孤独な専門生の夢想《自由と制約》

人は制約の中で生きている
時間的な制約、資源の制約、常識の制約
制約があるからこそ、生きる意味があるのだろう、私はそう思う

例えばゲームでチートを使い色々な制約を取っ払った状態を考えて欲しい、全てが満たされている状態だ、バトルゲームであれば全ての敵をワンパンできたり、HPが無限で減らないなど、そんなチートを使った事はあるだろうか?
そんなチートを使うと最初は面白いが、すぐに飽きてしまうのだ、私が考えるに『ゲームというのは制約により成り立っている』ババ抜きなどでもそうだ、一枚ずつしか引けないという制約があるから、ゲームとして成り立っているのだ、引く枚数に制約がなければゲームは成り立たないだろう

こう言ったようにゲームは制約によりなっている。私達の人生から時間や寿命、お金や常識色々な制約を取っ払ったとしよう、その先には人々の幸せはあるのだろうか?

私自身生活で人々が気にしている無駄な制約があるのを感じる。例えば礼儀やマナー、倫理観や常識、この制約は意味がないと思っている。
むしろ私達のゲームをつまらなくする要素だと思っている。何でもかんでも制約があれば楽しいというわけでもないという事だ、いらない制約、いる制約、ゲームのおもしろさはその制約のバランスによって保たれているのだ

社会基盤がしっかりすればする程、人の生活は制約だらけになってくる。
縄文時代とかでは制約は少なかっただろう、〜をしてはいけない、そんか状況は今と比べると物凄く少ないだろう、人が自由に生きれる時代そう考えているが、人々が今生きがいとしているようなものの多くは存在しない、制約はないがゲームなどはない、それは制約があるからこそあるようなものばかり、制約と自由は逆の考えだとしても、楽しさと制約は遂になっているのだろうか、ゲームの話のように「制約があるからこそ楽しくなり、生きる意味に繋がる」と考えたりする

自由を求める私だが、自由とは制約を取っ払う事なのか?自分が自由に制約をかける事も自由の一つなのではないかとか、考え始めるとキリがなかなってくるであろう、、、


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