マガジンのカバー画像

掌編、短編小説広場

128
此処に集いし「物語」はジャンルの無い「掌編小説」と「短編小説」。広場の主は「いち」時々「黄色いくまと白いくま」。チケットは不要。全席自由席です。あなたに寄り添う物語をお届けしたい… もっと読む
運営しているクリエイター

2021年5月の記事一覧

掌編「お茶にしませんか」

 毎日お仕事、お疲れ様です。最近、あなたは本当に頑張っている。春も、あんなに懸命だったのに、今月に入って、風が気持ち良い季節だからって、あなたは嬉しそうに笑って、毎日出かけて行く。けれど、そんなに一生懸命なあなたのことが、時々、心配です。  先週のこと、あなたは一度寝坊しました。あなたが寝坊するなんて、一緒に暮らして初めてのことです。いつもの時間に起きて来ないから、少しだけ気になって、それでも今日はゆっくりで大丈夫なのかなとも思ったけれど、そんな話は夕べ聞かなかったし、これ

読み切りよりみち「真瑠ちゃんは自分の手を知らない」

※長編小説シリーズ「よりみち」の番外編です。時系列で云いますと「よりみち・二」と同時期です。「よりみち・二」を読んでいなくてもお楽しみ頂ける内容です。 読み切りよりみち「真瑠ちゃんは自分の手を知らない」  りか子と真瑠が一緒に住み始めて一年以上が経っていた。二人で二度目の夏である。少しずつ彼女との二人暮らしに慣れてきた様子の真瑠は、それと同じ丈りか子へ懐いていた。これはりか子にとり只々嬉しい副産物であった。  先日の休みには二人で水族館へ行き、りか子の部屋にはペンギンが

掌編「いっぽ、にほ、かっぱ」

 会ったのか、と問われると、いやあ、どうなんだろうと首を傾げる。ただ、居るのか、と聞かれたら、うんと頷くしかない。  はっきり出会った訳では無いと思うのだけれど、知らず自分の海馬をすり抜けて、脳の片隅に、漠然と居座っている、記憶の様な、思い出の様な、一種の懐古の様なものがある。それが河童である。序に告白すれば鬼に対しても同じ事が云える。出会っていないと云い切れないのは、どれだけ過去を遡っても曖昧だからである。突き詰めようとすると暈される。掴もうとすると躱されるのだ。  ず

「食の風景・春の刺身定食」ー掌編ー

「いらっしゃい」  暖簾を潜ると威勢の良い声が飛んで来た。早くも期待が昂る。  会社の取引先へ寄った後、ついでに昼飯を食べて帰ろうと周辺をうろついてみて、偶々見つけた一軒の食堂。かろうじて食堂とはわかるけれど、古い建物で、入ろうかどうしようかと一寸だけ躊躇した。だが案外こういう場所に旨い飯が待っているものだから、思い切って扉へ手を掛けたのだ。  かつお出汁の香りが店内に充満していて、空腹を刺激する。先程威勢の良い声をかけてくれたのはカウンターの向こう側に居る主人のようだ

掌編「五月五日の擦り傷に誓う」旧タイプ

 君が初めて笑った日の事を、僕は一生忘れないよ。 「パパの馬鹿ぁー」 「ごめんって」 「あっち行けー」 「だからごめんって、今度は放さないから」 「嫌だぁもう帰るー」 「今来たばかりだよ」 「嫌だぁー、ママー」  敷物の上で赤子を抱いてこちらを見守るママに手を伸ばす君を見て、僕はすっかり弱り切ってしまった。  僕ら夫婦に初めての子どもが誕生したのは四年前だった。産まれたての小さな男の子は、噂に聞くよりも真っ赤だった。そして噂に聞くよりも何億倍も可愛かった。目を閉じたままぎ