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より深く知ること...

 意識がいくつもの階層になっていて、といってもミルフィーユのゼブラ模様ではなくて、入れ子の🪆外側ほどより大きい領域に、大は小を兼ねる(包括する)みたいなイメージですが、
どんどん外側に進むに従ってより俯瞰するような…やっとひとつ繰り上がったと思ったら、それはその上の層の最下部でしかない、カッキリ、ここからがこの界層ですなんて入口や区別はない。また、ちがう喩えるとするなら、色のグラデーションが濃い→だんだん薄くなる様といいましょうか、成分は同じでも密度がちがう、荒い→細かいって感じで、いわゆる極彩色のカラーにはパワーを桜の花弁のように淡い色にはより繊細さがありますね。

当然、淡いもの繊細なものを聴き分けるには、こころも耳も澄ましていなければわかりません。色を耳で聴くとは、禅問答のようですが、観音様は音(衆生の嘆き)を観るといい、ヒトが亡くなる時には、最期の最後まではたらいているのが耳の聴くちから、だから、名前を呼び感謝やねぎらいの言葉をかけて最期を見送るように、淡いものを見分けるには、それ以外の五感やもっと奥の「情」を共振させて感じなければわからないのでしょう。1つのセンサーより、2つ3つをマルチに操作する方がより真実に近づくというような…観るのも聴くのも同じ、分ける・知る作業をしているわけです。

 すると、そのわかり方は、知識や理性で判断しているのではない。ハッと一瞬にしてこころに去来する電波みたいなもの、または、何か見えないけれども同調して、一瞬、全体とつながるような感じに、瞬時に✨ですから判断する間もないわけです。
あるいは、熟達した職人さんが、スケールで測れないほど繊細でもっと正確な感覚を全身全霊で駆使しているような…いとも易々とやっいて、凡人には出来ない、といいますが、熟達するまでやっていないだけで、センサーは誰にでも標準装備されているはずです。磨けば光る、使わない感覚は衰える、必要のない機能は退化する、何に興味を持ち必要性を感じて精進するか、精進する先は禅の修行には限りませんね。

 「こころと幸せと…」は、岡潔先生の晩年の未出版テキストからインスパイアされたものの見方、意識のはたらき入門編その1.というイメージで書いたものです。ごく浅いと揶揄されるかも、しかし、いっぺんに突っ込んで書くと迷路にはまってしまいますので、いたしかたありません…
見えないし深い、無制限に広がるものを言葉=限界がある、で表現するのは不可能に近いですしねぇ、まぁ、そんなことをいうとはじまりませんもんね。
凡人の認識→みなさまへ、が、たまには役に立つこともありましょう。

世にいう「引き寄せ」が何故✖️か、についても少し触れています。
note 版おまけのおうち薬膳豆知識を付録にしています、感謝を込めて🎁


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