TCGの好きな所について

度々、「自分がカードゲーム(TCG)を続けている理由は何か」という事を考える。

無論、ゲームをプレイする事そのもの、そして勝つ事が楽しいから、というのは根底にあるだろう。デッキを作る事、プレイングを工夫する事、環境を考察する事。そうした競技的な「上達」もしくは「攻略」に面白さを見出している時もある。

一方で、美麗なイラストや深遠な世界観に心揺さぶられる自分もいる。幼少期、ゲームの遊び方すら覚束無い原初の体験において、カードゲームという遊びをオンリーワンなものとして強く印象付けたのは、その世界観の魅力ではなかったか。そして、それは今でも変わっていない。

あるいは、他人と交流するツール(ホビー)としての役割。元からの知り合いと遊ぶ事は勿論、ゲームを介して知り合った同好の士と語り合うのはとても楽しいし、カードゲームがそうした機会を生んでくれる所に惹かれている部分も間違いなくあるだろう。

しかし、改めて今の自分がカードゲームにおいて一番熱中できる瞬間を考えてみると、これは間違いなく、「未知のカード・デッキを見た」時だ。
正確に言えば、それはただ新たな情報をインプットする事ではない。
それまでは何ともない、てんでバラバラな要素としか思っていなかったピースを完全に繋ぎ合わせたパズルを見せられ、それらが実は最初から全て繋がっていた事を理解する事。その瞬間にこそ最も興奮を覚えるのだ。

自分自身、僭越ながら「デッキ(リスト)の解説」と題した文章を書く事がある。
こうした文章を書く度に抱くのは、そのような「全てのピースが当てはまったパズル」とも言えるデッキに対して、その内容を言葉を尽くして説明しようとするとは何と無粋で、何と無力な事であるかという敗北感である。
優れたデッキリストは凡百の言葉よりも雄弁で、何よりもそこに至った軌跡を克明に語る。
リストを見ただけで「このデッキが行いたい事」の全てを叩き込まれる衝撃、これを味わいたいし、味あわせたい。
それこそが自分のカードゲームにおけるモチベーションの源流とも言える。

また、それはデッキリストに限らない。
プレイヤー側のパズルがデッキだとするなら、メーカー(デザイナー)側のパズルはカードテキストそのものだ。

カードの能力・効果というものはある種の類型で定められている。つまり、大半のカードは似た能力の組み合わせによって作られているという事だ。
だからこそ、共通した能力を持つカード郡には共通したフレーバー性が生まれ、それらに含まれない特殊な能力を持つカード郡には特殊なフレーバー性が生まれる。
こうした数多あるテキストをゲームの背景にある物語に絡める、あるいは物語からこれらの特殊なテキストを生み出す事に成功しているカード達に、私は芸術性すら感じてしまう。
それらはただ単に物語を再現しているだけではない。
カードゲームはあくまで対戦ゲームであるから、カードテキストは物語を描くツールとして活用するだけでなく、そのカード自体が面白い新奇性を備えていなければならない。
ゲームとしての面白さ、プレイ体験の新しさ、デザインの整然さ(煩雑さの排除)、約束事の遵守という機能的特徴を前提としながら、更にその上に物語的特徴を加えているからこそ、カードはパズルとして機能し、プレイヤーに美学を感じさせる。

結局の所、このようなプレイヤー側のデッキリスト・メーカー側のカードテキストという双方のデザイン的美学を新鮮に味わい続けられる事が、自分にとっての「カードゲームに固執する理由」と言えるのだろう。



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