見出し画像

ツイッター界隈の話

発達障害の特性なのでしょうか。
それとも認知の歪みなのか分からないけど、わたしは「○○なら○○しないといけない」といったこだわりをもってしまう。
それはネットでも同じように。

元々、ツイッターは何年も前から利用していた。
リアルの繋がり、ネットの繋がり、それはもう色んな人と繋がったアカウント。
ネットでの知り合いも、もう10年を超える付き合いのある人や、オフ会で会ったことのあるような知っている人との繋がり。
鍵アカにしてあり、わたしのなかで、「わたしの周り」という小さな世界だった。

その認識が変わったのは最近のこと。

アカウントを作る目的を、定めて作ったことがわたしには間違いだったのかもしれない。
ツイッターを知っているからと、わたしは全く知らない界隈に手を出してしまった。
継続力もないのに、継続することを目的として。

その界隈は、とにかく頑張っている人が集まる界隈だった。
みんなで励ましながら。
みんなで支えながら頑張ろうとしている界隈だった。
ある目的のために、みんなが頑張っていた。

最初は同じように頑張ろうと思ってはじめたアカウントで、しかしわたしは長年ツイッターの限られた世界しか知らなかった。
界隈によってこんなにも違うことさえも。
わたしはぬるま湯に浸っていただけだった。

元々、ネットには慣れていた。
リアルと違って都合よく自分を偽れて、リアルよりも仲良くなれることも多々あった。
ネットは視覚が強い私にとって目で確認できる。
そのことがわたしには過ごしやすかった。

最初はおなじように頑張ろうとして、色んな人と繋がっていった。
次第に仲良くなって、一緒に励ましながら過ごしていた。
しかし、わたしはあまりにもその界隈を、ツイッターを知らなさすぎた。
数ヶ月で何百人、何千人と繋がるようになり、わたしはもう誰とどんな会話をしたのか、そもそも話したことがあったのかさえ把握できない速度だった。
それでも、ただひとつの目的のために繋がった人たちだった。

色んな人がいて、色んな人と仲良くなれて、楽しい世界。

その世界が辛くなった理由はたったひとつ。
わたしはみんなが頑張っている「目的」をがんばれなかった。
続けようとすればするほど楽しくなくなって、つらくなった。
別の記事にも書いたが、わたしは自信があまりにもなさすぎた。
みんなと同じだったはずの目的が、みんなと同じ場所にいたいから、に変わった段階できっと違っていた。

わたしのこだわりだけの部分は大いにある。
実際に気にしなくていいとも言われたこともあった。

それでも
フォロワーをのばす人が多くて
インプレッションを気にする人が多くて
有益性を気にする人が多い世界は楽な世界ではなかった。

元々人と比較してしまう性格だったわたしは、だんだんとフォロワーの数を気にするようになり、忙しいときやしんどいときもインプレッションを気にして止めることができなくなった。
頑張っている人を見ているだけでも疲れてしまうのに、頑張れない自分を責めるようになった。

前向きな発言がいい、ネガツイはしちゃだめ
行動力のある人が伸びる

気にしなければいいものを、全て自分に言われているようでどんどん卑屈になっていった。
そうしてわたしはみんなと同じ目的を失った。
一緒の目的の人と繋がる界隈で、わたしはもう新しい人と繋がることができなかった。
繋がることが、怖くなってしまった。
それどころか、繋がっている人との関わりさえ、有益性を与えられないわたしは、ただ時間を奪っているだけなのだと思うようになっていった。

わたしはそこまでがんばれる人間じゃなくて、前向きでも行動力のあるタイプでもない。

個人個人で好きな人たちはたくさんいる。
尊敬する、人たちがたくさんいる。
そんな人たちと出会えて良かったとは思う。

ただきっと、わたしは頑張っている人たちのなかでがんばれないでいるにも関わらず、その人たちの成功を素直に喜べる自信がないことも本音で、がんばれない自分を責める材料にしてしまうことが分かる。
半分以上を演技の自分でいる。

今はまだ、関わりたい人たちがいる。
そう思ってその界隈に顔をだしている。
しかし、わたしはいつまでその界隈にいることができるのだろう。
「いたいからいる」
そうできないわたしは、割り切れないわたしは、きっと、長くこの世界にいることはできないんだろう。

たくさんの人たちがいなくなっていく。

その界隈で言われることばの意味を、繋がることさえ止めてしまう意味を、わかってしまう気がしている時点で、わたしはもう長くこの界隈にはいることはないんだとおもう。

いなくなることで、大好きな人たちの成功を妬まずに羨ましがらずに、喜べるような気がしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?