日記:価値観の迷子:「キリスト教思想への招待」と「ボヴァリー夫人」を並走読書して思うこと
もう0 時過ぎ。シンプルに…。
ポリタスTVで青木理さんが、今の日本の向かっている方向について「ハリボテ軍事国家」と言う言葉を使ったけれど、本当に神経系の乱れた人体のように、色々なことが(すでに随分前から)狂っていて、それが表面化していると感じます。
身近な人にちょっと水をむけてみると、返ってくる言葉になかなか理解できない発想があったり、例えば。。
「(近い将来の生活地盤低下に対して)もうわたしら、その頃には死んでるからええわ」(→あなたの孫はその時代を生きるのですが)
「なんか、私は大丈夫という気がするんだよね」(←そうだとしても、否応なしに困る人のことは気にならないのかな。。)
本音は言葉通りではなく「政治」とか「社会」(←括弧を付けたことが大切)に対して目を向け(させられ)ることに本能的な忌避感があるのかな?と思ったりします。
「キリスト教思想への招待」と「ボヴァリー夫人」
そういったなか、読書は「キリスト教思想への招待」と「ボヴァリー夫人」をこの2週間、併走しました。
「キリスト教思想への招待」が述べているように、よい看板は悪の隠れ蓑になることは前提の上で、それでもキリスト教が人々にもたらした公共精神は羨ましかったです。
そして「ボヴァリー夫人」主人公のエマが抱く様々な憧れ(自己不全感から逃れようとする衝動)の中に、敬虔な求道者になりたいというものがあったのも興味深く読みました。美しい建築や荘厳な儀式の持つファッション的な魅力はもちろんですが、一つモデルとなる規範がちゃんとある社会ということかなーと。
翻って例えば自分自身に目を向けた時、「こういう風に生きたい」と思える何かがあるかしら。と思ったわけです。
もっともそういった規範が「なくてはいけない」とは思っていません、憧れは良し悪しが紙一重で、非常に危ういものだと感じているからです。不安定な状況から抜け出そうとして何か「確かなもの」縋る行為には、大きな落とし穴があるだろうと思います。
今は価値観の迷子状態を御しつつ暮らせています
なのでそういった用心をしつつも。
ともかくも今の社会が西欧社会を模して作られているのに、それを支える精神が全く違うのなら(多くの「識者」さんが語るように)機能不全になるのは当然のことでした。
冒頭にご紹介した身近な人たちの言葉も、私も含めて価値観が社会の中で迷子になっているということかもしれません。
友人の1人はすごく味わい深い言葉を伝えてくれて
「そういうこと(世の中の状況)を知ると、生きていけなくなる気がする」
確かになあと思います。
ともかくもまずは自分ができること、ついやってしまうことから始めるのがおそらくベストで、本を読んだり考えたりするのが好きな私は、まあこうやって読んだり考えたり、ちょっと人をつついたり、そういう生き物なのでしょう。
キリスト教の本を読んでいますが、早晩、日本の文化や民俗、また東洋思想についての本にも戻りたい。どっちも面白いのですよね。
また一方で、今はまだ「そういう余裕もある時期」ということを慄然としながら考えます、例えば端的に介護が始まるなどしたら、一気に暮らしが(経済的なことはもちろん、時間的にも)苦しくなるわけで、そうしたら、そういったことができるのかしら。できないんじゃないかと思います。
さらには、私は今日ガスコンロの掃除をしたけど(大掃除の先取り)そんなこともできなくなるのではないかと思います。
さてもう書き始めて1時間たってしまった、だいぶん取り留めないですね。
寝なくては。おやすみなさい。
(日記:2022年12月3日)
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