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小説智恵子抄


佐藤春夫 1957

「あんまりいいお天気だから、わたし空を探しに行ってきましたのよ・・・・・。」

「年少の読者が詩集『智恵子抄』を解読のためには多少の役立つところのあるのも疑わないし、また原詩集がわが解釈の不備で傷つくはずのないのを信じ、安んじてこれを上梓する」

高村光太郎 1883〜1956
高村智恵子 1886〜1938
高村光雲 1852〜1934 その弟子米原雲海

「智恵子抄」1947・1950
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。

佐藤春夫は1917年に谷崎潤一郎と親交を深めた頃から小説を書き始めました。「小説智恵子抄」は1956年から一年間、雑誌「新女苑」に連載された小説です。佐藤春夫と高村光太郎との出会いは1910年まで遡り、1956年の光太郎の死まで交友は続きました。

高村光太郎と長沼智恵子との出逢いから小説は始まり、・・・晩年を精神錯乱のうちに過ごした智恵子が、昭和13年10月5日夜、光太郎の手を握りしめながら、53歳の生涯を終えるところまでを描いて終わります。

1911年「青鞜」創刊号の表紙は長沼智恵子が描きました。
高村光雲の息子「高村光太郎」との出逢い。
高村光太郎が結婚を決意したのは、智恵子の後ろ向きの裸身をとらえたから・・・。
二人で上高地を訪れていたこと。

光太郎が前から約束してある智恵子のいう「ほんたうの空」を二人で見ようと思ったこと・・・。

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