トマトを投げた
20代前半最後に何か残したかった。
普段写真に写らない私には生きた記録があまりに少なくて、欲しくなった。
ただ、他の被写体さんのような綺麗な顔も色白な肌も美しい魅惑的なスタイルも持ち合わせていない。
その上中身だって、内界も自他の境界も外面のコーティングさえ破砕されている現状。
可憐な花などとても添えられないと感じた。
ならばいっそ、その在りのままを、ぐちゃぐちゃに晒して表出してしまえ。
それでふと思い立ったのがトマト。
振り返ってみると物心つく前から野菜嫌いだった私が唯一好きな野菜がトマトで、今も梅干しに並ぶ好物だ。
2歳の頃には庭で菜園していたプチトマトのまだ青い実を勝手に食べて渋い顔をしていたというエピソードを親から散々聞かされた。
私はトマトと共に育ち生きてきた。
話は少し変わるけど、5月頃から酷い鬱状態にある。
本来の私の意思とは反する、病状の一種と認識してはいながらも人生を終わらせる日取りを先月には決めるなどしていた。
具体的な手段も。珍しくガチなやつだ。
その日はあと少し先の予定。
突然消える訳にもいかないから周囲に伏線として状態を伝えた。
そしたら沢山の人が気にかけてくれて、拾われて日々が繋がれ始めた。
少し落ち着いた時間を取り戻す中で
「25歳になったらバニーガールになりたい」とか「26歳の夏に26歳の夏休みを歌いたい」とか、そんなよく分からない希望が私の中にあった事を思い出した。
だから撮影が決まった後、命の代わりにトマトを投げよう。本当にそれで済むかは分からないけど、そういう覚悟で臨もうと決めた。
愛して来たから。それはきっと自分も同じ事で、同一だと思った。あの瞬間、自分をトマトに投影して、ラブホの浴室で命を潰して全力で投げた。
撮影後は肉体も精神も深く抉られたような感覚でぐったりとしていた。今もまだダメージが残っている。
私は私を殺せたのだろうか。或いは殺しきれなかったのだろうか。
カレンダーに書いた決行日の予定は未だ消せずにいる。
けれどなんだかんだでこの先も生きていくのだろう。
何より被写体の経験はとても新鮮で楽しかった。
自己表現は苦手だが、引き出してくれる人の存在に今までも救われてきた事が脳内に過ぎる。
秋にはバニーガールの姿で公園を駆け回っていたい。
2021/7/14
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