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それでも私は私が存在することを許すのか?

「お金の話」をしていたら、実は1月末に出すつもりだった感じのよもやま栗ばなしの新刊が出なくて、2月も終わろうとしていますね。

Twitterでも絵とnoteのリンクの貼り付けくらいしか喋んなくなって、実際の栗は何をしているのかというと日に日に健康になっていってます。

近所の山に登る習慣をつけようとして1週間以上経つのですが、ものすごく足腰が頑丈になりました。

200メートルくらいならジョギングのペースで走れる。

以前まで走るなんて無理だったのに!

私の骨盤には今も金具が入ってるし、それはきっと一生そのままなのだけど、それと右脚の違和感。

大腿骨を骨折したのでそこにもなんか金具が入ってるかもしれん。

走ったりしていると、右足だけがアンバランスに疲れ始めてしまったり、走ろうとしても体の重心が全く安定しなくて倒れそうになったりで非常にデンジャラスだった、以前まで。

さて気がつけば2023年、長い時間とともに私は…また死に向かおうとでも言うのか。

早い話なんだけどもう今年の年末に旅行の予定が入ったりしていてね、そうこうしてるうちに姪も甥もどんどん大きくなるし、私がこの世からおさらばする引き際がどんどん遠のいていくのです。

真剣に考えたんです、私は何をするべきで、心の底から何を欲する?
どうすれば悔いのない人生になる?

そこで答えとして思い浮かんだのが「引き際がよくて安らかな死」。

ここまで社会的に自殺ってものが迷惑な存在じゃなかったら、私はどうしたか…どうもこうも、私が「死ぬ!死んでしまうぞ!」となってからまだ1週間程度しか経ってない。

生きて生きて、生き延びればきっと穏やかな日常が待っている。

一回死ななくちゃ分からなかったんだよな、私は。

自分で自分を誇れる生き方をしてる人はみんなヒーローですね。

私がやってるのは仕事ではないし、私は結局もう一生働きたくないって思ってるし、中年引きこもりだろうがニートだろうが、社会的な分別はもうどうでもいい。

雨風しのげる家と、食べるものをください。

それとずっと家にいると気が滅入るんで外にも遊びに行くし、ある程度自分の好きにできるお金がないと暴発してむしろ無駄遣いします。

それでも私は私が存在することを許すのか?

許せなかったから飛んだんだし、私はそういう判断をする人間だ。

ただ私が急にいなくなることは、それはそれで家族(猫も含む)に対しての残酷な仕打ちだし、人道から外れた裏切りだ。

こんなことを考えているからふとしたことで沈む日がある。
私は今年ものうのうと生きていくのか。

そんなよもやま栗ばなしのまとめ☝️

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