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わたしの愛読書

執筆に煮詰まってしまった時、開く本がある。
国書刊行会「山尾悠子作品集成」
なんと8800円もするのでクリスマスプレゼントとして買った。

私が山尾悠子を知ったのは、自作の1編の詩からだった。

画家の東山魁夷の絵から着想した作品を、とあるサイトに載せたら
感想を頂いた。下記はその時の詩全文。

森がある。湖に樹々が投写されている。
一頭の真っ白な馬が走っている。いや、歩いているのか?
咀嚼できないほどの圧倒的な絵画が、目の前にある。
大きなものではない。手に取れるサイズなのだ。
「彷徨っている」に近いのかもしれない。
まっさらな世界を駆け抜ける馬は、その両の目で、何を垣間見ているのか知りたい。
わたしの包帯はまだ取れないけれど、景色だけは見える。
この両眼もあの馬の目も同じ目なのに違う景色を見ているに違いない。
彼方に来まいしようとする魂よ、わたしの中に戻って来て欲しい。
荒れ狂う嵐の中、行き着く島のように。
さらにわたしは飛躍して明日を見よう。
そこには広がった世界があって、穏やかさが、この狭くなった世界でさえ生き残っている。
停滞した(静止した)場所で、いがみ合うことの愚かさが人々を変えていく。
音楽を奏でる時に、必要なテンポの指示が彼によって違うように、人によっても生きていくテンポが違う。
わたしは常にLentoで歩くことを息をすることを望む。
望むだけであって本当は違うのかもしれない。いいや、違うだろう。
昔々のこと、蜻蛉のように生きていくことが理想だった時期もある。

月光読書より

「山尾悠子を想像させました」

私は知らなかった。その山尾悠子という作家を。
調べたら短編が多い作家で幻想小説家だという。
絵画から着想した作品もある。

「なんだ、やってる人いるんだ。」

そんな生意気な感想を漏らし、似ているといわれ嬉しくなって、さっそく読んでみた。

最初購入したのは「飛ぶ孔雀」だ。これは何といっていいのか、わからない。
はっきり言って、何をいっているのかわからなかった。
たぶんこれを好むのは哲学趣向なのだと思う。
でも魅力的だ。その文体にすっかり嵌まった。
幻想作家とは、こんなものを書くのかというお手本になった。
私もこんな作品を書きたいと思った。

そして未だに書けないけれど、冒頭にも書いたように、自分がどうしたいのか、何を書きたいのか、わからなくなった時、この人の作品を読むようになった。
すると不思議で、この人に影響された文章というものがでてくるわけもなく
はっきりと自分の心にわき出てくる言葉というものが見えてくる。

まさにマジックだと思う。この人の作品は魔術がかっているのだ。
あと、漢字のふりがなにも特徴があってセンスを感じる。
使っている漢字にもこだわりが滲んでいる。
これは真似できないと思った。これはこの人の宝なんだ。
言葉の宝。そんなもの持ってみたい。

読みやすい作品に「ラピスラズリ」がある。これはおすすめ。

ショートショートの作品集で難しいことはない。
どれも不思議な話で、夢中にさせる力を持っている。
中にある「がまの秋」という作品がある。
この中に使われている単語が、物珍しくて、何度も辞書を開いた。
そこ漢字使いますか?に、「抽斗」というものがある。
これは普通に「引き出し」にしない。この二文字で作者は読者を独特な世界に導く。山尾悠子の確固たる世界にのめり込むことになる。

いつも思うけど、目標にしたいけどできない作家だ。聖域といってもいい。
それでもマジックで私は力を得る事ができる。
それは時に詩だったり、小説だったり、日常の感じ方だったりする。

自分がわからなくなった時、打ちひしがれてしまった時、なさけなくて小さく感じた時、そこで背中を押してくれる、または慰めてくれる作品がどれだけあるだろう。私にはそれがあってよかった。

ただ、それでも辛い時がある。本を開けないほど悩むことがある。
そんな時は、山尾悠子作品を手にもって、または机にのせてぼけっとする。それだけで力をくれる。不思議な本。

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