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瞑想の道

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真我を探究する瞑想において、自らの内に真我を実証していく。それは知識と瞑想が重なり合って深遠なる真我を理解する道。
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2024年4月の記事一覧

瞑想の道〚09〛真我への道

 真我実現には二つの道があるといわれている。ひとつは探求の道であり、ひたすら自らが真我であることを目指す道だ。もうひとつは、すべてを真我に明け渡す道であり、熱烈な信仰によって真我到達を目指す道だ。結局はどちらの道でも真我実現に至るのだが、はじめに難しくあとで楽になるのは探求であり、はじめに楽であとで難しくなるのが明け渡しだと感じる。明け渡しの道がそう思えるのは、自我の問題をどうやって解決するか曖昧な点にある。修行者はすべてを真我(あるいは神や聖者)に明け渡したと言うかもしれな

瞑想の道〚08〛思考の意味

 瞑想中の思考を問題視する人は多い。多くの場合、瞑想者は思考を邪魔な存在だと思っている、瞑想中に思考がなくなれば、いい瞑想になると思うのだ。そう分かっていても、思考をなくすことは困難を極める。しかし、瞑想中の思考には重要な役割がある。瞑想中に思考がなくなることは、実はあまり良い状況とはいえない。例外的に、真我自体になっているときには思考は起こらない。真我には活動がないため、そこで思考は起こりようがないのだ。ここでの問題は思考ではなく、焦点ということになる。焦点とは何なのか。瞑

瞑想の道〚07〛私と真我

「私は誰か」の探求の結果として、「私は誰でもない」という答えに行き着くことがあるが、これは半分正解で半分間違っている。「誰でもない」という言葉の意味が、どんな自我でもないということであれば間違いではない。しかし、自分とはただ自我を失って存在しているだけということであれば、もう少し探求を深めていく必要があるだろう。問題は「私」という言葉の取り扱いだ。「私」という言葉には、どうしても自我の匂いがつきまとう。そのため、あえて「私」という言葉を排除しようとする方向になりがちだ。実際に

瞑想の道〚06〛自我の場所

 悟りの修行において自我を拒絶する方法があるが、これには疑問がある。自我を消し去ろうとしたり、忌みすべきものとして排除することによって悟りが得られると考えているのなら、それは再考する必要があるだろう。自我というものは、身体であり心であり、パーソナリティーであり、その記憶などによって成り立っている。人々はそれを自分だとして生きていて、その個々人によって社会が形成され、社会活動が営まれている。それを一括りに拒絶し排除しようとすることは無理があることであり強引過ぎるきらいがある。た