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ブランコに乗っている

 家の窓からすぐそこに見える、ちいさな公園。ブランコとすべり台と、なけなしの砂場しかないような、住宅街の中にうずもれた小さな子供の居場所。
 いつも窓から眺めるだけだったそこに、今日、すこしだけ足を運んでみた。

 アスファルトに照り付ける太陽光が暑いけれど、どこかからりとした風が吹いていて、すずしく、こざっぱりした天気だった。お盆がはじまるの今日という日の街はいつもより少しだけ人気がなくて、そのせいだったのかもしれない。盆の昼間は、いつも車やバイクの音がうるさい道路も閑散としていて、どこかスッキリしているようにも思える。
 休日は子供たちの声で賑わう公園も、人っ子ひとりいなかった。細く頼りない木のみきに張り付いたセミを見つけるのに五分かかった。虫の擬態能力とはこんなに優れていたのか、と他人事のように思う。
 それからわたしは、ブランコに乗った。

 久しぶりに乗ったブランコは、すっかり漕ぎ方を忘れていた。体を前後ろに傾けるだけの無為な時間を過ごした後、ふと思い出したように足を振れば、簡単にブランコは強く動き出した。風を受けて、身体が息をしはじめる。大学は夏休みだ。運動不足だったのだろう、と思う。
 無邪気だったかつての自分を思い出した気がした。小さいころのわたしは、ブランコのある公園の前を通りかかると、かならず乗りたがって梃子でも動かなくなるという面倒なこどもであった、らしい。
 ブルーの光に照らされた電子の海と、その波間に漂う評価にばかり目が行って、どこか落ち込んでいる自分とは違う。他人からの目線ばかり気にして、玄関の扉が重くなってしまった自分とは違う。純粋に、その瞬間に起きている出来事を受け止めて楽しめる無邪気な心があったのだ、と思う。子供のころの記憶なんて曖昧なもので、子供心にもきっと悩みはあったのだろう。でも、振り返った今は「あのころは自由だったな」と思うのだ。

 ブランコを漕ぐ。それだけのことで、こんなにもさわやかな気分になれる。自分の人生のオールを漕ぐことも簡単な気がしてくるくらいだ。
 小うるさいくらいのアブラゼミの鳴き声と、夏の涼しい風が、呼吸をした体が、「これが自然体ってことだよ」と教えてくれたような気がした。

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