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幸せのはじまりは

けさも、ところどころに雪が残っていて、3日連続とは相当寒いのだなぁ、と思っている間に陽が差してきて「放射冷却」なのか、と合点がいった。きのう不幸のはじまりを書いたので、幸せのはじまりにも言及しないと年の瀬に不吉になってもいけないのでちょっと書いてみる。幸せはひとの数だけと表現されるが、案外そうでもない。ヒトには生命を維持するための恐怖心や怒りが備わっていて、ソレを感じないで安心していられることが幸せの基本だから、これを社会にあてはめれば、安心=平和ともいい換えることができる。つまり、生命の危機とは反対側のマトリクスに位置していると無意識に感じられているのが幸せで、無意識とは意図を持たないことだから、ああしたい、こーしたい、ソレが欲しいと希求するのは幸せの条件にはなり得ない。そんなのはたいしたことではないのだ。だから、なりたい自分になるための努力とか、ほんとうの自分を探そうとか、そんなものは無駄なことといってもいい。まぁ、逆説的には、そんな無駄をして、結果、そう気がついたのだから無駄な経験はありませんなぁ、というのは良いとして…気づくとは意識に上がることだから、大脳で分析することにもなる。そっちは本来の機能としてはノーマルでフラットではないし、無意識でない、わたしが在るのは幸せを阻害する要因なんだと極論することもできる。

わたしたちは、陽が昇れば朝がきたとホッとする。暗闇は怖いし、何か起きやしないかとハラハラしてアドレナリンが出る。意識していないのに自動で制御されている。わたしは生きているが、わたしじゃない無意識が生かしてくれているのだから、本体はむしろそっちで、もし、地球全部のひとが、そんな感じで意図を持たずにただ平和に暮らしていれば、植物たちの世界観になるのだろう。えぇ、そんなの嫌だ、面白くないと思ったひとは大脳の欲にまみれた考えが基本になっているから、いくつになっても落ち着かず、(大脳で考える)幸せになろうとしてちっとも幸せではいられない。そう、幸せはなるものではなくて、その状態に在るということだから、形を求めてもつかむことはできない。

いつも、こんなことばかり説明していると、屁理屈ですかと聞かれそうだが、もう何十年もそんな問いかけをくり返してきて、やっぱり、どう転んでもそうだよな、というところまできた。アンチエイジングがもてはやされる時代だが、好きな年齢に戻っていいといわれてもごめん被る。また、この数十年をくり返すなど勘弁して欲しい。今の自分がいちばん幸せだと思っている。そう感じているのだからありがたいし、まぁまぁ結果オーライ的に生きてくることができたなら◎だろう。
岡潔先生によれば、無意識のわたしたちの本体「情」には時間や空間の制限もないから、生老病死をくり返してきた個の歴史のすべてが、錦織なす巻物のように記憶され、縁起に触れて巻き戻したり広げたりして「情緒」が現れる。これは、ああだこうだ分析できない、一瞬のうちにハッと去来して、言葉のいらない、植物や獣や昆虫でさえも万物と共有共振している。幸せの根源はそんなところ。

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