけれど。

今は他人に感じると同時に、自分の中に幼い自分がいるのを感じるようになった。
最初に自分の寂しい気持ちを押し殺して「大丈夫」と言ったころから少しずつ切り離してしまった自分がそこにいるように。
甘えたくて、泣き虫で、寂しがり屋の幼いころの自分がそこにいるように感じるようになった。

わたしはまだ障害受容はできないでいる。
こうしようと思ったことでも暴走してしまうこともあるし、人との違いを、ズレを感じてしまうことが毎日のようにある。
それでも特性を知っていく必要を感じるようにはなった。
知らないことには、対処できないから。

他人から好かれることが必要ではないことだとは思わない。
だけど、最重要なことではないと思う。
もちろん、周囲の人に嫌われている状況は生きづらい人生を尚更生きづらくさせる。
わたしも人に好かれたいと思う。

ずっと周りから嫌われて、わたしもわたしを嫌いになっていた。
いなくなればいい。
嫌われて当然の人間だ。
そう思っていた。

だけど。
自分の1番そばにいるのは自分だ。
人から好きになってもらうためにも、わたしが好きになれるわたしを目指したいと思う。
具体的な人物像はまだ描けないけれど、なれない自分を夢見てしまうけれど。
それでも少しでも自分を受け入れられるように。

自分が嫌いだと、その攻撃性が周囲の人にも向いてしまうから。

出会ってくれてありがとう。
出会ってくれて嬉しいです。

たくさんいる人たちのなかで、出会ってくれた人たちに、一緒に過ごしてくれた人たちに、幸せでいてほしいと思う。
そして私も幸せになりたいと思う。

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